33:仮想世界の中の仮想世界 - 5
左右に部下を連れたNPCの分隊長は、二十代前半ぐらいの細身の男で、吊り上がった眼に逆立った赤い髪と、とても軍人とは思えないチャラチャラとした装飾品で着飾っている。
分隊長はわたし達の姿を目視すると、興味を示したように口の端を上げ、空いている席にも座らず、ずかずかとこちらへ歩み寄ってきた。
「見かけねぇ連中だな。イルグランの犬ってわけでもねぇようだが、何者だ? 返答次第じゃあ、てめぇらをスパイと見なして牢にぶち込むぜ」
何かのイベントが始まったのだろうか。わたしとリッカは判断を任せるとばかりに、マスター・アーズへ期待の眼差しを向けた。
マスター・アーズは動じることもなく背よりも高かった椅子から飛び下りると、分隊長の前に立ち、こう告げた。
「そこの『黒い虫籠』に用があるんじゃ。通してくれんかの、『帝国の番犬』よ」
恐らくは、それが否定と捉えるためのキーワードだったのだ。分隊長は眉間に太い皺を寄せるや、マスター・アーズの胸ぐらを荒々しく掴んだ。
「貴ッ様ァ! 神聖なる帝都とオレ様を愚弄するとは、随分と嘗めたマネをしてくれンじゃねぇか! ……おい、こいつらを捕らえておけ!」
たったそれだけの出来事に呆気に取られたわたしとリッカは、何か行動するよりも早く後ろ手にさせられ、縄で縛られた。無論、マスター・アーズもである。
ようやく自分の置かれた状況に気付いたリッカが慌てて手を動かそうとするが、もう遅い。
「何してんのよー!?」
リッカの叫びにマスター・アーズは、ほっほっほっと軽く笑い飛ばした。
「こうしないと中に入れないんじゃて。少し我慢せい」
中、と言っても捕らえられてしまったのだ。もしかしなくても牢へ送られるのか。
わたしの脳裏に一抹の不安が過った。
「……ねえ、もしかして、拷問イベントとかあるの?」
「大丈夫じゃ。そこまではない。だが、まぁ、結果としてはご想像にお任せという感じじゃの」
どういう意味、と訊く前に、首筋に強い刺激を受け、わたしの視界は勝手に遮断された。
§
――そう言えば、「気絶」することもあったのだ。
ゲームなので本当に気絶するわけじゃないのだが、この状態では五感が一時的に奪われ、考えたりすることは出来ても、会話はおろか、指一本動かすことも出来なくなる。今回のように移動を伴うイベントであれば、待っていれば直ぐに視界が開けるはずだ。
一分ぐらいで、抜けていた身体の感覚を取り戻した。
いつの間にかわたしの身体は、天井からぶら下がった鎖に手首を繋がれ、立ったまま身を預けていた。足首も、地面から伸びる短い鎖の足枷に固定されている。
首を動かして見ると、武器はおろか、着ていた高級革鎧も脱がされていて、手足の装備と、身体のラインが浮き立つ程ぴったりとした、中のインナーウェアだけが残っている。この状態の防御力は紙も同然なのだが、そんな心配よりも、服を剥かれたという感覚の方が先立ってしまい、恥ずかしくなる。
正面の鉄格子の外に目を凝らすと、手すりのついた足場のような、人二人分がやっとの狭い通路があり、その直ぐ奥には大きな吹き抜けが通っている。その吹き抜けを挟んだ反対側にもここと同じような牢がずらりと並んでいて、遥か上の方まで箱積みの如く積み重なっていた。
「マリー、リッカ、大丈夫かー?」
どこかの牢から聴こえるマスター・アーズの声に、わたしと、違う牢にいるリッカは溜め息混じりに応える。
「……大丈夫、とは言いづらいんだけど」
「ええ。同感ね」
マスター・アーズは低く唸った。
「……すまんな。先に説明すれば良かったかの……」
「こうするしか方法がなかったんでしょ? だったら、我慢するしかないよ」
牢屋に放り込まれた場合、何らかの方法で脱出するか、或いは出して貰うか、というのが定番のイベントだ。しかし、この場合、手足を繋がれているので前者はほとんど有り得ない。
「まぁ、もうちっと待ってくれ。外へ出られるはずじゃ」
その言葉に裏が無ければいいのだが。
