31:仮想世界の中の仮想世界 - 3
重い瞼の門を開くと、蒸気と機械ではなく、見慣れた木造の天井があった。
ふいに覚えた良い空腹感に目が覚め、ゆっくりと身を起こした。体にセンサーは付いておらず、ここが診療用のベッドの上じゃないということだけは、どうにか認識出来た。
起きたての頭がまだぼうっとする。先程まで街を駆け回っていた感覚が尾を引くように体に残っていて、ベッドから下りると膝がカクンと曲がり、バランスを崩した。
「わあっ!?」
慌ててしがみついたものは不運なことにタンスの取っ手だ。わたしの重みで引き出しが開いてしまい、中に入っていたものをぶちまけながら派手に転倒した。引き出しの角が額に直撃する。あまりの痛みにわたしはジタバタともがき、転がった。
「マリー!? どうしちゃったの!?」
優れた聴覚で異常を感知したであろうエリカが物凄い勢いで階段を上がってきて部屋のドアを開け放ち、叫んだ。それで完全に覚醒する。
「……あは、は……。ヴァーチャル酔いってやつ?」
何とか笑って頭を抱えるわたしに、エリカは目を大きくして何かをじっと見つめている。……どうやら、わたしがぶちまけてしまったものらしい。
「…………っ!?」
それが自分の下着の山だとようやく気づくと、ぼっと顔が火照った。
慌てて拾い上げて引き出しに詰め込み、素早く正確に元の位置に戻す。
エリカは口に手を当て、意地悪そうに目を細めて一言。
「……キュート」
「感想言わなくていいから!!」
§
額に出来たたんこぶに小さな湿布が貼られる。こんな些細な事故にも、ママは冷静且つ丁寧に対処してくれた。
たんこぶだなんて、久々の怪我だ。
そんなわたしに、ママはこんな診断結果を述べた。
「起きたばかりはゲームから取得した記憶データを整理するからぼうっとしてしまうのよ。それに、体のサイズが違ってるとバランスも保ちにくいことがあるわ。慣れれば大丈夫だけど、初めは起き上がる時にゆっくりとね」
「うん……気を付ける」
肩を落としてリビングに戻るわたしを、エリカが優しく頭を撫でて迎える。
「マリー、食事の準備出来たよ。もうすぐお父さんも帰ってくるから、一緒に食べよう」
「うん」
わたし達がテーブルの席に着くと、ママはまるで高級なレストランのディナーのように次々と空いた深皿を並べていった。エリカはどこか嬉しそうに鼻唄を歌い、それを見守っている。
……そっか。エリカの歓迎会でもあったか。
いろんなことが一度に起こりすぎて、頭で整理しきれていない。折角来てくれたのに、何だかエリカに申し訳ない気分だな。
「ただいまー」
「今帰ったぞー」
と、いい頃合いでお兄ちゃんとパパが帰宅する。
「お帰りなさい。えっと……」
二人にどう説明しようかと思ったところで、エリカが自ら立ち上がって名乗った。
「イギリスサーバーから来ました、エリカ・ゾーイ・ハミルトンです。エリカって呼んで下さい」
深々と頭を下げるその変わった姿に、二人は一瞬戸惑いを見せたが、直ぐにエリカを家族として歓迎した。
「話は妻から聞かせてもらっているよ。エリカ、よく来たね」
パパはそう言ってエリカと握手をかわした。
「お、俺はヒマリの兄のタイキです。……よ、よろしく」
珍しくガチガチに緊張して手を差し出すお兄ちゃんに、わたしは声を殺して笑ってしまった。
エリカも何だか笑いを堪えているようにも見える。
「……そんなに笑うことないだろ」
「ご、ごめん……ぷくく」
もしわたしがユヅキのままだったら、きっと他人事じゃなかっただろう。エリカは獣人の姿をしているが、人間の女性としての魅力は少しも損なわれていない。むしろ、美人だって思うぐらいなのだ。
そんなエリカを見て平然としていられるのは、自分が完全にヒマリに――女性になったから、ということなんだろうか。それはそれで、複雑な心境だ。
「さ、冷めないうちに食事にしましょう」
皿に肉じゃがを盛ったママの一言で、もやもやした気分が一瞬にして払われる。
