1-31 大切なもの
遅くなりました…
「落ち着きましたか…?」
少女はおずおずと尋ねると、二藍にハンカチを差し出した。二藍は礼を言って受け取り、鼻水をつけないように気を付けながら顔を隠すように押し当てた。
二藍と少女は人気のないロビーのような部屋にいた。廊下の真ん中で突然泣き出した二藍を彼女がここまで誘導してくれたのだ。あの場所では人が来ないとも限らないし、これ以上醜態をさらしたくなかったので助かった。
『…醜、態……』
とはいえこの少女にはものの見事に醜態をさらしてしまったわけで、見たところ二藍よりも年下の女の子の前で進学していれば高校生になっているはずの男が号泣してしまったわけで。
『あああああ!!穴があったら入りたい!いくらなんでもあれはない!』
涙が引くとともに一気に羞恥が押し寄せる。顔はもちろんのことハンカチでは隠しきれない二藍の両耳までもがゆでだこのように赤くなった。
「…ごめんね、突然泣いたりして…」
謝るというよりはむしろ助けを求めるかのように二藍は口を開いた。相変わらず顔は隠したままだ。
「正直、びっくりしました…」
遠慮がちに返されたその言葉は、少女の意図は何だったにせよぶすりと二藍の心に突き刺さった。引かれている。間違いなく引かれている。
「で、でも先に変なことしちゃったのは私のほうで、私だって驚かせてしまったのでおあいこですよ!」
さらに落ち込んだ二藍を見て少女は慌てて付け加える。明らかなその気遣いに、二藍は死んだ魚のような目で笑い、「ありがとう」とだけなんとか返した。
『おかしい。あれだけ泣いたのにまだ泣ける気がしてきたぞ…』
泣きたかったから泣いたのになぜこれほど後悔するはめになるのか、もう何をやってもダメな気がして二藍は再びハンカチに顔を埋めた。
そうやって落ち込み続ける二藍を見て、少女は何かを決意したかのように小さくこぶしを固める。
「…もし、もし何か吐き出したいことがあるのでしたら、私でよければお聞きしましょうか?」
「え?」
「きっと、聞くことしかできないとは思うんですけど、それでも誰かに話せば少しは違うんじゃないかなあと思いまして…。もちろん、初対面ですから話せないようなことなら話さなくてよいのですが…」
少しハンカチをずらして二藍は少女を横目で見る。不思議な輝きを放つ猫目は横から見ても美しい。緊張のためか、色白の頬は少し赤い。
確かに初対面の人に話すようなことではないだろう。
だけど、この子になら話してもいい気がした。根拠も何もないただの直感だけれど、この子に聞いてほしいと、そう思う。
もう一度ハンカチで目元を覆い、二藍は口を開いた。
「…ずっと、ずっと小さい頃から叶えたい夢があったんだ。一時は諦めざるを得なくて、でももう一度チャンスが巡ってきた。今度こそその夢が叶うって最初は喜んだんだけどさ、だけどやっぱり色々と大変で、しかもいやな噂を立てられてしまったこともあって…正直、少し辛いと思っていたんだ。今なら、楽しいことのほうが多かったって思えるのに、あの時は逃げ出してしまいたいと心の底では思ってた。…そしたらさ、まるでその願いを神様が聞き届けたみたいに、その夢を叶えるチャンスが消えうせたんだ。今度こそ、俺の夢は本当に終わってしまって、もう絶対に叶えられない。で、いざ叶えられないとわかったら、どれだけ自分がその夢を追い求めたか、ようやく気付いたんだ。気付いて、みっともなく泣いてしまった。本当に、恥ずかしいよ」
所々語尾は震えたが、思ったよりもスラスラと言葉が出てきてよかった、と少しだけ安心した。
「『大切なものは失ってから気づく』なんてよく言われてることだけど、本当なんだね。全部ぜんぶ、失ってからようやく気付いたよ」
「…本当に、全部なくなってしまったんですか?」
「うん。大事にできなかったからなのかな、ひとつ残らず、残ってないよ」
逃げてしまいたいなんて、罰当たりなこと考えたからかな。そう言って唇を引き結んだ二藍をしばらく見つめた後、少女は目を逸らして口を開いた。
「ここに…“H.A”に、私は小学五年生の時に連れてこられました。突然“共鳴”が起こりこの姿になった私は、もう普通の人として暮らすことはできなくなりました」