こうして繋がれたまま立っているのも結構辛い。何故このような格好で吊り下げられたのかを考えると、元々の年齢であった方が待遇が良かったんじゃないか、と考えてしまう。
そんな事を考えていると、二人の機械人の看守が甲高い足音を鳴らしながらやって来て、鉄格子の前に立ち塞がった。そのうちの一人が歯車の付いた鍵を鉄格子の鍵穴に差し込んで回すと、鉄格子は歯車の軋んだ音を立てながら、独りでに横に開いていった。
手首と足首に取り付けられた鉄枷の鍵も外されてようやく身体が自由になるが、代わりに新たな手錠を付けられた。このまま目の前の看守を殴り倒せれば……なんて一瞬考えてみたものの、それも不可能だと知る。後ろにいるもう一人は蒸気銃を持っていて、いつでもわたしを殺せるように照準を合わせているのだ。
後ろの通路では別の看守達が通り、隣にいるリッカとマスター・アーズも解放された。一人につき二人、合計六人の看守に見張られているわたし達に、この場を切り抜ける術は全く持ち合わせていない。
「歩け!」
防具のない背中を銃で突つかれ、わたしは言われるままに従った。
帝都側では安全なゲームプレイを心がけていた自分には、このようなイベントを経験した記憶はない。或いは忘れてしまっているのかもしれないが、アーデントラウムの牢獄では少し牢に閉じ込められた後、所持金から罰金を払って外に出して貰える程度で済んだはずだ。
柵しか遮るものがない蒸気可動式の昇降機に乗せられ、歯車を回す音を聞きながら上昇する。
ここから見ると、牢獄は炭鉱の中に造られていたというのが判る。ぽっかりと空いた谷の壁沿いに先程までいた牢屋がぎっしりと蜂の巣のように並んでおり、いくらでも人を収容出来ると思われる。
しかし、こんな所に牢獄を造っているということは、もしや、今から行く場所は……。
「さあ、これを持て!」
登り詰めた先で無理矢理手渡された巨大なピッケル。手足の装備を残しておいたのはこのためだったのか。
わたし達は、囚人というより奴隷になってしまっていた。
「さあて、しばしの間働くとしようかね」
マスター・アーズがインナーの袖をまくってやる気を出した。うんざりした顔でわたしは訊ねる。
「……どれくらい?」
「掘る量次第じゃ。とにかく堀って堀りまくれば、イベントは直ぐに進むじゃろう」
わたしは、諦めてピッケルを振るう作業に没頭することにした。
このような機械文明に手作業である必要性はあるのだろうか、と考えていたが、燃料を掘るために燃料を使うというのも勿体ない話である。燃料の代わりに囚人はいくらでも手に入る。ならば、人員を燃料に次々と掘らせれば良いわけだ。
「気晴らしに、少しこの辺の事情を話してやろうかの」
と、マスター・アーズが暇つぶしに語ったのは、帝都の囚人が大勢いる理由についてだった。
帝都は、完璧な国家を目指すために多くの犠牲を払った。
イルグランを吸収し、国家を統一させるという帝国君主の野望のために、囚人は黙々と炭鉱を掘り続け、市民ですら無駄のない生活を強いられていた。逆らった者は容赦なく牢にぶち込まれ、殺す代わりにこの莫大な資源が眠る炭鉱で働かされる。
市民の数は減り続け、今や帝都に残されたのは従順なるごく僅かな市民と、市民の代わりに働かされている機械人形しか存在しない。帝国の紋の赤薔薇を示す、小さな赤い明かりを国旗や街灯代わりに灯している黒い建物は、国に忠誠を誓った家の証で、そのほとんどが国の所有物となっていた。
これに対し、反政府のレジスタンス組織として活動しているのが「白薔薇」である。そのリーダー格となる女性もロサ・アルバの名で噂だけが知られ、その姿をゲーム中で拝むためには、相応の活動実績が必要とされている。故に、彼女の実体を掴むのは容易ではなく、少しでも疑わしい要素を見せるといつの間にか組織ごと姿を眩ましてしまうのだ。
現に、プレイヤーの中でも白薔薇に属する者は廃人と名高い一握りのプレイヤーだけらしく、任務を請け負うNPCに会うために用意される場所には必ず一人で赴かなければならない。口頭──つまりボイスチャットによって他のプレイヤーやNPCに居場所や組織の実情を知られるようなことがあれば、直ぐに連絡は付かなくなり、事実上、追い出されたということになる。組織があった痕跡すら無くなり、まるで組織自体に意思があるかのように、ある日突然、予想も付かない場所で再び姿を現すのだと言う。
