3-9 “お化け”
ひとりぼっちになることが、おさないころからこわかった。
なにもかもからめをそむけて、わたしはひとりぼっちをこわがった。
きみのたましいをきずつけつづけて。
ひとりぼっちをこわがればこわがるほど、ひとりぼっちになっていくことなど、なにもしらずに。
一人、冷たい玉座に腰掛ける。
両手を差し出し、繋いでくれる人はいない。
半身たちは、もうここにはいない。
[9]
「いい子やね、フタアイは」
溜息ともつかない吐息をこぼしたあと、幼馴染はカップに残っていたコーヒーを飲みほした。基本的に誰かを褒めることの少ないこいつにしては珍しいと、乃至は横目でズィルを見遣る。
時刻は午前一時。明日――もう今日になってしまったが――予定のある二藍は二時間も前にベッドに入ってしまった。乃至は、これから半時間後に始まる会議に出なければいけないズィルに付き合って夜更かしをしながら、最近会っていない旧友の近況を聞いていた。
「確かに鎌木はよくやっているが…突然どうしたんだ」
乃至は自分が他人の心情を推し量るのが苦手だとよく理解している。昔から鈍感で師や兄弟子には呆れられていた。今でもフロルに窘められるほどなのだ。ましてや、いつもへらへらと笑っている、普通の人より捻くれたこの友人の思惑など分かるわけがない。
「“お化け”に取りつかれやすいのは、善人と悪人、どっちやろうなぁ?って話」
「ズィル、何を知ってる」
「ナイシはどっちだと思う?」
ズィルは簡単には答える気がないらしい。―――鎌木二藍の“亡霊”について。
「鎌木の“亡霊”は、俺の前にはまだ現れていない。養成所の試験で教官たちをたやすくあしらってから、三か月以上も鳴りを潜めている。普段の生活でも、鎌木の様子が変わるところはない」
養成所の卒業試験で教官たちすら太刀打ちできないほどの手練れの“亡霊”が二藍に宿ったことはとうの昔に聞いているのだろう。たった十五歳のラジレオン家の当主はお飾りではない。“H.A”中の情報は全てと言っていいほど把握しているはずだ。
「ただの善人じゃあ、“お化け”には勝てない。悪のような、独善的な善でないと、勝てないんや。…“お化け”は、怨念やから」
「本っ当に聞いちゃいないんだなお前。―――憑りつかれるかそうでないか、勝てるか負けるかなんて、ようは信念の強さってことじゃないのか。ただの善人は、そんなに意志が弱いのか?」
それではあまりにも救いがないんじゃないか。怨念か悪か独善かしか、世界には残らないんじゃないか。
そう言うと、ズィルはとっても嬉しそうに笑った。時々見せるこの表情が、乃至はずっと前から気に入らない。何がいけないのかわからないが、ぞわぞわと、背中を質の悪いスポンジで優しく引っ掻かれているような、気持ち悪さと不快感が込み上げる。
「ま、ナイシが心配しなくても、そんなに悪いことはしないよ。寧ろ守護霊みたいな?ほっとけばそのうちいなくなるやろ」
適当な返事にうんざりして乃至は顔を歪める。そんなに簡単な問題ではないだろう。
「なんだかよくある些細なことのように言ってるが、下手したら“亡霊”は闇のスパイなのかもしれないんだぞ。分かってて言ってるのか」
「あー。そんなスパイなんて恐ろしいもんやないから。そんな心配はほんとに無用や」
「…随分暢気なことを言うんだな。よくある話とでも言うつもりか」
「言うつもりや。シィクレットやけど、まぁ時々ある話や」
今度こそ乃至は絶句した。ふざけているのか本気なのか判別がつかない。
「信じられへん?そんなわけないよなぁ?俺らの力だって似たようなもんでしょ?」
「俺たちの力が働くのは、俺たちが生きていて意志を持つからだ。死人は死人。報告通り“亡霊”と呼んではいるが、俺は本当に幽霊だなんて思っていないからな。鎌木のもう一つの人格か、あるいは誰かの“能力”だ」
「ナイシ、」
ズィルの何の変哲もない茶色の瞳が乃至を真っ直ぐに捉えた。いつもと同じ、何の変哲もない笑顔だった。
「お化けが怖いんじゃないんだろ?ナイシが怖がってるのは、今までお化けを見たことがないからや」
「……どういう意味だ。何が言いたいのかよくわからない」
