★43:もう一人の招待客 - 1
43話~45話の「もう一人の招待客」は、コンテスト応募対策として不必要と判断した場合、後ほど削除するか、外伝として移動する可能性がございます。
────何もない。
どこまでも蒼くて、どこまでも澄んでいて――。
背中に感じる重力と裏腹に、その中に吸い込まれて行きそうな……そんな感覚。
これを空、とようやく認識出来たのは、一羽のワシが遥か上空を横切ったからだった。
私は、上体を起こした。
少々肌寒いが、新鮮な草の香りが混じった空気がとても美味しい。
……そう、美味しい。
空気を美味しいと感じるだなんて、思いもしなかった。それは、書籍だけの話だと思っていた。
でも、違う。違うのだ。
私は今、この、新鮮な空気という海に漂っている。
口から、鼻から、肌全体までも、空気がすうっと、満遍なく内部へ浸透していくという、感覚。
何もせずとも感じられ、一息吸えば、更にその感覚は深まっていく。
それは、ある種の洗礼のようでもあった。
聖なる何かに身を委ね、特別なモノへと転化するような。
それを、全身で感じ、味わっている。
だから、美味しい、と感じられる。
文字通り、私は新しく生まれ変わった。
そして、世界すらも、生まれ変わったのだ。
私が知る限り、イギリスにこのような、まるでスイスのアルプスのような景色は思いつかない。
ふいに前髪の一房を取ると、それは、理想通りの金色に輝いていた。
……ああ、夢みたいだ。
ここが、プルステラ。
私が、永遠に暮らしていく楽園、なのか。
「うー……ん」
草の上で、ぐっと伸びをする。
その勢いで、身体を曲げて起き上がろうとした時、失われたはずの左足首が、健在だということを知った。
それどころか、見慣れぬ麻のような素材の服と、同じ素材の布の靴に着替えている。
こんな所でこんな格好をしては、確かに寒いはずだった。
でも、人里にいきなり現れるよりはずっといい。普通の人間の暮らしに慣れていない私がそんな所に放り込まれてしまったら、どう振る舞えばいいか判らないからだ。
今は、次第に馴らしていけばいい。まず、この世界のことを知るのが先決だ。
もう一度、この場所の状況を把握すべく、立ち上がって周囲を見渡してみる。
ここは山の麓……いや、中腹らしい。雲がうっすらと目の前に漂っているところも考慮すると、標高は最低でも一千メートルは超えているだろう。
足首ぐらいの高さの草花に覆われた草原が、疎らな針葉樹と共にどこまでも続いていて、なだらかな斜面の先は山に続く山道となっていた。
目を凝らすと、山頂までクッキリと草木や山肌が見える。それだけ、空気が澄んでいるという証拠だ。
低い部分は苔のように緑に覆われている山だが、尖った山頂付近にはうっすらと白い雪化粧が掛かっている。ここから数えて、標高差はおよそ二千メートルぐらいか。
遠くからは、トンビの独特の鳴き声が木霊している。……あぁ、カッコウもいるみたいだ。
絵に描いたような風景。映画やアニメのワンシーンのようで、出来すぎじゃないか、とも思う。
しかし、ちゃんと生きているのだ。空想なんかではない。私が感じて目にしている全ては、直ぐそこに実在している。
もちろん、これらは作り物に過ぎないのだけれど、生きた鼓動は充分に感じられた。
今頃になって気付いたが、目の前にはログハウスが建っていた。
丸太で造られた山小屋といったところか。一人か二人住む程度の大きさだ。煙突もあるので、中には暖炉も備えてあるだろう。庭には、薪を割るための薪割り台まである。
ブレイデンの説明が本当なら、これが私の家、ということになる。家を決めたのは、どうやら大佐の仕業らしいが。
一応、礼儀として拳でノックをしてから、静かに戸を開く。新鮮な、木造の匂いが鼻腔をくすぐった。
……ああ、何ていい香りなのだろう。
おもむろに足を踏み入れると、誰もいない静かな室内に、軽い足音だけが響いた。
部屋は、窓が小さいので若干薄暗い。ひとまず、先にこの寒さを何とかしよう。
着火剤として使用する新聞を、ぎゅっと絞って暖炉に放り込み、ローテーブルにあったマッチを取り、火を点ける。
ほんの数回しかやったことが無い火の点け方ではあるが、こういった些細な知識はエリックから教わっていた。
やがて、火は炎へと転じる。
薪を調整して落ち着いたところで、今度は、天井からぶら下がるランプにも火を灯す。
ほっと一息ついたところで、まずは景気づけに何か飲み物でも──と思ったら、なんと、アンティークもののコーヒーミルやサイフォンまで用意されていた。アルコールランプで湯を沸かすタイプだ。
