1-22 一族と幼馴染と
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春の日差しが暖かい。
少しだけ強い風はぬるく、二藍が額に巻いた二藍色の鉢巻を揺らす。
二藍は糸を天日干しにする作業を終え、小さく伸びをした。
これで午前中の作業は終わり。ようやく昼食が食べられる。
「二藍ちゃん」
柔らかい声に二藍が振り向くと、広い庭の向こうから少女がこちらに近づいてきた。
「初雪」
名前を呼ぶと、彼女は顔を綻ばせる。
鎌木初雪――二藍の年上の幼馴染だ。
少し童顔だが、大きな瞳に、桜色の小さな唇。
親戚として贔屓目で見ても可愛らしい顔立ちだ。
肩より少し下で切りそろえた髪は焦げ茶色だが、染めているのではなく、生まれつき色素が薄いせいである。
「久しぶり、二藍ちゃん。神隠しにあったんだって?」
数か月ぶりに会ってこの台詞だ。くすくすと笑いながら尋ねてくる初雪に、二藍は頬を掻いた。
隠された本人としては笑いごとではないのに暢気なものだ。
「うーん、そうみたいなんだよね。全く覚えてないんだけど」
今から二週間ほど前、二藍は約一日姿をくらませていた。
今と同じように糸を天日干しにしていたはずの二藍が突然いなくなったのだ。
最初は二藍がサボタージュしたのかと周りは思っていたが、夜が深まるにつれ、いつまでたっても帰ってこない二藍に不安が募っていったらしい。
父や兄弟子たちを中心に探し始めたが、どこを探しても見つからない。
夜が明けても、午後になっても尚も見つからない二藍に、そろそろ警察に連絡するべきだという声が出始めたころ、二藍は見つかった。
すでに捜索済みの場所であったにもかかわらず、糸を天日干しにしている庭に面し箪笥のある部屋で気を失って倒れていたのだ。
すぐに病院へと運ばれたが診察結果はただの気絶で、三時間ほどすると目を覚ました。
念のため検査を受けたが、何の異常もない。
目覚めた後、二藍は尋問のように何があったかを聞かれたが、覚えていたことは、ただ眠気が襲ってきて、部屋で横になったことだけだった。
「噂によれば、二藍の糸が身代わりになって守ってくれたんでしょ?」
「さあ…糸がなくなっていただけだから、よく分からないけど。そうだったなら感謝しないといけないよね」
そう答えて、二藍は縁側越しに部屋に置いてある箪笥を見た。重量感と威圧感を醸し出すそれは、浮き出た渋い茶の年輪が印象的だ。
中には鎌木家が受け継いできた染め糸が納められている。その糸は主に色の見本として使われ、職人の技術のほどを確かめる比較対象にもなる。
二藍が見つかった時、箪笥の中身が部屋の中に散らばっていた。兄弟子たちが元の位置に戻したのだが、何故か二藍色の糸の束だけが見つからなかったという。
糸の束がなくなったことは恐らく自分に関係があるのだろうと思った二藍は、つい先日本家のほうに謝りに行ったところだ。次期当主であり、二藍の実姉である枯野の婚約者、鎌木朽葉が二藍を迎えてくれた。二藍が悪いわけではないと朽葉は笑い、すぐに新しい糸の束を作ると約束してくれた。糸の束を作るのは当主か次期当主にしかできないのだ。
また義兄の手を煩わせてしまったと二藍の気分は落ち込んだ。そしてそれに追い打ちをかけるように帰り際に遭遇した本家出身の女中たちが、二藍が通り過ぎた後にひそひそと下らないことを言うのが聞こえた。
「また朽葉様にご迷惑を…」
「全く信じられない…」
「せっかく枯野様が頑張って認められようとされているのに、弟ときたら…」
「ろくでもない選ばれ方のうえに、素行までなってないなんて…」
「…」
彼女たちを振りか返ることなく、二藍は廊下を歩き続けた。
ただ前を見て、ぐっと唇をかみしめた。彼女たちはわざと聞こえるように言っているのだ。反応したら相手の思う壺である。
