2-10 責任
―――重みを感じるべきなのは、私だ。
[10]
絶望と恐怖で動けなくなった私の耳に届いたのは、みしり、と教室の扉が軋んだ音だった。
「ナタリア!!」
私が振り向くよりも早く、その声の主は私の前に躍り出た。正気を失った男子生徒の前に立ちはだかるその後ろ姿しか見えないけれど、私にはそれが誰だかわかる。
―――カフカンド。私の……
「ナタリアさん!」
私の強張った体を強く抱きしめたのは、ただ一人の友人。リリア・ティレフスだ。
小柄なその体の柔らかさと温かさに、自分がどれ程凍り付いていたのかを思い知らされる。
「よかった、間に合って……」
掠れた涙声が、耳元で響く。私の中に温かいものが沁み込む。思わず抱きしめ返そうとしていた私の腕は、カフカンドの声に現実に引き戻される。
「おい、お前自分が何してんのか分かってんのか!退学どころの騒ぎじゃねぇぞ、これは」
記憶にあるよりもずっと低くなった声で唸るようにカフカンドはロベルトを恫喝した。しかし、正気を失った少年はそれに応えることなく、耳触りの悪い笑い声をあげて再び剣を持ち上げた。
「!共鳴がっ……!」
失調に気付いたりリアが小さな悲鳴を上げた。ここまで波動がズレた現場に遭遇したことなど、私同様彼女も経験したことがなかったのだろう。
「……ナタリア」
突然私を呼ぶ声に、こんな状況にもかかわらずドキリと鼓動が高鳴った。私が返事をするのを待たず、カフカンドは言葉をつづけた。
「このままじゃ俺たちも失調に巻き込まれる。どう考えても生徒の手には負えない……教官を呼んできてくれ」
「……カフは、」
「……俺はここで引き留めてるから、早く」
予想通りの返答に、もちろん簡単に頷くことなどできない。
「逆のほうがいい。…治癒能力のカフがここに残っても、できることは少ない」
「逃げ回ってひきつけることぐらいできるだろ。それにナタリアにはその人もいるし」
「リリアは私より優秀。貴方たち二人が教官を呼んでくればいい」
平行線を辿る早口の応酬に、リリアが迷うように私たち二人の顔を交互に見ている。けど、私もここは譲れない。二人の姿を見ただけで、私は不思議と恐怖と混乱を忘れることができていた。カフカンドとリリアには一刻も早くこの場を離れてほしかった。
「お願い、カフ、私の言うこと聞いて」
「……お前、いつまで姉貴面してるんだよ」
懇願するように告げれば、苛ついたように返される。私は思わず息をのむ。無意識に昔のような言い方をしてしまったことが恥ずかしく、何も言い返せない。
「お前があの家に居られなくなったのは、そうさせてしまったのは……。なのに、なんでお前はまだ……!」
「……カフ?」
「なんでまだ、俺を……!」
カフカンドが、何を言っているのかわからない。もう姉でもないくせに偉そうに言うなという意味ではないのだろうか。カフを……?
