⑧
僕と謎の男はマンホールの蓋を押し上げて、下水道の中から出てきた。真っ暗で湿っぽいところから出てきてすごく気持ちがいいし太陽の光がまぶしい。
一方男はマンホールの蓋をもとに戻していた。
「随分軽いな。このマンホール。すり替えてあったのかな?」
そういうと男は軽々とはいかないが持ち上げて元の場所に戻した。
「ここってどこですかね」
僕が聞くと男は、「さあ」とのみ答えた。
「これから僕はどうするべきなんでしょう?」
「間借りしているところへ帰ればいいよ」
「その……学校の宿泊施設を間借りしているもので」
「そう。先生探して聞けばいいよ。じゃ」
興味なさげにいた男はそういうとどこかへ歩いて行ってしまいそうになる。
「ちょっと待ってください」
この男の冷ややかな目は、僕の嫌な記憶を呼び起こすから一緒に行動したくないけど、しょうがない。
「あの……僕は方向音痴なもので」
僕が勇気を出していったとき、男は携帯をいじっていた。
「話聞いてます?」
「聞いてるよ。でも、私にも用事があるのでね。適当に歩いてれば、知り合いと会えるんじゃないか?」
「そうかもしれませんけど。ところで用事って?」
「家に帰る。下水道の中を歩いてきたしね」
はっとした。そういえば、僕も相当汚れている。匂いも相当なはずだ。
「僕もつれってくださいよ」
男は嫌そうな顔をした。とはいえさすがに嫌という気にはなれなかったのか
「……わかったよ」といった。そしてため息をつく。鋭い目が少し優しげになった。
「そういえば、名前なんて言うんですか?」
「名無しの権兵衛。君には発言しづらいだろうから好きに呼べばいい」
変な名前。ナナシノ……習志野さんとかと聞き違えたのかな。
「そういえば、なんで、日本語しゃべれるの?」
「結構勉強したんですよ」
留学生はそう答えた。あまり感情がこもってない。その言多分嘘だろう。
彼は何かとこちらを警戒しているようだ。まあ、留学先で大規模犯罪に巻き込まれたのだから、無理もないかもしれない。
私達が歩いている道は人が少なかった。静かな住宅街で、街路樹が生えた整然とした道だ。
しかし、無粋な人間というものはいるもので、静かな住宅地に古びた自転車が放置されている。
しかし、私はこの自転車には見覚えがあった。天城が駅前から放置してあったものを拝借したものだった。
天城は大抵、自転車を盗んだ後駅前などの自転車の多いところに放置する。ここに置きっぱなしなのは不自然だった。
習志野さんは放置してある自転車に歩み寄ると、かごの中から何かを取り出した。黒っぽい手帳だった。
習志野さんはその手帳を素早くめくった。中身読めているんだろうか?
そんなことを考えていたときに、彼の手が止まった。そして、そのページをじっと、眺めた後
「鈴木義男……元防衛大臣か……天城は何をする気だ……」
とだけつぶやいた。その声はすごく小さく、常人なら聞き取れないくらいの声だった。でも、僕は聞き取れた。
耳が異常にいいのは、トラウマのせいだが、こういう時は感謝したくなる。
「映研の映画公開がこんな大きな事件に発展するとは」
習志野さんは手帳から取り出したと思しきメモ用紙をポケットに入れながら言った。
天城はアパートの一室で手帳に目を通している。大臣の服の内ポケットからとっといたものだ。目を通し終えると、風呂場の方に向かった。
そこには大臣が気絶したまま倒れている。運転手の方はもうこの世にはいない。手帳は自転車のかごに捨てておいた。
天城は大臣に水をぶっかけてみた。あっさりと大臣が起きる。
「お目覚めですね。大臣殿」
「ぎゃ」元大臣が悲鳴を上げて、
「さて、単刀直入に言いますと、教えてほしいものがありまして」
「なんだ?」
元大臣は相手が子供と知って少し落ち着いたらしい。
「防衛省情報本部第三資料室に入るための暗証番号です」
「そんなこと聞いてどうする?」
「調べたいことがありますのでね」
「はあ?」演技ではない。天城はそう判断した。
「はあ、じゃないですよ。全く」
「だいたい、おまえは誰だ。私は誰だかわかっているのか」
天城はため息をついた。故意に強がっているのでなく、素の状態だ。メディアに登場している時や有力者と会うとき以外はこういう風に人に接してきたのだろう。おまけに自分がどういう状況か完全に理解していないらしい。
「僕は天城森羅と申します。あなたが、陥れた日番谷一等陸佐の息子ですよ」
恭しく礼をしながら天城は言った。
「あなたは政界の派閥のバランスから防衛の事をこれっぽっちも知らないで防衛大臣になった挙句、尖閣諸島沖武力衝突事件の際にはトン チンカンな発言繰り返し問責決議案で大臣の座をはねられた政治家です。ついでに言うと前にクビになった防衛大臣の田中大臣の人柄は温厚だそうですね。けど、あなたにはそういう擁護論はない」
目の前の老人は目の前の少年をまじまじと見つめた。前に自分が陥れた人物の面影と重ね合わせているのかもしれない。そのためか、後半の言動もほとんど聞いていなかったようだ。
「さて、聞きますが、暗号コードは?」にこやかに天城が聞いた。
「そんな物知っていても、君には入れないぞ」
「馬鹿ですね。さすがアホ大臣。僕はいつ、自分で入るなんて言いました?」
「なに?」
「何じゃありませんよ。まったく。さっさと言ってください。ご老体を殺さないように拷問するのは面倒でしてね」
何でもないように言う少年に老人は恐怖を感じた。
「わ、私は知らない。覚えてない」
「とぼけたって無駄ですよ。あなたが、健忘症で何につけてもメモをとる癖があることは防衛省でも有名だったそうですね。さて、この手 帳のどの文字列が暗号コードですか? それにしても、不用心ですね。この手帳、中国や北朝鮮あたりがほしい機密情報満載だし」
老人が何も言わないので天城は続ける。
「言ってくれませんか。仕方ないですね」
天城が近づくと老人が震えあがった。
「もしもし? ええ。暗号コードは76534―FRTK―SS397Y―DDF8だそうですよ。じゃよろしく」
天城は防衛省にいる知り合いに電話をかけた。防衛省情報本部第三資料室は一佐以上の自衛官か部長クラス以上の防衛省職員なら暗号コードを知っていれば入れるらしい。
連絡を入れると、
「さて、しばらくはゆっくりしているか」
天城は失神している老人を風呂場に残して、リビングに戻るとコーヒーを入れた。そして、テレビの電源をつける。
テレビでは、豊旗高校に武装した組織が籠城し、何らかの交渉をしていると報じられていた。