これを聞いたわたしは、ふと疑問を感じた。
「そんな組織の情報を今わたし達に話したら、飛行船乗り場のイベントが台無しなんじゃないの?」
マスター・アーズは、ピッケルを振るう手を動かしながらも頭を横に振った。
「さっきも言ったが、アレは組織のクエストとは関係なく行える『イベント』なんじゃよ。クエストというのは受注があり、実行があり、そして報酬がある。イベントはムービーを再生するかのように、与えられた命令に対し実行するだけのものに過ぎないんじゃ。つまり、白薔薇関連のイベントではあるが、クエストではないから雲隠れしない、ということじゃな」
リッカは尊敬と畏怖を込めた眼差しでマスター・アーズを見た。
「……そんなややこしい白薔薇のクエスト、どうやってデバッグしたの……?」
マスター・アーズはいつものようにほっほっほっと笑い飛ばした。
「アレに決まったパターンなんてないんじゃよ。わしらに課せられた仕事は実に単純なものじゃったな。『数回程度でいいから、ちゃんとクエストが進むか見てくれ。情報のリークによるクエストの中断も一、二回試してくれればそれでいい』……たったそれだけじゃ。あの時大変じゃったのは、わしらよりもエンジニアの方だったと記憶してるのう」
マスター・アーズことミカゲ ダイチ。普段はいつも前向きで、空振りを恐れない能天気な性格……かと思っていたのだが、その背景には数々の試練を乗り越えてきた、ゲーム業界における歴戦の戦士たる一面が伺えた。
きっと、わたし達子供の知らないところで苦労を重ねて来たのだろう。バグという、ゲームとしてはハッキリしていて、現実的にはとても曖昧である存在と戦いながら。
「……何じゃ、マリー。わしの方をじろじろ見おって」
そんなマスター・アーズは、何となくきょとんとしたような顔をわたしに向けてきた。
わたしは慌てて誤魔化し、止まっていた手を力強く動かす。
「……ううん。何でもない」
「その割にニヤニヤしおって。おかしな娘じゃのう」
§
どれくらい経っただろう。夢中になって掘っていると、坑道の入り口の方から不可視化の魔法をかけた何者かが小走りで駆け寄ってきた。
「捕らえられたと聞き、助けに参りました。遅れてすみません」
そう言って現れたのは、飛行船乗り場で助けた、あの見すぼらしい姿をした男だった。
彼は背中に担いだ袋をその場に置き、荷を開いた。それは、わたし達が没収された装備の一式だった。
「入り口の兵士は眠らせてあります。逃げるなら今のうちです。……私は別の任務がありますので、これで」
男は手に持った杖を振りかざすと再び姿を隠し、炭鉱の奥へと走って行った。アレは多分、人間でも扱えるようなマジックアイテムなのだろう。
マスター・アーズはつるはしを放り棄て、自分の杖と防具を手に取った。
どうやらイベントというのは、たった一度だけあの男が助けてくれる、というものらしい。
「さあ、猶予は五分しかないぞ。直ぐに装備を整えて外へ出るんじゃ」
汗ばんだ服の上から鎧を装着する。背中にライフルを背負い、腰に拳銃を挿す。
マスター・アーズは、杖を手にしたことで再び使えるようになった不可視化を唱えた。
「よし、ついて来い!」
マスター・アーズが早足で突き進む道は、来た時とは全く別の道だ。物音を立てずに曲がりくねった狭い坑道を進み、作業をするNPCや何人かのプレイヤーの背後を通っていく。
僅かな外の光を求めて炭鉱を出ると、そこは何かの施設の中だった。
近くのドラム缶の陰に隠れ、マスター・アーズは一旦魔法を解く。
「……さて。詳細の地図はないが、ここは記号で言えば『B-10』じゃ。つまり、ここから真っ直ぐ西に歩いて行けば、マリーの言う指定座標に辿り着けるぞい」
途端に胸の鼓動が激しく叩かれる。もう、そんな近い場所に来ていたのだ。
「じゃあ、ここって……?」