何から何まで火を使う。今までワンタッチで何でも出来た現世に慣れ過ぎたせいで、不便に思う……どころか、とても楽しい。
私は、コーヒーが大好きだった。よく、子供のくせに、と、からかわれた程だ。大佐はこの事を知っていて、準備してくれたのだ。
……もう一度直接お礼を述べたかったが、それももう、叶わない。
豆を挽き、湯を沸かす間に、今度は、教わった通りにDIPとやらを開いてみた。
インベントリの中には小道具がいくつかと、生活費分と必要経費を足した分のお金。
そして、明らかにこの場に相応しくないモノが一つ。サムネイルの形状は、青い何本もの直線で構成されている模様の入った、真っ白な立方体の箱だ。
名前は「伝書鳩」。取り出してみると、掌ぐらいの大きさがあった。これを、然るべき人物に届けるというのが、頼まれたお遣いの内容だった。
逆に言うと、これさえ終われば、今度こそ自由になれる。永遠の時の中で、ひっそりと暮らしていけるのだ。
この箱がもたらす効果は、きっと、他人事では済まされないだろう。いっそ、無かったことにして静かに暮らす……そういうのもアリかもしれない。
一度転送された魂は、元の身体を処分しても、プルステラに残り続ける。あの雑居ビルから飛ばされた魂だが、実際に居るのは、恐らくバベルのデータベースの中だ。
大佐達はもう、私に干渉することが出来ない。
私がこの箱を破棄したところで、彼らにはどうすることも出来ないだろう。
「……なんてね」
馬鹿馬鹿しい。そんな些細な反抗をしたところで、一体、何になるっていうのだ。
私は別に、大佐を恨んでいるワケではない。かと言って、忠実でありたい、というワケでもなかった。
……でも、エリックのことは、好きだった。
最後まで私の面倒を見てくれた。ずっと、優しくしてくれた。
どこまでが大佐の命令だったのかは判らない。けど、あの人は、馬鹿正直なぐらい正しいことを貫く人間だった。例え、その瞳に別の女の子の姿が映っていたとしても、私を、一人の女の子として見てくれた気持ちは、本心だったと思う。
そのエリックが、妹を一人にしてまで、国のために戦おうとしているのだ。だから、私は、彼を救わねばならない。
そう。大佐ではなく、エリック、ただ一人のために。
――しばらくして、コーヒーが出来上がった。
出来立ての香ばしい匂いを楽しみながら、私はそのモカブレンドをブラックで愉しむ。
新しい身体に、最初の飲み物が染み込んでいく。
新鮮な空気も、木の香りも、私にとってはコーヒーに合う、良い調味料に感じられた。
「……さて、と」
落ち着いたところでこれからの予定を計画する。
「箱」を届けるためには、いくつかの複雑な手順を踏まえる必要があった。
そもそも、このプルステラにいるという宛て先の人物は、具体的に何処に住んでいるのかが分からない。そこが問題なのだ。
さすがのブレイデンも、プルステラの中に誰が住んでいて、などと、バベルのデータベースにアクセスするような真似は出来ない。
彼に出来るのは、私が解析を行ったアークと同様のアニマリーヴ機構……つまり、魂の作成と、アークが収容された海底施設の奥深くにあるログインサーバーへアクセスすることだけだ。
一方、中継機となる「箱」はログインサーバーに逆アクセスし、同時アクセスを試みたブレイデンのPCと接続される。あまりにも強大なトラフィックだと勘付かれてしまうので音声のみの通信になるが、それでも充分だ。
肝心の宛て先の人物だが、ヴァーポルアルミス・ヒストリアと呼ばれるオンラインゲームに出現するらしい。
噂にだけは聞いた事がある有名なゲームタイトルだ。プログラマーやハッカー、ウィザードまでもが集まっているという。
その理由のひとつとして挙げられるのが、ゲームの中枢近くまでスクリプトによる改造が出来てしまうという高い自由度だ。
本来、運営はレッドカードを掲げるべき行為なのだが、元々自由度が高いことをウリにしていたせいで利用規約側も緩く、多少のことはグレーゾーンとして放置してしまっているらしい。
だから、プログラマー達にとっては、タチの悪い「遊び場」として、或いは情報交換の「たまり場」としても利用されている、というわけだ。
十月末頃、この危なげなゲームは、現世のデバイスギアからプルステラのデバイスギアへとプラットフォームを移し、サービスが再開された。
その真意は掴めない。あんなに弄られていたというのに、プルステラでもわざわざサービスを行うという、その理由が。
しかし、そんなことは、私にとってはどうでも良い。
サービス再開のお陰で、ブレイデンの言うウィザードを探すのが手っとり早くなったからだ。