「あは、はぁっ、ははは……」
私の混乱は大きくなった笑い声に押しのけられた。床に向かって振り下ろされた長剣の軌道に、三人とも跳ねるようにその場所から退いた。暴走しかけの力は当たっていないはずの部分さえ破壊して、教室の床はタイルやその下のコンクリートの残骸で歩けないほどになっている。
「これ、一人じゃ足止めも危ないよ!全員で逃げたほうがいい!」
埃にむせながら私のすぐそばでリリアが叫ぶ。
「三人同時に逃げられるようならとっくに逃げてる!わかったらさっさと行け!」
どうしよう。どうすればいいのだろう。焦って考えれば考えるほどいい案は浮かばない。どうにかして助けを呼ばないと……
「……あれ?」
私はふと、あることに気が付いた。
この轟音に何故誰も気づかないのだろう。
授業はとっくに始まっている時間だ。カフはどうだか知らないが、私とリリアはいつも授業をさぼったりしないし、ここにいる三人の男子たちも、表向きは優等生と言われている生徒だ。もともと授業をエスケープする者が極めて少ないこの養成学園で六人もの生徒が同じ時間に居なくなり、そのうち私とリリア、そして三人の男子たちは攻撃系の合同授業をとっているのだ。気にも留められないということはまずないだろう。
そしてこの学園は対闇用の軍事施設なのだ。セキュリティは完璧である筈。なのにどうして、これだけ暴れても何の反応もなく、教官の一人が駆けつけることも無いのだろう。
『ただの、暴走“事故”じゃない……?』
誰かが、何らかの目的で、この状況を作ったのだとしたら――
「ずいぶんとまぁ、いろいろとしてくれたものだ」
私の思考は、そこで途切れた。
入ってきたのは、優しげな面立ちをした一人の少年。髪の色と瞳の色は、濃い灰色と苦そうな紅茶色。――二藍では、ない。
「危うく僕まで騙されるところだった……まあ、僕が騙されたところで“世界”は欺くことなどできないから、意味などないんだけどね」
鎌木二藍の姿をした『誰か』は、そう言って笑みを浮かべる。表情は笑顔だが、その瞳はそれとは程遠い。怒りのような、悲しみのような、『氷姫』と揶揄される私には上手く表現できない複雑な色が表れている。
彼はそのまま教室の中へと入ってくる。壊された床を踏みつけながら、歩きにくそうな様子など欠片も見せずに堂々と進む彼は間違いなくこの空間の支配者だった。リリアはぽかんと口を開けて、カフは険しい表情で彼に釘付けだ。
「お前が実験的にこんなことをしたのか、それともこれでよいと盲信していたのかは知らないけど、“世界”は、誰かの筋書通りの物語はお気に召さない。――誰かの筋書きが、ボロボロと崩れていく先の悲劇は大好きみたいだけれどね」
長剣を手にした瞳の焦点が合わない少年の前に立ち、淡々と言い聞かせるように彼は言う。
「僕はこうして、お前たちのもとに戻ってきた(・・・・・)。時期が時期だと理解している。今度こそ、失敗はしない。僕も覚悟を決めている。―――お前が焦る必要はない」
言い終わったその瞬間に彼は表情を消し、呻り声を上げる少年の側頭部に何かを叩き付ける。少年の手から長剣が零れ落ち重い音を立てて転がり、続いて意識を失い倒れかけたその体を彼は片手で受け止めた。
彼の反対の手には少年に叩き付けたものが青昏い火花を散らしている。何かが赤いインクで書かれた紙切れだ。火花はバチバチと小さく音を上げて存在を主張していたが、しばらくするとまるで諦めたかのように大人しくなっていき、ただの紙切れに戻った。
「―――…お前が焦る必要は、どこにもなかったんだよ…」
独り言のように小さく呟いた彼の紅茶色の瞳は、暗い色を湛えていた。その瞳を見つめていると、顔を上げた彼と目が合う。
「思った以上に迷惑をかけてしまってすまない。この後始末は僕がつけておくから、君たちは何もなかったことにしてくれ。これ以上に巻き込まれる必要はないし、僕もそれは望まない」
そういって微笑んだ彼の瞳は元の不遜な色に戻っていて、謝っているのにどこか偉そうなその態度は鼻につくが、その余裕に張りつめていた集中が途切れた。臨戦態勢を解除して膝をつけば、じわじわと体に安堵感が広がっていく。助かった。そう思うと体から力が抜けていくのがわかる。
「ナタリア!」
カフとリリアの悲鳴じみた声が遠くで聞こえる。頬に冷たい床の感触を覚える。平衡感覚がロストしてしまっている。
「緊張の糸が切れたのだろう、大丈夫だ。……ああ、ひとつ言い忘れていた。二藍と、これからも仲良くしてやってくれ。彼は、この事件とは無関係だからな―――……」
最後に未だ正体を知らない誰かの声に反射的に頷いて、私は意識を黒く塗りつぶされていった。