「帝都の軍事施設内じゃ。警備も最高レベル。ここで捕まると牢獄どころじゃ済まされんのう」
つまり、見つかってしまった場合、戦闘は免れない。
ゲームプレイ開始から僅か数時間でここまでやって来たわたし達は、赤子同然に捻られ、今まで手間かけてやってきたことは全て無駄となるのだ。
「……そろそろリアルでも朝方じゃ。わしが今日付き合えるのもこれ一度きり。失敗したら時間のロスになることを肝に命じるのじゃ」
「そんなこと言われると、余計に緊張するわね……」
リッカが声を震わせて言った。
「どうしたらいいの?」
「不可視化なら通用する。慎重に行くと一回はかけ直しが必要じゃが、それで誤魔化しながらA-10まで行くぞい」
基地内を巡回しているのは、蒸気を噴き出しながら地面を揺らしながら歩いている、高さ三メートルぐらいの二足歩行の機械人形だ。彼らは機械人と違って知能が低く、プログラムによって動かされているだけに過ぎない。
しかし、人間相手とは違って赤外線センサーや集音器のようなものを備えているので、不可視化の魔法がどこまで通用するかも怪しい。そのため、走れば五分も経たずに辿り着けるような場所でも、極力音を小さくしながら一歩ずつ確実に歩いて行かなくてはならない。
機械人形の移動経路は入り口が封じられた武器庫や兵舎、車両倉庫なんかを二、三体でグルグルと一定間隔を保って歩くという単純なものだ。しかし、足音を殺すために歩くべき速度というのも限られており、それは機械人形が歩く速度よりも断然遅い。いくら不可視化とは言え、接触判定まで消すことは出来ないので、追いつかれた際にぶつかれば、途端に見つかってしまう。
一定間隔に幅を保っている建物と建物との間には、機械人形にしておよそ三体分強もの幅がある。何故なら、それぞれの建物に沿って右回りと左回りに動く機械人形と、道の中央を往復する機械人形とが巡回しているからだ。
車線で例えて三ライン。その、ラインからラインへジグザグに移動するにしたって、突破するのは至難の技と言える。センサーの領域ギリギリを保って隣のラインへ移動し、通り過ぎると同時に直ぐに戻る──そんな正確さが求められる。
マスター・アーズに倣って動いていたお陰で、ある程度のパターンが見えてきた頃、わたしは何でもないところでたたらを踏み、その場に派手に突っ伏してしまった。
「う……ご、ごめ……」
顔を押さえてはっと気付いた頃にはもう遅い。「ビーッ」と鳴り響くけたたましいサイレンに機械人形が一斉にこちらを向き、腹部に備えたガトリング砲を向けてきた。
「マリー! 危ない!」
リッカがわたしを突き飛ばし、素早く片膝の姿勢で剣を縦に構えた。フェンサーの緊急防御スキルらしいが、たった一度受け止めただけで剣が吹き飛び、リッカはその衝撃で地面を激しく転がった。
「リッカ!?」
リッカは直ぐに──しかし、ふらふらと頭を抱えながら立ち上がった。
千鳥足で転がった剣を拾い上げ、地面をなぎ払ってくるガトリングを間一髪のところで前転して避ける。
初心者にしては結構な反応だ。どうにか無事であることにほっとする。
「……だ、大丈夫……!」
マスター・アーズは風魔法の攻撃スキルでガトリングを相殺しながら、わたしの背をドン、と押した。
「走るんじゃ、マリー! お主は先へ行けい! 敵対度はわしらが稼ぐ!」
わたしは素早くゴール地点に目を向けた。
その間、およそ百メートル。目的の場所には帝都にふさわしくない、洋館の如き建物があるようだが、こちらの建物の陰に隠れて全貌が見えない。
三人全員が残ってもやられるだけだ。それなら、わたしだけが生き残り、目的を達成させる方がいい。
このミッションはゲームの依頼なんかじゃない。わたしさえゴールに辿り着ければ、それでいいのだ。
「ごめん! 先行くね!」
考える暇も惜しい。わたしは一言謝って、機械人形の合間を縫うようにして走った。
背後からぐっと風に押されるような感覚を覚えた。この時のためにマスター・アーズが用意した加速の魔法だ。