唐突な少女の告白に二藍は驚いて息をのんだ。少女は二藍の横に腰かけたまま、目を合わせることなくじっと前を見つめている。その瞳は遥か彼方を見ているようだった。
「私のこの容姿、猫みたいだと思いませんか?私は変化系の能力者です。“猫”――詳しく言えばヨーロッパオオヤマネコですが――、その存在そのものとの“共鳴”をしたらしいです。…気味の悪い、醜悪な能力です」
少女は眉を寄せて険しい表情になる。彼女の姿は決して醜いものではない。
不思議なほど人の顔に調和した、通常の人より一回り大きな猫の瞳は、寧ろ美しいとすら感じられる。
しかし彼女の瞳に浮かぶのは、紛れもなく自分の能力への嫌悪と憎悪だ。
「“H.A”に来たばかりの頃は、私は両親と引き離されたショックで食事もろくに喉を通らず、点滴を打たれながら一日中ベッドの上で何もせずに過ごしていました…。でもある日、私のところを訪れた人がいました。その人は私の“兄”になる者だと名乗り、そして尋ねてきたんです。『大切なものはあるか』って」
――――衰弱しきってベッドから動けなくなった少女に、彼は静かな声で問いかけた。
――――『君には、大切なものはある?』
「私は『大切なものはみんななくなってしまった』と答えたんです。両親も、友達も、楽しかった日常もみんな、私はなくしてしまったと」
――――『みんな、なくなっちゃった』
――――どこか呆然としたように掠れた声で呟く少女の頭を、彼はそっと優しく、労わるような手つきで撫でた。
「そしたら、彼は言ったんです。『なくなったのなら、また新しいものを大切にしていいんだ』って。…“H.A”に来てから、たくさんの人たちが私によくしてくれたんです。みんな優しくしてくれて、助けてくれて、私本当にうれしかった……だけど、同時に怖かったんです。ここの人たちに心を開けば開くほど、父や母を愛し、平和な世界の中で生きていたあの“私”が薄れていって、いつか彼らのことを忘れてしまうんじゃないかって。外の世界では私は行方不明になっているから、きっとまだ両親は心配して捜しているはずなのに、私だけがのうのうとここで生活しているのが、申し訳なかった。たとえ姿は変わっても、私は二人の子どもなのに…。だから、“H.A”の人たちが差し延べた手を素直に取ることができなかった」
――――『今までの大切なものは大切にしたまま、新しく大切なものが増えても、誰も君を責めたりしない。大切にしたいなら、大切にして大丈夫なんだよ』
――――『俺が、君の兄さんになるよ。今までの君の大切なものの代わりにはなれないけど、新しい大切なものにはなってあげられる』
――――頭をなでる掌の感触は、両親とは違うものだった。
――――けれど、とても…両親のものと同じくらい、それは温かかった。
「大切なものを失ってしまったら、もう二度と取り戻すことができなくなってしまったら、とても悲しくて悔しいです。だけど、そこで止まってしまっては、負けてすべて投げ出してしまってはダメです。私がそうであったように、あなたの歩く道の先に、あなたが新しく大切にするものたちが、きっとあなたを待っています。それはもしかしたら、失ってしまったものと同じくらい大切なものかもしれません。…今までを後悔しているのなら、これからは今まで以上に、新しいものたちをひとつひとつ大切にしていく…これではいけないのでしょうか?」
少女はこちらに向き直り、その煌めく瞳に二藍を映した。その瞳は、確信に満ちた強い光を放っている。
彼女の話は根拠がない理想に過ぎず、新しく大切なものができることなどないかもしれないと言ってしまうのは簡単だ。
けれど、その瞳がそうはさせない。そしてまた、先程までは考えることすら放棄していた“これからのこと”を、二藍は必ず決めなければならないのだと気づく。
“H.A”のなかでどう生きていくのか。
――――『…もちろん君は、戦いに参加しなくていいし、衣食住も不自由のないようにこちらで全て――』
乃至が言いかけた言葉がよみがえる。能力がありながらも、戦闘員ではない立場にしてくれるということだろう。そしてそれが、おそらく安全に“H.A”のなかで生きていくベストの方法だろう。