何百年と続くこの家は、反物に携わる職人の一族だ。
派閥や権力闘争、足の引っ張り合いなどは、長く続くこの一族にとってはもはや日常茶飯事であり、これから鎌木家の中で生きていくのならそんなことに一々構ってはいられない。
鎌木家に生まれ、鎌木家の中で、つまり力のある鎌木本家におもねって生きていく者には、普通、三つの形がある。
一つ目は、職人になる者。
これには本人の意志よりも、本家に引き抜かれるかどうかだ。
二藍や姉の枯野は、これに当てはまる。
二つ目は、経営に携わる者。
これは、職人になれなかった本家の子供たちの中で、優秀な子どもが選ばれる。
初雪がそうであり、彼女はいずれ経営学を学び、伝統的な職人技術と現代の商業形態とを上手く組み合わせて鎌木家を維持発展させていくことを求められている。。
三つ目は、職人や経営の家族だ。
この場合、喩え外部で暮らしても、喩え分家の血筋であろうとも、本家主催の正月の宴会等には招いてもらえる。
本家との繋がりを得るチャンスをつかむことができる。だから親たちは必死に子供を職人や経営担当にしようとするのだ。
閉鎖的な家柄や本家と分家との区別とは裏腹に、本家の人はいったん“内側”に入るととても親身になってくれる。それがたとえ分家出でも、一旦認められてしまえば、派閥争いの小競り合いはあろうとも孤立することはない。どこの派閥も、人数の拡大は望むところであるからだ。
内にあれば、鎌木家は限りなく優しいと、兄弟子が言っていた。
――――しかしそれが、二藍には当て嵌まらない。
『何故なら、俺は許されない選ばれ方をしたから…』
「とにかく、二藍ちゃんが無事なようでよかった。お昼がもうすぐできるから、呼びに来たの」
初雪の言葉に思いを巡らせていた二藍は我に返った。
彼女はにこにこと笑っている。
小さいころから仲の良かった初雪は、本家の人間の中で数少ない二藍の味方だ。
本家の中枢に近い彼女の両親は、初雪が二藍と親しくすることで要らぬ火の粉を被るのではないかと心配しているようだが、初雪は本家の人間からの評価が高く多くの人とのつながりがあるので大丈夫だろう。初雪は高校に通いながら、鎌木家内の仕事の手伝いをしており、勤勉なため信頼されている。
そういえば今日は日曜日だ。だからいつもならこの時間は高校に行っているはずの初雪が作業場にやってきて、今日の昼食当番の手伝いをしたのだろう。
「ありがとう、もうすっかりお腹空いたよ…」
苦笑いをした二藍の頭を初雪が撫でた。
「お疲れ様」
まるで小さい子供にするような仕草に相変わらずだなあとまた二藍は笑う。
今では背は二藍のほうが高いし、何しろ初雪が童顔なせいでよく間違われるが、初雪は二藍の二つ年上で、今年から高校三年生だ。
分家の中でも端の端である二藍の家とは違い、彼女の家は今は分家でも先代までが本家の一員であり、家はそれなりの資産家である。私立の名門女子高に通っている彼女を紹介しろと言ってくる同級生に驚いたのは記憶に新しい。
今日の昼食のメニューについて楽しげに語る少女をほほえましく思っていると、食堂へと向かっていた彼女の足が突然止まった。
同時に話も止まったので、二藍は怪訝に思い初雪の顔を覗き込み、そして驚いて声を上げた。
「ちょっと、初雪!?大丈夫!?顔、真っ青…!!」
今まで見たこともないほど青い顔の初雪に、手を伸ばしたが、その瞬間に初雪の身体が崩れ落ちる。
「初雪!」
何とか抱きとめると、その体が震えているのがわかる。
口を僅かに動かし、何かを必死に伝えようとしている。
「く、る…っ」
「苦しいの!?」
「ち、がう…何か、何かが、来る!!」
息も絶え絶えに初雪が叫んだのと、初雪を抱えた二藍のもとに影が落ちたのは同時だった。