2-11 家族
―――たいせつで、いとおしい。あなたはわたしの“ ”です。
[11]
熱い湯の中をたゆたうような感触。
少し息苦しくて、でも羊水に浮かぶ胎児のように安堵感を覚える。
母の記憶などもうほとんど残っていないけれど、家族の記憶なら、大切な一人のことだけではあっても鮮明に覚えている。
カフカンド。私の愛おしい家族。
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『どうして、まだ僕に構うの』
私のおとうとが私の家に来て初めて発した言葉に、幼い私は目を見開いた。 何しろ両親を一度に失ったショックで口がきけなくなったと思っていたのだ。
私がぽかんと口をあけて硬直していると、彼は何を思ったのかその幼いながらに端正な顔を歪ませ、読んでいた絵本を置いて立ち上がった。そのまま部屋から出て行こうとするので、私は慌てて彼の半ズボンの裾をつかんだ。私の不意打ちに反応できずべシャリとラグの上に彼は転がったが、そんなことに構っていられないほど私は必死だったのだ。
『わ、わかんない!』
……そうして出てきた言葉がこれだ。
咄嗟に出てきた言葉ほど本音を含んでいるものだが、これはひどいと我ながら思ったものだ。私は片頬を引き攣らせた。ラグに座り込んで私を見上げる目の前の少年もまた、何とも言い難い微妙な表情をしている。
『………』
『わかんない、けど。だけどっ、一緒にいたいの!そばにいたい!』
何の説明にもなっていない私の言葉に、彼はふっと顔を伏せた。
『だから、どうしてそばにいたいか聞いているのに……』
『あ、うん……えっと、だから…一緒にいたいから、一緒にいて……あれ?えと、うん、いっしょに……』
混乱した私は目を回しながらしどろもどろに言葉を綴る。
一緒にいたいのは、どうして?あれ?
『……一緒にいたら、だめ?』
よくわからなくなり、問いかけた。どうしてかなんてわからないのだから、ひとまずそれさえ教えてもらえればよかった。
でも、ダメと言われてしまったらどうしようと私は瞳を潤ませ、黙り込んでしまった少年からそっと目をそらした。新しい家族に嫌われてしまうのが、怖かった。
『うわっ!?』
突然体に受けた衝撃に、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。勢いに負けて座りこんだ私の正面には、小さな少年の体。
『カフ……?』
腰に縋り付くように回された腕が少し苦しいが、抱きついている彼の方がよほど苦しそうに震えている。
『…っう、ひっく、ふっ……』
次第に漏れ出した嗚咽に、私は戸惑いながらも背中に手を回しあやすように優しくゆっくりたたいた。
ぼろぼろと涙をこぼしながら彼は顔を上げた。その潤んだ瞳に、くしゃりと歪んだ表情に、私は息を呑む。
―――今思えばそれが、私の彼への激情の始まりだったのかもしれない。
鼓動が一際高く、私の中で鳴り響いた。新しい家族へ対するものとは似ているようで明らかに違う感情が、私の中を駆け巡る。
『一緒にいて。ずっとずっと、一緒にいて。お願い、ナタリア……!』
その悲鳴じみた懇願に応えて、私は少年を強く抱き返した。
『ずっとずっと一緒だよ、カフ』
*****
カフカンド。私の愛おしい家族。
もう手を繋ぐことはおろか、目を合わせることさえないけれど。
私は貴方をいついつまでも想っている。氷の心と揶揄される私の胸の内は、貴方への想いで燃えたぎっている。
その熱が貴方を壊してしまうのを恐れて、私は逃げた。
家を捨て、父を捨て、母を捨て。貴方と交わした約束までも捨てて。
「ごめんね、カフ」
アイスブルーと言われる双眸から零れおち湯の中へと溶けるのは、真珠のようにきらめく光の礫だ。
怖がりな私をどうか許して。貴方を本当になくしてしまうのが怖かったの。とてもても、怖かった。
幼子のように泣きじゃくる私の頬に、そっと誰かの手が触れた。
慰めるようなその感触があまりにも懐かしくて、私はもう一度謝った。
「ごめんね、カフ」
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目が覚めて一番に飛び込んできたのは、医務室の白い天井を背景に覗き込むリリアの顔だった。
いつも明るい彼女がウサギのように目を赤くして、濡れた頬には幾筋か髪の毛が張り付いている。誰が見ても泣いていたとわかるその顔に、私は何が何だか分からないまま胸を痛めた。彼女は笑顔の似合う少女だった。
「ナタ、リアさ、…っ、よかった、ほんとに、良かった…!」
嗚咽の合間からこぼれた言葉で、彼女が私を心の底から心配してくれていたことをようやく理解した。彼女の泣き顔を見て痛んでいた胸が、今度は熱を帯びてきた。どうしよう。心配をかけたのに、巻き込んで怖い思いをさせてしまったのに。なのに、嬉しいだなんて……
「ありがとう」
思ったままに口に出せば、リリアは涙目で私を見つめた。
「ほんとに、ありがとう」
何かが顔の横を流れていく。仰向けに横たわっている私の髪に微かな不快感とともに沁み込んでいった。
勘当されたあの日に泣いてから、一度も泣いていなかったことに今更気づいた。でもこれは、あの日の涙とは違う、きっと嬉し涙だ。リリアがそばにいてくれることが、嬉しいのだ。今までいてくれたことも、今もいてくれることも、どちらも嬉しい。
「お礼を言うのは、私のほうだよ。きっとナタリアさんは覚えていないけど、私、中等部で、同じクラスになる前、ナタリアさんに助けてもらったことがあるの。苦手な先生にやたらと絡まれてた時に、みんなの前で庇ってくれた」
そんなこと、あったのだろうか。覚えがなくて首を傾げた私に苦笑して、リリアは首を振った。
「きっとナタリアさんにはそんな気がなくて、結果的に庇ってくれたんだと思う。だけどそれから、ナタリアさんのことが気になっていって、ずっと友達になりたくて、付きまとってたの」
リリアは一度俯いて、それから顔を上げて私にしっかりと目を合わせた。
「私、ナタリアさんの友達になりたい」
きれいに揃えられた両膝の上の拳が小さく震えているのに気づき、私は少し痺れの残る手をそっと重ねた。
「私は、リリアさんのことを友達だと思ってたわ」
リリアがぽかんと口を開ける。何か言おうとして、声が出ていないようだ。
「だから、今度は親友になってもらえないかしら」
パクパクと口を開いたり閉じたりしている様子が金魚の様で、私は口元を緩めた。
――――リリアがもう一度泣きながら私に抱きついたのは、その数秒後のことだった。