でも、それでは…
「…もし大切なものができた時、俺はどうやってそれを守ればいいんだろう」
ぼそりと呟いた二藍に、少女は晴れやかな笑みで答えた。
「それはもちろん、あなたの能力を使えばいいのですよ。私たち能力者は、大切なものを守るために自分にしか使えない力を持っているんだって、私は思うんです」
“H.A”で生きていく中にあるもう一つの選択肢。
それは、能力者として戦うということ。
「守るために…」
二藍の顔つきが変わったことに気づき、少女が声をかけようと口を開いたその時だった。
『烏有!今どこにいる?!』
少女が胸につけていたブローチから切羽詰ったような声が飛び出した。
よく通る澄んだアルトの音は、愛染乃至のものだった。
「に、兄様?!どうしたんですか突然!」
少女は胸元の銀のブローチに呼びかける。烏有というのは彼女の名前だろうか。変わった名前だ。…ではなく、
「にい、さま…?」
今この子はそう言ったはずだ。ブローチから聞こえてくるのは乃至の声。つまり…この子の“お兄さん”は……
「七番医務室で保護していた人がいなくなった!俺と同い年の少年だ!みつけたらすぐに連絡を…」
「ええ!?大変じゃないですか!烏有も一緒に捜します!どんな人ですか?」
「黒目黒髪の日本人だ。背もそれほど高くないし童顔だからニ、三歳年下に見えるかもしれない。能力者だが情緒不安定になっているかもしれないから気をつけてくれ」
その言葉を聞きながら、少女と二藍は顔を見合わせる。
少女の視線が二藍の瞳と髪、全身にまわり、最後に顔へと行きついた。
「…兄様。そのかたのお名前は?」
少女が若干気まずそうに問いかける。
「鎌木二藍だ!」
次に少女は二藍に対し、
「…あなたのお名前は?」
「…鎌木二藍です」
「…」
「…」
「…」
動やらブローチ越しに二藍の声が乃至にも届いたらしい。
三人の間に痛々しい沈黙が落ちる。
「えと…私たち、三番の談話室にいますので」
おずおずと少女が切り出し、乃至はだいぶ勢いの削がれた声で、「あ、あぁ、わかった…」とだけ返し、通信が切れた。
*****
乃至が二藍と少女――乃至の妹である愛染烏有のいる談話室にやって来たのはそれからすぐのことだった。
「…先程は失礼なことを言ってすまない…」
少し顔色を悪くして謝る乃至に、二藍は苦笑いを返すことしかできない。
情緒不安定だったのはそのとおりだし、まだ自分は成長期だ。これから背丈も伸びるし、顔つきだって大人っぽくなっていくはずだから。平均よりやや低い身長のことも童顔のことも、全く気にしてなどいない。成長期真っ最中だから、別に焦ってなどいない。そう、焦ってなどいないとも…!
「…いや、それより、突然いなくなってごめん。初雪が目を覚ましたから、水をもらおうと部屋を出たんだけど…その、いろいろあって、」
「君が無事なようなら何の問題もないよ。…烏有、すまないが水を持ってきてくれないか?渡すのは鎌木にしてもらうから」
烏有は頷くとお辞儀をして部屋を出て行き、あとには二藍と乃至だけが残される。
「…さっきは、無神経だった。すまない」
俯き加減に逸らされた昏い青の瞳と、その表情、声音から、童顔がどうのこうのといった話ではなく、部屋を出て行った時のことを言っているのだろう。
「人の気持ちに対して鈍感なのが俺の悪いところだとよく言われる。今回もまたやってしまったと、部屋を出てから後悔していた」
「俺こそ、怒鳴ったりしてごめん。あんなの八つ当たりだった。…言った後、俺もすごく後悔した」
二藍が眉を下げて笑うと、乃至は少し驚いたように瞬きをして、そして嬉しそうに微笑んだ。
仲直りができてよかったと二藍は安堵してから、小さく深呼吸した。まだ、乃至には伝えなければならないことがある。
「ねえ、乃至」
「何だ?」
乃至もまたどこかほっとした表情だ。本当に二藍のことを気にかけていてくれたのだろう。純粋にそれは嬉しいが、これから言うことはひどく乃至を戸惑わせることになるはずだ。
心の中で小さく詫びを入れながらも、穏やかな表情のまま二藍は乃至に告げる。
「俺、能力者として戦うよ」
次回の更新は明日130628、15:00です