わたしは別に、このままでいい。家族との思い出さえ失わなければ、ヒマリとして、この幸せな家庭の中で生きていけるのだ。
「えっと、じゃあまずは乾杯ね。エリカ、ようこそ日本サーバーへ」
「皆さん、ありがとう」
酒はまだないので、ぶどうジュースの入ったワイングラスを鳴らし、乾杯した。
いただきます、と手を合わせて食べる一同に、そんな習慣のないエリカもわたしを見倣って手を合わせる。
最近じゃ日本の文化なんて珍しくもないって話なのに、エリカはそれほどまでに生粋のイギリス人なのか、箸の使い方もおぼつかない。
「ごめんなさいね。スプーンとフォークを持ってくるわ」
見兼ねたママが席を立とうとすると、エリカは「いえ!」と待ったをかけた。
「その……知らないわけじゃなくて、慣れてないだけなので。……私だけ箸が使えないのは、自分が許せないわ」
「努力家なのね、エリカは」
「強情なだけですよ」
そう言って箸と格闘するエリカは、どうにか日本人らしい礼儀を身につけようと諦めない姿勢を見せた。
「……これ、肉じゃがって言うのよね。とても美味しいわ!」
ママは顔を綻ばせた。
「良かった。今日は会心の出来映えだったのよ?」
ママの作った肉じゃがだって努力の賜物だった。今ではエリカどころか、日本食に舌の肥えたわたし達ですら美味しいと認められるほどになっている。ここへ来た当初の酷い味付けが、まるで嘘のようだ。
一般的な家庭料理ではあるが、エリカにとっては初めての日本食なので、相応なご馳走と言えるだろう。
それに、そもそも日本人であるわたしだって、現世では母さんを失ってから汚染作物を気にして日持ちする缶詰食ばかりだったし、こんな温かな料理、しばらく見なかったのだ。紛れもなく、わたしにとってもご馳走に違いなかった。
「ご馳走様でした」
様々な想いがあり、わたしもエリカも……勿論、お兄ちゃんやパパだって、今、ここに感謝を述べている。古くからの日本人の習慣である「ご馳走様」の言葉が、何だかとんでもなく立派なものに思えてくる程だ。
それだけ、当たり前を当たり前じゃなくしていた世界に今まで住んでいた、という事実を、今更ながらに思い出させられた。ついでにプルステラという世界にも感謝したいぐらいだ。
「ああ、そうだわ。先程の結果をお報せしないとね」
と、くすぐったそうな表情で席を立ったママは、診療室から一枚の紙切れを持ってきた。
「私もびっくりしたんだけどね。結果から言うと、エリカの身体データは全て正常だったわ」
エリカはほうっと一息つき、力の抜けた表情で笑みを浮かべた。
「良かった。これからもゾーイといられるのね……」
「ええ。エリカの身体は完全に二人分の魂と脳内物質を収められる程の容量になっていたのよ。だから、激しく動いても平気だったし、バグの類も見当たらなかった。恐らく、今後も安定するでしょうね。……ただ、原因はまだ判らないから、これからも定期的に診る必要があるわ」
わたしはエリカの大きな手に自分の手を重ねた。
「良かったね、エリカ」
エリカは今にも泣きだしそうな顔でわたしに微笑んだ。
「ええ。改めて感謝するわ。マリーと……皆さんのご好意に」
「いいのよ。人を救うのが私の仕事だから」
……なんて、クールに応えるママだったが、さっきから褒められてばかりで、どこか照れ臭いようだった。
「なあ、それで……」
パパが身を乗り出して口を挟んだ。
「ヒマリの方はどうなんだ? まだ、解決していないんだろう?」
ママは真剣な表情に戻る。
「ええ。エリカの診察で多少はヒントになったけど、その解決策はやはり、ヒマリが探している、凄腕のプログラマーに頼らなくちゃならないわ」
その話はまだ伝えられていないようで、お兄ちゃんとパパはわたしに問いかける視線を向けてきた。
「えっと、VRMMOのヴォーパルアルミス・ヒストリアってゲームにいるらしいんだけど……」
そう説明すると、パパの目の色が変わった。
「ほう……! プルステラに来てたのか、あのゲームが」