存在に気付いた機械人形達が一斉に銃口を向けてくる。それでもわたしは直っすぐ駆けていった。
「お前らの相手はわしらじゃい!」
マスター・アーズは次々とかまいたちの魔法を機械人形達に浴びせ、自分に銃口を向けさせた。
「行くぞ、リッカ! わしらは命懸けの囮じゃ!」
「え、ええ!」
――ああ、後で何て言ってお詫びしようか。ゲームとはいえ、苦労させてしまったことに申し訳が立たない。
わたしは彼らの姿を振り返らずにひたすら走ることに集中し、鉄壁と思われた機械人形達のガードをすり抜けた。
「……着いた」
針金と鉄片で出来た薔薇の生垣。その中心にある柵状の鉄門を潜った五十メートル程先に、チョコレート色のレンガで出来た壁の洋館がそびえ立っている。
建物からはいくつものパイプが不規則に庭一面に張り巡らされ、庭の噴水の代わりには蒸気を噴射するオブジェもある。それらの用途は伺い知ることが出来ない。
館へと続くレンガの道を突き進むと、今の騒ぎのせいなのか、洋館の前には警備が一人もいないことに気付いた。
少し考えてから、堂々と正面から入っていくことにする。罠が仕掛けられている可能性も考えられるが、こんな所に来られる客もそうはいないはずだ。
一見すると木製だが、何らかの金属で出来ているらしい両の扉。取っ手はない。それぞれに見事な彫刻が掘られていて、ガーゴイルを模したノッカーが中央上部に一個ずつ取り付けられている。その取っ手を握って軽く二回程叩くと、一呼吸置いて歯車の音を鳴らしながら、ゆっくりと奥へと開いた。
『あれ? 思わず開けちゃったけど、カイの言ってた人かな?』
どこからかノイズ混じりの少年の声が聴こえてきた。見上げると、壁の隅にラッパ状の伝声管が取り付けられてあった。
『よく来れたね。二階で待ってるよ。階段を上って左の通路の一番奥の部屋だ』
外面に比べるとあまりにも高級そうな洋館なので、自然と礼儀に従い、頭のゴーグルを脱いで館に入った。
静かなエントランスだ。真正面には食堂にでも通じるのか、一つの扉がある。その直ぐ左の壁にはアンティークな柱時計が一つ。左右にはどこかへ通じる長い通路。床には隅々まで敷きつめられた、模様のある赤い絨毯。正面の直ぐ右手には左巻きの螺旋状に上る階段があり、そこにも赤いカーペットが続いている。
金で出来た手すりに掴まりながら、一歩ずつ踏みしめて階段を上る。足音は消され、身につけている金具の触れ合う音や革の捩れる音だけが静かな洋館に鳴り響いた。
二階に着くと、道は左右に伸びたT字路になっていて、正面には一階を見下ろせる吹き抜けがある。
言われた通りに左手、つまり玄関から向かって右手の細長い通路を突き進むと、突き当たりに大きな扉が待ち構えていた。
通路の脇には彫刻入りのテーブルが置かれている。良く見るとその天板が丸くくり抜かれており、ところどころに針のような突起物が間隔もバラバラに突き出ている。テーブルの空いたスペースには、様々な形状の歯車が積み重なっていた。
『部屋に入る前に、壊れた歯車を直してくれるかい?』
近くの伝声管からノイズ混じりの少年の声が聴こえてきた。
『ちょっとした頭脳テストさ。制限時間は五分。時間切れになったら屋敷内に潜んだ機械人形達が捕まえに来るよ。キミが本当にカイのお兄さんなら、解けるよね? ……じゃあ、頑張って』
クスクスと嘲笑うかのような笑い声がしたかと思うと、声はプツリと途切れ、目の前の壁から歯車だらけの壁時計が出現した。時計は直ぐにカチカチと音を立てて動き出し、容赦なく時を刻んでいく。
テーブルに置かれた歯車には様々な大きさと形状があり、全てが円形、というわけではなく、三日月や半月など、端のギザギザが無ければ歯車の一部だと認識できないレベルのものがほとんどだ。恐らく二つ以上のパーツを組み合わせ、一つの歯車に完成しなければならないのだろう。まずは型に嵌める前にその作業を行った。
それだけで三分が経過する。残りはもう二分しかない。
歯車同士をくっつけると全部で四十個はある。間隔と直径を考えながら大きい方から順番に取り付けて行くと、丸い溝にはキレイに埋まったものの、何故か五個余りが出てしまった。