必要な道具……つまりゲームソフトとデバイスギアさえ揃えれば、何処からでもこのゲームにアクセス出来る。歩き回って探すことなく、世界のどこかに散らばったウィザードに会えるということだ。
まずは、その機器を購入する。
DIPからショップを開き、プルステラ運営、つまりヴァーチャル・エイジス社から販売されているデバイスギアと、VAHのゲーム本体を購入する。
直ぐにデリバリンクとやらに届けられ、それをテーブルの上に引っ張りだすと、購入したブツは確かに現実のものとなった。
なんて便利なシステムだろう。
こんな山奥で遭難したとしても、直ぐに食糧やテント、薪なんかを用意して暖まれるのだ。そもそも、デフォルトで通信機能だって備わっている。
なるほど、プルステラが永久の世界である所以は理解出来た。現実で死を伴うような場面に直面しても、こういった些細な機能が一人の命を救うのだ。
(……って、こんなことで驚いている場合じゃないわね)
デバイスギアにソフトを差し込む。
後は、頭に被ってキーワードを発すれば、その世界へ旅立てるわけだが、向こうへ行って何時間かかるかは検討もつかない。
VRMMOというのは、気がつけば一日過ぎていた、なんてこともザラにあるゲームだ。暖炉を点けっぱなしにするのは、少々不安に思える。
考えた末、暖炉を消し、ベッドで布団に包まるのがベストだと判断した。寒さで死にはしないだろうが、起きた時に肌寒いのは、気分的にもあまりよろしくない。
念のためにタンスを一通り調べたが、替えの服は一切無かった。
寝るために着替えを購入、と一瞬考えたものの、いつお金を使うことになるのかすら判らない。我慢出来ることは我慢をし、必要になってから考えることにした。
幸い、布団と毛布は用意されていた。靴を脱いでその至福の隙間にもぐり込むと、ぬくぬくとした暖かさが身体中を包み込んでくれた。
「あぁ……幸せ……」
ほうっと、力が抜けていく。完全に眠ってしまいそうなので、その前に、あのデバイスギアを被った。
布団は大好きだ。誰かに抱かれているような、そんな暖かい感触。
……そうだ。私は、親に焦がれていたのだ。こうして抱かれることを夢見ていたのかもしれない。
それが自然の摂理だと言えば、自分でも納得する。私には、親がいなかったのだから。
(大佐。私は今、とても幸せです)
でも、まだ、気は抜けない。私には、やるべきことがある。それが終わるまでは、この幸せな気分は、お預けにしておこう。
……そう。楽しみというのは、最後まで取っておくものだ。
私は、完全に眠ってしまう前に、キーワードを唱えた。
「インプット:デバイス・オープン――」
§
――二時間……は掛かっていた。
ちょっと掛かり過ぎだったが、まぁ、その……支障はないだろう。
まさか、自分をあんなにカスタマイズ出来るだなんて、思いもしなかったのだ。
すっかり嬉しくなって、過剰にメイクしては元に戻したりと色々繰り返した結果、私の分身はそのままの姿の人間で、髪色は黒に、髪形は自分でも主張が激しいと思うようなツインテールに換えた。
我ながら、なかなかイケてると思う。鏡で何度も見て、うんうん、と頷いた。
服装は世界観重視なので、多少古臭いイメージではあるが、デザインは悪くない、革のドレス姿だ。
むしろ、プルステラの味気ない麻の服よりは、断然格好良かった。
――列車を降り、初めての街に到着する。
アナウンスが、「アーデントラウム」と告げている。
ブレイデンの話では、何度も訪れる街らしいので、よくよく構造を理解する必要がありそうだ。
そして、裏路地にいるという、情報屋を見つけなくてはならない。現世の時とルールが一緒であれば、情報屋は夜の二時頃に出現するらしい。
ゲーム内時間は、六時間で一日を迎える。つまり、現世の四分の一だ。
今は昼だし、夜まではあとリアルに三時間ぐらいある。まずは、ブレイデンのレクチャー通り、管理局でクラスを選び、レベルを上げるために近くの炭鉱へと向かった。
私は元々、近接格闘が得意だったが、クラスはフェンサーではなく、ガンナーを選んだ。ナイフ程度の武器なら、ガンナーで賄えるからなのだ。それよりは、銃器を装備出来るかの方が重要に思える。
まずは石炭の確保と、充分な基礎レベルの上昇、そして、必要な装備品の買い揃えだ。時間を逆算し、買い物までの時間と、裏路地へ行く時間を調整する。
……ああ、そもそも情報屋の居場所も、まだ聞いてないじゃないか。
だったら、ちょうどいい。ここでは多数の冒険者が採掘と戦闘を交互に行っている。まずは確認を取ってみよう。
「あのー」
近くにいた、戦闘を終えたばかりの男性に尋ねてみる。
男性は振り返るなり、ぎょっとした顔を向けてきた。