「う、うん」
そう言えば、ダイチパパの本職はフリーのゲームデバッガーと聞いている。一昔前なら、そのような仕事では安月給なので二児の親は勤まらないはずなのだが、脳波に干渉し、時に命に関わる危険性も潜んでいるディープダイブ式のVRゲームには、デバッガーという存在は必要不可欠な存在である。
以前聞いたパパの話によれば、最初にプログラマー側によるブラックボックステスト――つまり、通常のプレイでは探れない、ソースコードからの検証や再チェックにより、ある程度バグは取り除かれるのだが、最終的にはパパのようなデバッガーが実際にプレイヤーに近い目線でプレイテストをしなくてはならないらしい。時には、ちょっとした操作でログアウト不可に陥ったりすることもあり、そんな時はGM用の強制終了モジュールによって脱出するんだとか……。
それほどの仕事を何タイトルもこなしているパパは、ゲームの領域となると普段の何倍も頼もしく思える。……ダメ元で訊いてみようか。
「えっとね、ブロッセンのA-10に行きたいんだけど」
理由も語らずに一言述べると、パパは不敵な笑みを浮かべた。
「なぁんだ、そんなところか。行くだけなら不可能じゃないぞ」
「ほんと!?」
「勿論。そのゲームのデバッグをしていた父さんに任せておけ」
「うそぉー!?」「マジかよ!?」
と、わたしとお兄ちゃんの声が重なった。
パパはお腹を揺らしながら、はっはっはっと愉快な声で笑う。
「当時は規約で秘密にしてたが、ホントのことだ。サービス開始前後、他タイトルのデバッグから担当を戻された時も合わせて五年半ぐらいはテストしてたな」
……これは、本格的に頼りになりそうだった。むしろ呆れるぐらいに。
「ただ……そうだなあ、安定性を求めるなら、少なくとも三人以上で行く必要があるんだが……」
わたしとパパは同時に強請るようにママを見た。ママはどうしようか、ととぼけたような悪戯っぽい表情で宙を見上げたが、ややあってこう答えた。
「それ、ホントに高いのよね。ソフトは一本で家族単位のシェアが出来るみたいだけど、本体はあと二個買う必要があるんでしょ?」
「まあ……そう、なるな」
パパは少し口籠もりながら肩を竦めた。
「俺の分は自分で出そう。月末の給料が入ったばかりだしな」
「じゃあ、いいわよ。それならもう一本私が出すわね。……どっちが行く?」
どっち、と言われて、エリカはお兄ちゃんと自分とを交互に指で指し示した。ママは軽く頷く。
「え? 私、行ける……の?」
「ええ。先程の検査の結果でハッキリしたんだけど、エリカがそのデバイスギアを使用すると、体を動かしている方――つまり、今だとエリカだけがゲームの世界に入ることになるわ。その間、ゾーイの魂はエリカの脱け殻に残り、エリカの体を動かすことになる。プルステラはどこでも通信可能だから、デバイスギアさえそのままなら身体は何処までも動かせるし、完全にエリカと分離出来るってわけ。それに、デバイスギアには安全装置も付いてるから、万が一、ゾーイがギアを外しちゃっても戻って来られるわよ」
エリカがお兄ちゃんに視線を向ける。彼は肩を竦ませた。
「俺は父さんやヒマリほどゲームの経験が豊富ってわけでもないし、どっちでもいい。エリカに判断を委ねるよ」
エリカは目を閉じた。ゾーイと会話を始めたようだ。
やがて目を開くと、決心したように頷いた。
「私が行くわ。ゾーイがお留守番に応じてくれたから。……それに、マリーの役に立ちたいもの」
「そう。じゃあ決まりね。……はい、エリカ。お金送っといたわ」
「ありがとう、お母さん」
エリカとパパは、それぞれマーケットでデバイスギアを購入した。
エリカはVRゲームの経験は少しばかりあるものの、このゲーム自体は全くの初心者らしい。
わたしがキャラメイクの仕方を教えた後、パパは種族とクラス決めについて相談を始めた。
「蒸気魔法を扱うには慣れが必要だし、今回の潜入には重要な役割だ。これは父さんが受け持とう。……ヒマリはガンナーか?」