歯車の上に積み重ねる、というわけでもない。ふと思いついてテーブルの下を覗くと、足の方に小さく歯車を嵌める箇所があった。そこに指で押し込んでいく。
「……まだ、一個ある」
と呟いたところでボーン、ボーンと時計の音が鳴り、わたしは驚いて顔を上げた。時間切れになったのだ。
しかし、捕まえに来る、と言っていたから、まだ猶予はある。わたしは思考を冷静に保ち、テーブルに向き直った。
残り一個。わりと大きい歯車で、掌ぐらいはある。置ける場所は限られる。少なくとも足、ではない。
膝をついてしゃがみ、机の裏側を覗くと、案の定、丸い穴が空いていた。そこに迷わず歯車を差し込む。
ガチャン、と全てが噛み合った音が鳴り、キリキリと音を立てながら歯車が一斉に動き始めた。
すると、閉ざされていた引き出しがゆっくりと開き、そこに歯車の付いた金色の鍵が見えた。
何かが素早く駆けて来る音にはっと右を向く。奥の通路から何体もの人間サイズの機械人形が、こちら目掛けて小走りで走って来ている。
わたしはもどかしく開く引き出しに無理矢理指をねじり込ませ、指先だけで鍵を掴み、一気に引き抜いた。その勢いで鍵が宙を舞って通路に転がり、慌てて四つん這いになって拾い上げる。
素早く上を見上げると、機械人形が腕を振り下ろしてくるところだった。咄嗟に転がり、避ける。
鍵をしっかりと握り締め、正面の扉の鍵穴に差し込む。……と同時に身を捩り、捕まえようとする腕から逃れる。
機械人形とわたしの幅は人一人分もない。次々と差し込むように繰り出される腕に紙一重で躱しながら、鍵を思い切って捻った。
扉が開き、寄り掛かっていた背中から転がって部屋に入り込むと、機械人形は諦めたように踵を返し、ゆっくりと歩き去っていった。
わたしはその様子を呆然と見届け、荒くなった息を繰り返す。
「あっははははは!」
笑い声がして振り向くと、そこに今のわたしと同じぐらいの歳で人間の少年が、豪華な椅子に身を任せ、足をジタバタさせ、腹を抱えて笑っていた。
テーブルにはこの世界にふさわしい姿のコンピューターが置かれている。恐らく、ここでわたしを監視していたのだろう。
「へぇ……? お兄ちゃんって言ってたのに、まるで女の子じゃないか。しかも可愛いんだね、キミ」
前髪を切り揃えた銀髪の少年は、帝都の軍服らしい姿に身を包んでいる。華奢で、一見すると彼こそ女の子のような顔だちに見えなくもないのだが。
「あなたが、カイの言っていた人?」
「そう。カイの手紙をキミに差し向けたのも、カイのメッセージを代理で作ったのも僕さ。……何か困ってここへ来たんだよね。その基礎レベルといい、随分と頑張って来たみたいだから、少なくとも話ぐらいは聞いてあげるよ。話してごらん?」
わたしは、これまでに起きたプルステラでの出来事を簡潔に話した。
ハロウィンに来る、と言っていたので、彼はここへ来たばかりだろう。七月に起きた襲撃事件なども織り交ぜて、わたしの身に起きた記憶障害について説明する。
彼はわりと真剣にわたしの話を聞き、話が終わると苦笑いをして頬杖をついた。
「なるほど、それは困ったな。色々キナ臭いと思ってたけど、そんな出来事があったのか。カイは残って正解だったね」
わたしは目を丸くした。
「カイは生きているの!?」
「今、どうしているのかは知らないよ。けど、少なくともその事故とは無縁だし、プルステラに行ってないのは事実さ。だって、キミの相談に乗ってくれって押しつけたのは、紛れもなく彼なんだからね」
カイは、生きていた。転送時の事故なんかで死んだわけじゃない。ただ、あのボタンを押さなかっただけなのだ。
だとしたら、父さんもそこにいるんだろうか。……いや、生きていればそれだけでいい。
「おいおい、そんなことで泣くなって。他でもないカイの頼みだし、借りも返したいから何とかしてやれなくもないよ」
わたしは慌てて涙を拭った。
「ホント? ……でも、あなたとカイって……どういう関係だったの?」