「……か、可愛い……」
「は?」
思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
周囲から奇異なものを見る目で睨まれた男は、慌てて手を振り、誤魔化した。
「あ、いや……何でもないんだ! その、な、何か用?」
……これは、人選を誤ったかな。色々とアブナイ雰囲気を漂わせている。
だが、こういう人間こそ、必要な情報が得られる可能性も高いってものだ。
「えっと……」
ブレイデンは言っていた。グレーゾーンの会話をする時は、運営の監視を避けるために、なるべく文字で伝えろ、と。
このゲームは、絵や文字による伝達手段を用いれば、ログに残ることがない。特に、地面に文字を描けば、直ぐに足で消すことも出来るし、解析など不可能なのだ。
私は、しゃがみ込んで指で文字を書き始めた。
男は筆談であることを理解し、一緒になってその場にしゃがんだ。
『情報屋の居場所を教えて』
……書いてしまってから思いついた。
英語で書いてしまったが、男の国籍は不明だった。
それでも何とか伝わったようで、男は頷いた。
『了解。武器屋の横から裏路地に入ると、T字路がある。そこを直角に曲がった先の一つ目の角を直ぐ曲がるんだ。そこに、夜二時になるとヤツが現れるぜ』
流暢な英語の筆記体で返ってきた。相手はどうやら英語圏だったらしい。
『わかった。ありがとう』
私はにこりと微笑んで礼を述べた。
何か情報料を、と思ったが、冒険を始めたばかりと知ってか、彼は遠慮した。……存外、紳士なのかもしれない。
それから、時間になるまでは、適当にレベル上げを行った。
元々、戦闘用訓練を受けていた身なので、パラメータは低いが、動き自体は軍隊で習った通りだ。こういった部分は現世での「記憶」がモノを言う。
故に、レベルが低いので時間はかかるが、ダメージを受けずとも、いわゆる「プレイヤースキル」だけで何とか片付けられる。マルベリー・ドールほど身体を動かすことも出来ないが、重い身体には、それなりに動かし方があった。後は、レベルが上がれば、身体の方が付いてくるだろう。
ナイフ一本で準備運動替わりに怪物達を倒していると、いつの間にか周囲には、ちょっとした人だかりが出来てしまった。
……ううむ、しまった。派手に暴れすぎちゃったか。
「すげえ! お嬢ちゃん、どうやったらそんな動き出来るんだ!?」
「オレにも教えてくれよ! 石炭払うから!」
「えーと……これはその……」
何と答えればいいのだろう。
私が当然のように動いていたのは、彼らには超人的に映ってしまったらしい。
そもそも、人に注目されることに慣れていなかった私は、途端に恥ずかしくなって俯いてしまった。
「む、昔、ちょっとした格闘術を習ってただけよ。感覚が身についちゃってるから、自然と身体が動くだけ」
そう説明すると、ギャラリー達はがっかりしたような溜め息を一斉に洩らした。
「なあんだ。リアルなPSか。それじゃあどうにもならねーなー」
「羨ましいなぁ。俺も習っておこうかな」
ギャラリーは散り散りになって、再び自分のレベル上げに専念しだした。
――ローマは一日にして成らず。
現世での経験を活かせるのが、このゲームの人気の秘訣でもあるんだろう。
そう考えると、逆に、PSさえ整えれば幾らでも動ける、ということでもある。
筋力なんかを上げるためにレベルは確かに必要だが、動体視力や反射神経は、元々のプレイヤー自身のものだ。以前のマルベリー・ドールに近い筋力を体感出来れば、それに近い動きは可能かもしれない。
後は、敵を殲滅するのに必要な銃器を用意し、装備するための必要条件であるクラスレベルを、ある程度増加させていく。
そこまで整えた頃には、きっと何処へでも行けるだろう。
「……なんだ。面白いじゃない、このゲーム」
何かを成すために、その前提となる条件をクリアし、そのために、必要な前提条件をまた、クリアしていく……。
まるで、実際の任務のようで、一つ一つ障害を乗り越えながら計画を緻密に考えていくのは、私の性に合っていた。
仮想世界での体験は、何もプルステラだけではない。
軍隊の訓練でも、こういったVRシステムを使ったことはある。
しかし、私は生まれて初めて、軍隊での経験を娯楽に活かしたのだ。
私が積んだ経験は、思いも寄らない形で活かされている。
そう思えば、マルベリー・ドールとしての一生も無駄ではなかった、と思えてくる。それだけで、救われた気がした。
約束の時間までは……あと二時間か。ショップはこの際、後回しでもいい。
それまでに、可能な限りレベルを上げてしまおう。
2018/04/13 改訂、改稿




