Ep11 「後編 薬が切れてしまわぬうちに」
頭痛の予兆に幕は降り、雲が月を遮る。深い深い夜だった。だれもが幻想的だとそれを示すが、寝ている人間には関係ない。部屋の中を蹂躙して回る音は虫の音だとばかり思っていた。けれども違う。狂気の音が聞こえる。俺にははっきりと、そして静かに。誰彼かまわず心臓を食い散らす音が聞こえる。無法者の息遣いと、笛の音が…。幽かな言霊が俺の耳元で叫んでいる。何とも言っているのか分からない言葉で。
竜彦は目を開けて辺りを見回す。けれども何もいない。いる筈はない。
不審な声や音がしているのは外からだと分かった。今は何時とも分からない深い深い夜。手探りでフローリングを抜け、玄関へ向かう。下駄箱の上にあった小さな懐中電灯を持ち、引き戸を開けて運動用の為に買っておいた靴を履く。ジャージ姿でニット帽を被っていけば、早朝ランナーとでも思わせられるだろうと、竜彦は安直に考えていた。
そして、出る。外へ。エレベータは使わない。その理由は竜彦自身でも知りえなかった。ただ、言わずもがな、その不可解な音と声は外に出ると確かなものになっていたので、それらを寸分の狂いなく自分の境地を判断させる材料として耳の内に入れておきたくはあった。だから外にいる内は機械的な音は聞きたくはなかったのだ。あくまで自然的な音を。歪でありながらも人の心に安らぎを与える音を。今回の場合に限っては全く以て正反対と言うべきところではあるが。
駐車場を抜けて路上へ出る。最初は山林の方でそれがしていたのだと彼は思っていたが、どうも違うらしかった。山林へ続く道は虫の音で全てが納まっていて、それらしきものは影も無い。だとすれば、必然的に向かうは町へ続く道へとなる。田んぼが連なる真っ平らな景色はどうも夜には似合わない。行く気はしないけれども、その音に誘われるように竜彦はふらりふらりと足を動かした。
次第にその歩幅は広くなっていき、数分で彼は走る態勢を取っていた。あやを拾った場所にはわき目も振らずに走る。懐中電灯は手に持ったまま、点けずにいた。
音は次第に強まり、彼の心音もまたそれに同調する。
静かで静かな歩調。
ふいに立ち止って辺りを確認する。間違いなかった、風が吹くたびにする奇妙な笛の音。無法者がする痰の絡まった息遣い。それに微かにする、何かを濡らす音。マンションから約五キロとしないその道のり。竜彦の息遣いも荒かったが、その木々の間からする奇妙な音はそれよりも大きくあった。
勇気と大胆さを兼ね備え、竜彦はそこに電灯の光をやった。
ただ、その勇気と大胆さを兼ねた行動の代償は専ら、悔い改められるのだ。
命運ともに尽きたと思ったが、俺にもまだツキはあった。
当分の間、あやは外に出せない。椿にもきちんと話してからの後だが…。
…こんな時に携帯が鳴るとは…。まだ五時だぞ? でも、一人だけ、常識に物言う人物が。
「嫌な予感がしたので、電話を差し上げました」と開口一番で空島は言った。電話をとった瞬間、彼女はそうなにげなく言ってのけたのだ。常人ではやはりできない。
「それが的中したら、あなたが犯人の肖像をしっているという可能性は否めなくなりますが。その危険性をも買って出たのですか」
「薬が切れたらあなたに電話するようにしていますので。今回は、その一回目」
「私はあなたを疑うようになる。薬もなにも、それはあなたの幻想だから」
「分かりました。なら私は、“薬が切れてしまわぬうちに”電話を差し上げるようにしましょう。男は女となり、いつぞやか花は散って猫はいなくなります。なんとも、薬がなければやはりどっちつかずですしね」
電話は切れた。というより、電話は切ってしまった。