「このゲームで知り合った友達さ。キミは知らなかったみたいだけど、一緒に狩りもしたし、現実世界で塞いでた僕を元気づけてくれた大親友でもあるんだ」
――カイが、そんなことを……。
深い事情には立ち入れないが、この少年の悩みをカイが解決したというのは確かなようだった。
「そういうわけで、詳しく診てあげたいんだけど、そのためにはまず、キミ自身が僕の家まで来て貰わなくちゃならないんだ。……もちろん、プルステラの新居の方の、ね」
「……それ、どの辺にあるの?」
「きっと驚くよ」
そう言って、彼はテーブルにあった一枚の名刺サイズの羊皮紙を手に取ると、そこに羽ペンで何かをスラスラと書き、テーブルの上に差し出した。わたしは近くまで歩み寄って、そいつを手に取る。
描かれた文字は日本語ではない。虫眼鏡型の万能翻訳ツールを取り出して文字の上にかざしてみると、それは日本語で表示された。
「……東ロシア!?」
意外な場所にわたしは驚愕し、叫んだ。
やっぱり、と言うように彼はわたしの反応を見て面白がった。
「ここではそう呼ばれている、アジアと見なされているロシアさ。サーバーもアジア大陸サーバーに属している。キミもそのくらいは知ってるだろう? アジアとヨーロッパのバベルは、どっちもロシアに存在するんだ」
西ロシア、またはヨーロッパロシアとも呼ばれている西部はヨーロッパ大陸サーバーに、東ロシア、またはアジアロシアと呼ばれている東部はアジア大陸サーバーに属している。そうして分けられたのは、二つのバベルがいずれもロシアに建てられているからだった。
では、何故、ロシアに東西二つのバベルが存在するのか。噂では地盤の頑丈さや面積、或いは予算の都合上だとも言われているが、本当の理由は発表されていない。お陰で、国民の都合もお構いなしに勝手に土地を二分化されてしまい、一時期はちょっとした論争に発展していた。
「とにかく、この住所とキミ専用の蒸気甲冑車の所有権を別途渡しておくから、キミは現実化するといい」
「りあり……ぜーしょん?」
初めて聞く単語におうむ返しすると、彼は意外そうだと言うように頭を掻いた。
「なんだ、まだ知らなかったのか。プルステラ版の最大の変更点だよ? この世界の持ち物を、条件付きでプルステラに持ち出せるんだ」
「えええっ!?」
管理局のラウンジで読んだ日報の一面記事に書かれていなかったのは、サービス開始から昨日までの二日間で既に特集を終えてしまったからだった。
目の前の少年は、わたしの驚く顔にまたしても腹を抱えて笑った。
「そんな、大げさに驚く程のものでもないだろう? だって、どちらも仮想世界なんだからさ」
「そ、それはそうだけど……」
「本当は飛行機なんかをあげたかったんだけど、現実化にはいくつかの制限があるんでね」
そう言いながら、彼はタイプライターのような古びたキーボードを操作した。目の前にキャラメイクの時に登場した鏡のポータルが現れる。
「もっと話していたいけど、あっちではもう朝だ。そろそろ帰った方がいい。僕は東ロシアでキミが来るのを待っているよ」
「ありがとう。……えっと……」
名前を呼ぼうとして言い籠もると、銀髪の少年は僅かにはにかんだ。
「そう言えば名乗ってなかったね。僕はキリル。文字通り、分かりやすい名前だろ? よろしく、ユヅキ……いや、今はヒマリちゃん、かな」
――キリル、くん。
口の中でそう唱えてから、軽く頭を下げ、わたしは鏡の中に足を踏み入れた。
ホワイトアウトの後に現れた景色はアーデントラウムの管理局で……そこにはテーブルにぐったりと身を任せているリッカと、呑気にコーヒーを飲んで待っているマスター・アーズの姿があった。
「……お、無事生還したようじゃの」
「もー、こっちはボコボコにされて大変だったんだよぉ、マリー!」
ということは、死んでここまで強制送還された、ということか。
「ごめんね、二人とも。……でも、ミッションはコンプしたよ」
おお、と興味深そうに顔を上げる二人に、わたしはどこから話したものか、と苦笑し、こう告げた。
「……とりあえず、一旦現実に戻らない?」
2018/04/05 改訂