「うん」
「なら、エリカは近接戦闘の方がいいだろう。種族は……機械人の感覚は特殊だから、人間の方が良さそうだな。まぁ、ちょっと大変だと思うが、いざという時に盾になることが出来る。銃器は扱いも慣れが必要だし、人間でフェンサーの方がずっと初心者向けだろう」
「はい。人間でフェンサーですね」
エリカは忘れないようにと、口の中で呪文の如く何度か繰り返した。
「とにかくキャラメイクをして、アーデントラウムの管理局で待ち合わせしよう。ヒマリの名前は?」
「『MARIE』だよ。見た目は金髪赤メッシュのショートヘアー」
それを聞いたエリカが興味を示した。
「まぁ、メッシュだなんて、そんなことも出来るの?」
「さっき言った通り。ずっとキャラを使うならじっくり考えた方がいいと思うよ」
「そうねぇ……」
エリカはどうやら時間をかけてしまうことに戸惑いを見せているようだ。パパは大きなお腹を揺らして気を利かせてくれた。
「なら、一時間ぐらい待っておこうか。ベースは自分の顔だから、いじるのは髪型や髪の色ぐらいに留めるといいぞ」
「わかった。それなら何とかなりそうね」
「よし、では各自、自室でログインの準備をしよう。……タイキ、ゾーイの面倒はお前が見ろよ」
パパの指示に、お兄ちゃんは軽く手を挙げる。エリカは申し訳なさそうに言った。
「やっぱり、本当はタイキが行った方がいいんじゃ……」
しかし、お兄ちゃんは「いや」と、キッパリ断った。
「俺、どっちかって言うとアウトドア派だしさ。父さんと趣味が被るのだけは勘弁したいんだよね、ホントは」
パパは苦い顔をお兄ちゃんに向けた。
「……言ってくれるな」
「家族全員インドア派よりはマシだろ? それに、いざって時にエリカ一人より、俺とゾーイの二人の方がいい」
それは、考えたくもないが、怪物の襲撃があった万が一の場合を示唆していた。
「なるほど、一理ある。……じゃあ、決まりってことでいいな?」
「はい」
迷いの抜けたエリカが応じた。
「タイキ。ゾーイのこと、よろしくお願いします」
「ああ。任せてくれ」
最後にママが注意を飛ばした。
「あなた、……それに、ヒマリとエリカも。ゲームで夜更かししても平気だけど、朝食までには一旦戻るのよ?」
「……善処しよう」
パパは咳き込みながら応えた。
「今からだと……まあ、十一時間ぐらいか。途中、ログアウトが困難な場所があるが、何とかなるだろう」
「ええ。じゃあ、お願いしますね。ゲームだけど、ヒマリの命がかかってるんだから」
「うむ。当然だ」
ディオルクの襲撃以来、珍しく真剣なパパがキリッとした顔で頷いた。
パパはデバイスギアを片手に一階の寝室へ向かい、わたしとエリカは二階へ上がる。
エリカはまだ自室の準備が出来ていないので、わたしの部屋に来ることになった。……と言っても、直ぐにゾーイとなって出て行くと思うのだが。
デバイスギアを被ってベッドに横たわったわたしとエリカは、互いに向き合った。
これから一緒に冒険するんだ、と思うと、にやけるのが止まらない。
「へへ……なんだかお泊まり会みたいだね」
「そうね。昔はよくパジャマパーティーなんかやってたわ。同級生たちと一緒に夜遅くまで好きな子の噂話とかするの」
「へぇー。わたし、男子だったから……お泊まり会とは違う感覚なのかな」
「ふふ。楽しいわよ? いつかあなたもお友達と一緒にやるといいわ」
エリカは掛け布団を引っ張り、わたしを懐に抱き寄せた。
ふかふかとしたゾーイの毛並みに、直ぐにあったかさを感じる。
少しばかりこそばゆいような恥ずかしさがあるが、ミカルちゃんの時と違って不思議と落ち着いていられたのは、きっとエリカが年上だからに違いない。
「じゃあ、行きましょう」
「うん」
わたし達はせーの、で同時に蒸気と機械の世界に没入するための合言葉を唱えた。
『インプット:デバイス・オープン――!』
2018/04/05 改訂