「ほんとにお化けがいるんなら、サギリさんもカムユサも、ナイシの前に現れるはずやもんなぁ?……死にそうになったナイシのこと、放っとくはずないもんなぁ?」
乃至は体中の血液が沸騰したかと思った。それほどまでにズィルの言ったことが信じられなかった。こいつは言ってはいけないことを言った!笑いながら、乃至だけでなくあの二人を嘲った!幼馴染の暴言が、乃至の心の中をずたずたに引き裂きながら反響する。
多分無意識のうちに、ズィルに攻撃をしようとしたのだろう。気付けば乃至は床にひかれたラグにびしょ濡れの身体を押さえつけられていた。“能力殺し”のラジレオン家当主に、能力を発動したらどうなるかなんて明らかだ。どくんどくんと空間を“魂動”と“魄動”がバラバラに響き、ズィルに抑えられていなければ暴走しているかもしれないほどだ。
ズィルは動物を宥めるように、うつ伏せになった乃至の上に優雅に腰かけながら背中をゆっくり撫でた。
「落ち着きぃ。ナイシは体弱いんやから、あんまりずらす(・・・)と長生きできひんよ」
「誰のせいでこんなになってると思ってんだ。さっさとどけ」
“魂動”を落ち着かせようと歯を食いしばりながら睨み付けると、ズィルは背中の上でそっぽを向いた。
「俺は悪くないもぉん。ナイシが信じてくれないから買い言葉で言っちゃっただけだもぉん」
「気色の悪い語尾を付けるんじゃない!…あぁ、もうわかったから、早くどけよ」
ようやく落ち着いた波動に安心しつつ、ため息をつきながらズィルを振り落す。ごろんとラグに転がったその隙に、乃至は自分の寝巻を濡らしている水を一度空中にまとめて浮かべる。そしてそのソフトボールほどの大きさの水球を、そのまま全てズィルにぶちかました。
「つめたっ?!なにすんの!」
「うるさい。俺は怒っているんだ。びしょ濡れのまま会議に出てたくさん嫌味を言われて来い」
「あぁ~!この癖毛ぇまとめるのにどれ程の苦労があるか知らんのか!服も着替える時間無いしぃ!」
「ざまぁみろ」
乃至の瞳が昏く揺らめき、まるで嵐の夜を思わせる青色になっている。まだ治まらない怒りを鎮めようと、大きく息を吐く。
「さっさと行って恥かいて来い」
「今日は真家と御三家しか来ないんよ。あの人らは笑うどころかきっと無反応や!笑われる方がまだましなのに!」
正装の左右非対称な深緑のコートを羽織り、ズィルは幼馴染に手を振った。
「じゃあな。フタアイによろしくぅ」
「どうせ明日も会うだろうが。おやすみ」
扉が閉まる。乃至は一人になったリビングで、いなくなった幼馴染の余韻に浸っていた。
ズィルが乃至を怒らせるのはこれが初めてではない。その度にズィルの“能力殺し”で乃至の怒りは無効化されて、そしてズィルが水をぶっかけられて終わるのだ。当たり前だが、友人を辞めてやろうと思ったことは少なくない。しかし、“H.A”において、乃至の同年代で、前線で活躍するランクの高い能力者は多くはなく、腐れ縁はなかなかなくならない。ズィルはひどいことをしながらも乃至をけっして嫌っていない。寧ろ友人としては心配性なほどに気遣い、いつもは完璧な親友の姿でいる。時々、人が変わったように乃至の怒りを買うようなまねをするのだ。
…わざと乃至の導火線に火をつけるようなことを言うのは、ズィルにとって必要なことなのかもしれないと思うようになったのはここ数年のことだ。
幼い頃から戦場で活躍した者は、どこかが歪になってしまうことも多いのだと、乃至は知っている。
一度大いに壊れてそのまま死にそうになった乃至も例外ではない。歪に違いないだろう。
それに加え、当主であるズィルは、司令官の一人として人の生き死にを左右する重責をも負っている。どこかで発散させなければ、幼馴染が壊れてしまうのではないかという不安があった。
「いなくならないでくれ、」
自分がズィルにどんなにひどい言葉をぶつけられるよりも、その過程でかつての師とパートナーが嘲笑され侮辱されることよりも、ひとりぼっちになることの方が、乃至は怖くて仕方がない。
唇を噛みしめて、乃至は目蓋をきつく閉ざした。




