Ep13「後編 汝らの楽園」
「車輪の下にはヘッセがいます。サンクチュアリ(聖域)の中にはフォークナーがいます」と空島は言った。女の声だった。「そしてあなたはベッドの上にいる」
竜彦は彼の寝室のベッドの上で寝ていた。人がいることは起きてから気づいて、その影が空島だと分かったのは声からだった。相も変わらずとは、今回はいかない。その声は機械的ではなく、感性の籠ったそんな声色をしていた。
ただ、部屋の中に空島がいるという事自体には疑問があった。面識のない椿が寝室で寝ている竜彦の場所へ通す訳がない。隠れて来ようにも、廊下をつたえばフローリングには、すりガラスがはめてあるドアに影が映る。彼女のそこにある存在が、奇怪奇妙でならなかった。
「僕はもうあなたと関わらない」と竜彦は言う。
空島が寝室の電気を点ける。
彼女は本棚にある適度な分厚さの本を手に取り、容易く持ち上げて竜彦の寝ているベッドの傍に積み上げる。
「私とあなたはもう被検体になっている」
五六冊を積み上げると、彼女はそこに腰を下ろす。きちんとしたスーツ姿だった。無論レディースの。
「私とあなたは運命共同体のようなもので、手を握り合っている。いや、枷で嵌められている。動けるけれども一方がその手を引けば一方がその方に引っ張られる。二人は最初、それを受け入れていたけれども、そのうち気が許す程度になると、相手の行動を辛辣に批判する。一方が言えばもう一方も言い返す。だから口論になる。それを危険視した科学者が、私たちに薬を投与する。それは鎮静剤でもあり、同時に気を高まらせる興奮作用を発起させる薬でもある。私はその薬を飲んでいる時でも自我を保てるから、極めて穏便に、それでいて何の発作も起きないから記憶だって保てる。でも、あなたは違う。それを投与されてからの記憶は消し飛び、段々と自我が保てなくなってくる。最後には全ての欲望を解放させたくなって、あるいみ気狂いのような人間の行動に陥る」
極めて冷静に、そして大胆に、空島はそういった話を続けた。
竜彦は黙っていた。ベッドから出る気概はあったが、どうにも出れなかった。というのも、空島の顔さえ見れていない状況なのだ。現状の空島にはどうにも言葉では言い表せないような雰囲気を籠らせているのだ。狐の相手をしているような、そんな感覚だ。
「私は髑髏を身籠りました。あなたとの子です。でも所詮それは髑髏なのです。子供として生まれてきても、決して意味はありません。私はそれを自分の子だとは認識せずに、即座に捨ててしまいました。今一度言います、それは子供として生まれてきても、決して意味のないものでした。けれども、何故かあなたは私の子供と知ってか、それを拾いました。拾った挙句、生んだ母の私を初対面同然の対応をして、接してきました。そのくせに私の知らない女に私の子供の世話なんかをさせて、家族同様の処遇をしています。しかもそれらは愛し合っているといわんばかりに、関係の間合いを徐々に詰めていっている。
けれども、あなたがそれを望むのならば、私はこの世界から落ちましょう。“汝らの楽園”を、こんな部外者が滅ぼしてはなりませんし。しかもあれは所詮髑髏だ。最初から死んでいるような子供、私には関係ない。いつの日か、半分の確率であの子は今を生きていると私は言いましたよね? あれは嘘です。だってあの子はもう、死んでしまっているのだから。死んでいる存在がそれ以上に死を求める事なんてできませんからね」
竜彦は喋らなかった。いつか襖を開けてあやを連れ去ってしまう悪鬼は、彼女の事だったのだ。もしこれが夢であるのならば覚めることを祈るしかない。しかし夢ではない。現実なのだ。
「時計の秒針が、確実に狂い始めている」と竜彦は言った。「直さねばならない。全員の時計の針を」
「ご勝手にどうぞ。私は逃げも隠れもしません。いつまでも有るものと言えば、それは確実に時間と薬であるのですから」
「今度は鐘声ではなく、本物になりそうですが」
「期待しています。あなたのその温かな手が、果たしてあの冷たいトリガーを触れるかどうか、心配ですが」
竜彦は何も言わなかった。
やがて空島は出て行ってしまった。