12:赤の異端者 - 4
出発の日。天候は最悪にも雨だったが、ここが室内で助かったと思う。
私とゾーイは小さなハンドバッグ一つを片手にあの長蛇の椅子に座り、雑踏の向こう、遥か空から聞こえる雨音に耳を澄ませていた。
退屈。特にすることもなく、ただ椅子に座って待ち構えているだけで、歩くよりも断然遅い速度で今は見えない搭乗口まで移動している。こんなことならゲームの一つでも持ってくるんだった、と後悔するが、何もかもがもう遅い。既に死出への旅は始まっていた。
何かないものかとバッグを漁ったら、手帳とボールペンが見つかった。それで思いついたのは、プルステラへ行って何がしたいか書くことである。これからの人生をどう過ごすか、理想を描くというのも悪くないだろう。手帳を開いてボールペンを持つと、それだけでわくわくと胸が躍った。
足元でのそのそと動き回るゾーイを見て、どこまでも一緒に大草原を駆け巡りたい、と思った。ゾーイもきっと喜んでくれるだろう。
それから、子供の頃夢見た、キャンプをしてみたい。野外で火を焚き、食事を作って食べる。夜は星空を眺めながらゾーイと一緒に眠るのだ。
ドライブなんかもいい。最初から車を所有しているのかは知らないが、無くてもいつか手に入れて、どこまでも走っていこう。清々しい大地の香りを胸いっぱいに吸い込んで、大自然を肌で感じるのだ。
――と、ここまで書いて、自分が如何にアウトドアを欲していたかが解った。まぁ、無理もない。何せ、生まれた時から外は汚染されていて、ずっと屋内で過ごしてきたからだ。
地球に住んでいながら地球を感じられない環境。ヒトの造った冷たい造形物に身を任せ、その支配を受けながら成長する。これなら、大気が無くても宇宙へ旅立った方がマシなのではないか、と思えるほどだ。
三日前のハイキングは私の気持ちを更にプルステラへと追いやった。あれはいわゆる、プルステラのほんの一部分を切り取った、一つのサンプルみたいなものだ。あんなものを見せつけられ、澄んだ空気まで体感してしまったのだ。気持ちが鈍ることは決してない。
思えば、ここにある施設はどれもプルステラへ行く気持ちを鈍らせないものばかりだ。百年か二百年ほど前まで誰もが体感出来たものを、ここで再現している。謂わば、プルステラのサンプルだけを集めた展覧会場といった感じである。
だから、このアニマポートに来た地点で、誰もが抜け出せなくなる。無神論者だった私ですらも、今ではプルステラを崇めてしまっている。いくら叫ぼうと誰も耳を貸さなかったのは、それだけ人々がこの理想郷に対して貪欲になっていたからと言えよう。
……どれだけ時間が経っただろう。夢中になって手帳を埋めつくし、ひと眠りふた眠りもした後に、搭乗口の前までやって来ていた。
あらゆるスキャンで見透かされ、手帳の入ったバッグも預けられると、いよいよ私は自分の身ひとつとゾーイだけになってしまった。
更衣室で検査着のような服に着替えると、方舟へと続くゲートの前で、ゾーイが引き取られる。
彼女は最後まで私の顔をじっと見つめていた。その表情から何を訴えようとしているのかは判らない。ただ、別れるということだけは、何となく理解できているようにも見えた。
一人になると、途端に孤独感が押し寄せてきた。冬でもないのに寒く感じられ、私は両腕で自分を抱えた。
寂しい。愛おしい。せめてゾーイが傍にいれば、どれだけ心強く感じられることか。
指定された番号の透明の棺桶に身を埋めると、ゆったりとしたBGMが私を包み込んだ。
安らぐかと言われるとそうでもない。ボタンを握る手は汗ばみ、透明の蓋からは容赦なく光が射し込んでくる。この体制で身動きも取れず、私は無防備でしかない。
そんな落ち着かない状況の中、機械音声の説明が終わり、僅か十分という猶予が出来た。その間にボタンを十秒間押せ、という。
押せばいいんだろうか。それで、いったいどうなるっていうのか。
私の人生は終わり、新しい人生がプルステラで始まる? 本当にそうなのか?
ボタンは固い。強い意志を示さなくてはならない。
後戻りさえ出来ない。もし、ここでボタンを押さずに引き返したとしても、私に何が残るというのか? ――いや、ないだろう。
私という価値は学生運動にあると思っていたが、それももう、三カ月前に終わった。オーランドによって剥き出しの裸にされ、ハイキングで洗脳され、もはや選択肢は残されていなかった。
一緒に学生運動をした仲間たちが今何をしているのかは不明ではあるが、きっと同じようにここに来て、プルステラへの移住を決めたのかもしれない。だから、連絡が付かなくなったのだろう。
なら、私に出来ることは、ただ一つ。
このボタンを、押すことだ。
だというのに、決断は鈍く、親指に込める力は充分に満たされない。
未練か。それとも、恐怖か。それさえも解らない。
──と、何やらカプセルの外から騒がしい声がした。係員が騒いでいるようだった。
その声に混じって、聞き覚えのある声が、この透明の蓋を貫いて私の耳に届いた。
「ゾーイ……!」
私は蓋を押し開けた。彼女は直ぐに駆け寄ってきて、私の懐に飛び込んできた。
ふさふさとした赤毛が冷えきった私の身体を温め、大きな舌が容赦なく私の頬を濡らし、その上から更に温かい涙が伝った。
仰向けに倒れたまま、しっかとゾーイを抱きしめる。
もう放さない。ずっと一緒だ。
そして今、ようやく理解した。
私はゾーイを求め、ゾーイも私を求めていたということに。
私もゾーイも、同じ心を胸に抱いている。未練も恐怖も、そこには無かった。
ゾーイを抱きながら、内側から棺桶の蓋を閉める。光はゾーイによって遮られ、係員の叫び声さえも一気に小さくなり、たった二人だけの空間がそこに生まれた。
親指に確かな力を込める。私だけじゃない。ゾーイが、力を与えてくれた。ゾーイに、背中を押されたんだ。
『ボタンの押下を確認、カウントを開始します。10、9――』
強く、もっと強く。
ボタンに更に力を込めながら、左腕でゾーイを更に強く抱き締める。
心臓の鼓動。息遣い。温もり――全てを感じながら、私達は今――。
『――3、2、1、――〈アニマリーヴ〉を実行します』
――旅立つ。
視界が白み、ほっとした表情でゾーイを見る。
気のせいか、その時初めて、ゾーイが笑っていたような気がした。
2018/04/05 改訂




