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人猫  作者: 陸奥
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Ep12 「前編 汝らの楽園」

  “薬が切れてしまわぬうちに”。その言葉が反芻し、脳内をよぎって仕方がない。その言葉のせいで平凡な日常は糸が切れたように変わってきてしまっている。というのも、外見上はなんの変化もありはしない。ただ変わったのは竜彦の頭の回転を支える軸であって、それが傾斜を作るように傾いてきてしまっていたのだ。正直者から疑心暗鬼を隠せなくなった惨めな人間へ。空島から、ある意味授かったとも言えるあやの容体は変わりない。最近では椿がちょっとずつ勉強を教えているらしい。深夜にバイトを控えさせている竜彦は、日中の大半は寝て過ごすことが殆どだが、寝室でベッドに横になっていると、彼女らの声は必然的に彼の耳元に入っていた。算数や国語や、芸術と称したお絵かきの時間。椿は元来子供好きでそういった意味で言えば、現段階のこういった構成は、功を奏しているのだろうか。眠りにつく少し前には絶対にそう言ったことを考える。そして最後に、この生活がいつまでも続くよう、願うのであった。彼自身でも、それは偶像崇拝であることは知っている。ただ、願い祈ることしかできないのである。そうしなければ、静かなる時に獣がふすまを開けて入ってきてしまいそうだから。足音を立てて家を滅茶苦茶にし、挙句の果てにあやをそちらの世界に連れ帰ってしまいそうだから。行き着く果ては月ではない。やはりそれは、どこともいえない空想の場所。現実からは遠く離れた、気の狂った人間が住む場所。悪鬼が往来し、雨が降りしきり、一生死ねない不気味な場所だ。雨に濡れたあやは耳を伏せながら、覚えたてのきちんとした日本語で俺の名前や椿の名前を呼ぶだろう。帰りたくとも帰れない。行き行く人は誰もあやの声に耳を貸さない。まるでそこに彼女がいないかのように、存在していないかのように振る舞う。それもその筈だ。だってそこは自分一人しかいない場所なのだから。誰がいるとか、誰がいないとか、そういったことは長く住めば自ずと知れてくる。そういう恐ろしく、しかし一方で死ねないからある意味歓迎されるべき不死身の場所にあやを迷い込ませることはできない。俺はそれを阻止しなければならない。けれども今の俺はあまりに非力すぎて、眼前の問題すら片付けることができない。だから祈ったり、願ったりすることしかしていないのだ。本当に愛すべき、そして共に歩んでいくべきと決断した人間に、その偶像崇拝をすることしかできない俺は確かに愚かだ。

 ――嗚呼、今日も聞こえてくる、楽園にいる女たちの勤勉に励む声が。そこは悪魔のいない天使の楽園。林檎の香りが匂ってきて、周りには蝶々が飛んでいる。湖畔の水は透き通って鏡が如し。どうか彼女ら天使たちを、そのまま楽園に住まわせてください、それこそが私の思うところ、本望なのです…。

 ふいにインターホンが鳴ったかと思えば、威勢のいい声で管理人の年を喰った女が、素っ頓狂な叫びに近い声を荒げた。玄関先ではなにやら幾人かの住民が集まっているらしく、寝室にいる竜彦でさえ、その異様な雰囲気は察知できた。ベッドから飛び起きて、フローリングから出ていこうとしている椿に廊下で鉢合わせになり、そこは一旦彼女にはあやといるようにと伝え、ざわついている外へ玄関扉を開けて出た。

 集まっていたのはやはり問題があったからだろう、おおよそその問題にも察しはついている竜彦だが、演劇染みた役作りを素人ながらに真似ながら管理人の女に立ち会った。

「変死よ! 変死! それも七つ!」と管理人の女は声を荒げて言う。

「人ですか?」と竜彦は訊く。おおよその察しというのは、そのことであった。

 しかし竜彦の考えに背き、女は首を横に振ると、こんどは鼻息を荒くさせて言った。

「動物よ動物! それも全て小さな子猫ちゃんたち!」

 耳を疑って卒倒したのは、竜彦であった。


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