3-3 怯懦
君を愛するようでいて、
僕は僕を愛している。
[3]
その後内線で呼び出しが入り、烏有は慌ただしく二藍達の前から去っていった。残されたのは、二人の少年と、大きく重い紙袋ひとつ。
「……中、入ろうか」
乃至が溜息を吐き出して、ようやく部屋の中へと入る。乃至は自分の机の上に紙袋を置くと、着替えを始めた。二藍もそれに倣い軍服を脱ぎながら、気になっていたことを尋ねる。
「ねえ、ズィルさんって、誰なの?」
「俺の幼馴染だ。所属は一応本部だけど、小さい頃からあっちこっちの支部に顔出してるんだよ。最近は忙しくて会ってなかったけど」
「乃至の幼馴染かぁ。どんな人なの?」
「…どんな、か。なんて言ったらいいんだろうな。大人っぽいような、子どもっぽいような……真面目なような不真面目なような、どっちつかず、みたいな……」
珍しく歯切れの悪い乃至の様子に、二藍は首を傾げた。ズィルという人物について話すのが嫌だというのではなく、本当に表現に困っているようだった。
「掴みどころのないところが、特徴と言えば特徴なのかもしれないな。ま、実際に会ってみたらわかると思う」
今度紹介するよ、と乃至は微笑んだ。
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かぽん、と湯気の向こうで桶が置かれる音がした。
「あー、きもちいー」
浴槽の壁に背中をもたせ掛けて、緩み切った表情で二藍が笑った。半年前、“H.A”で能力者として生きていくことを決意していたときのあの切迫した様子は見る影もない。
二藍は乃至と自分以外に浴槽の中に人がいないのをいいことに、ぱしゃりと足で湯を蹴った。年相応のまだ幼い仕草に内心安心しながら、乃至は「おつかれさま」と返事をしてやる。
「というかさ、ミュウールさんって人、乃至のことほんと大事にしてんだよなー」
にやりとからかうように笑う二藍の含みが分からず、乃至は首を傾げた。まあ、彼女には昔から世話を焼かれていたのは確かだと頷けば、ほほーんと変な声を出してさらににやにやと笑うのでますます訳が分からない。
「いいよねぇ、そーいうの」
「姉は一人で充分だと思うが」
ここ数年で心の底から感じているままに返すと、ああ、姉さん女房みたいな感じなのかと二藍が頷く。そして、
「って、姉⁈え、乃至ってお姉さんいたの?え?」
「いたのって、知らなかったのか⁈」
数ヶ月も光の塔で暮らしているからてっきり知っていると思っていたが、そうでもないらしい。
「会ってみたいな〜」
「いや、会うも何も……」
「やっぱキョウダイっていいよねー。性別関係なくさ、似てるところ似てるし、かと思えば正反対の部分もあって、でもやっぱ根本的なところでは一緒でさ」
二藍はそう言って小さく笑うと、また湯を波立たせる。
「書類で知ってるかもしれないけど、俺も姉さんいるんだよね。弟の俺が言うのもなんだけど昔から頭良くてさ、必要なことがすぐ分かって要領いいし、物腰柔らかくて辛抱強いから、大人たちからいい子だねっていつも褒められてた。姉弟仲は歳の差がうまい具合だったのか、姉さんが我慢してたのか知らないけど、すごく良くて、」
ぱしゃり、また波が起こる。
「……我慢、させてたのかなー」
最後は独り言らしく、湯面をぼうっと眺めて遠くへ思いを馳せている。
時々、二藍はこの表情をする。今まで乃至は色々な場面で、たくさんの人が同じ表情をしているのを見てきた。泣きそうとは言わないけれど、喉元までせり上がる何らかの感情を堪えている。選ばなければいけない時の自己決定のそのあと、波のように引いては押し返す小さな葛藤をやり過ごす。影のように、跳ね返そうと躍起になるには余りにも希薄な後悔にふと襲われる。
こういう時に、いつも乃至はどうしていいのかわからない。
“H.A”の、特に戦闘員や戦闘補助員は常に生死をかけた決断をし続ける。決断しなければ前に進めないどころか生が断絶する。しかし、幾つもの分岐点で切り捨てた選択肢が時に亡霊のように目の前に透き通る体で立ちはだかることがある。生きるためには亡霊に引きずられてはならない。それは過去で、もう変えることのできないものだから。
とはいえ、乃至自身もまた亡霊に取り憑かれた一人だ。亡霊から目を逸らすことで活路を見出した弱い人間だ。
過去を悔やむことが未来を見つめる準備だと血の繋がらない姉は言う。
『過去に浸ることは悪いことじゃないわ。前に進むには、過去を消化しなきゃいけないもの。』
『お前は選択を間違えた失敗した結果だって、時々あの頃の私が、恨めし気に二つの目で私を見つめるの。もうどうしようもないのに、戻れないのに、それでも怨嗟を吐き出し続ける。』
『彼女を視界の端に入れながら、それでも私は今の自分を肯定しなきゃいけない。』
『今の私さえもがここにいる私を否定したら、もう誰にも私は肯定してもらえないから。』
だから、そんな目をした人がいたなら、そっとしておいてやれと彼女は言った。
その人の中で、少しずつ過去は形を崩していって、元は異物であった食べ物が溶かされ吸収されて体の一部になるように、受け入れられていく。そして、その人とともに未来をつくっていく。その人はその未来でまた幾多もの選択を繰り返して、未来をつなげる。そのサイクルは他人が介入できるほど簡単ではない、と。
でも、今目の前で薄茶の双眸を揺らす二藍を、そのままにしていいのだろうか。
十五年間生きてきた世界と切り離され、二藍はどれ程の孤独を感じているだろう。二藍と同室の乃至は、夜中に時々二藍が目を覚ますのに気付いている。ベッドの上でぼうっと虚空を眺めて、キッチンで水を一杯飲んで再び体を横たえる。どんな夢を見ているのかは分からないし、もしかしたら何の夢も見ずに目を覚ましているのかもしれないが、“H.A”での生活がきっとその原因になっているのだと乃至は思う。
このまま二藍が心を壊してしまわないだろうか。
また、パートナーを失ってしまわないだろうか。
乃至は唇をそっと噛んだ。
結局は、自分は二藍を心配しているのではないじゃないか。
《パートナー》という肩書を持つ人を失いたくないだけだ。
―――また、俺は孤独に怯えている。




