1-13 セリン・トメラルキーユ
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「き、みは…?」
目覚めた少女に対し半ば衝動的に掠れた声で呟いた後、二藍は後悔した。水中の、何処からどう見ても日本人でない少女に日本語で尋ねてどうするのだろう。しかし、少女は桜の花びらのような唇で答えた。水の存在など感じさせない様子で、水槽の中からであるから少しくぐもってはいるけれど、高く、可憐な声音で。
「セリン。…セリン・トメラルキーユ」
一体何処の国の名前なのか、二藍には検討もつかなかった。
ただ、少女の顔立ちは明らかに白人のものだ。
――『もし、気が付いて、僕らの誰も周りにいなかったら、必ず、“愛染乃至に連れて来られた”と言うんだよ』
ふと、マルクに言われた言葉が頭をよぎる。
愛染乃至…それはあの白髪の美少年の名前だ。彼は二藍達を逃し、敵を一手に引き受けた。果たして無事なのだろうか。
「…貴方は…?」
黙り込んでいた二藍に、セリンと名乗った少女は流暢な日本語で話しかけてきた。
「あぁ、ごめん、言い忘れてた…。鎌木二藍だよ」
「フタアイ…」
「ええっと、此処って“H.A”だよね?愛染乃至に連れて来られたんだけど…」
ひとまず言われた通りにしてみたが、10歳くらいのこんな子どもに言っても意味がないかもしれない。
『…というか、この子はこの水槽みたいなものに何で入ってるんだろう』
この中から、出ることはできるのだろうか。
「あの、さ…どうしてこの中に入っているの?」
二藍は水槽に近づき、掌をガラスにぴたりと当てた。ガラスはひんやりとしていて、二藍の掌から熱を奪う。
遠慮がちに尋ねた二藍に、セリンは少し首を傾けて微笑んだ。
『あ…』
その微笑みが今までのものとは違う事に二藍は気づかざるを得なかった。
聖母の如き優し『すぎる』表情。どんな罪でも許してしまうようなこの瞳、どこかで見たことがあるように思える。
セリンは二藍の言葉には答えず、言った。
「ありがとうフタアイ。貴方に会えたことが、凄く、嬉しい」
“会う”
その言葉に二藍は先程暗闇の中で聴いた声を思い出した。
あの声は、もしかしてセリンが……?
円柱の水槽の中で浮かんでいた少女は、ゆっくりと二藍の元へ、底の方へと降りてきた。
彼女の纏う古風な白のドレスの裾が、底に沈んでいる金髪が、彼女の動きに合わせて揺れる。
「貴方に会えて良かった…」
ガラス越しにセリンは二藍の掌に自分の掌を重ねた。
そう薄くはなさそうなそのガラスから、少女の熱が流れ込んできた気がして、二藍は無性に泣きたくなった。
ぱたぱた、と、どこか遠くの方で足音が聞こえた。
セリンは優しく微笑みながら言った。
「私は、貴方が私を置いていってしまっても、ずっと待ってるから。…―――が、私をずっと守って戦っていてくれたように、今度は、私も戦う番だから…」
ノイズがかかるように、聞き取れない部分があった。
聞きかえそうとした二藍を遮るように、セリンがガラス越しに額をくっつけた。
「会うのが、まだ早すぎたね…待っているから、また、会えるのを…待っているから」
段々と視界が暗く、狭くなっている。
「待っているわ、あと少し。貴方が私を忘れてしまっても、必ず貴方は私を迎えに来てくれる…」
ガラス越しに重ねた小さな手の感覚が、消えていく。
いや、消えているのはセリンではなく二藍のほうだった。
重ねていた手が、床に付いた足が、体がその存在を薄めていく。
温もりが、消える。
「セリン…っ!」
嫌だと、思った。
初めて会った、名前しか知らない少女。
交わした言葉は僅かで、二藍には訳の分からないことだらけで、でも―――
別れたくないと、心の中で何かが叫ぶ。
もう、『二度と放したくない』と。
「ごめん…!また、君を一人に…っ!」
口をついて出た言葉に、二藍自身が驚いた。
少女は椿色の眼を大きく見開く。目尻の辺りが僅かに煌めいた。
そして、少しだけ笑った。聖母のような笑みではなく、泣くのを堪えるような笑顔。
花びらのような唇が動く。
「謝る相手が違うわ…―――」
『どういう、意味…?』
それを最後に、二藍の視界は暗転した。
セリン・トメラルキーユ:10歳くらい? 巨大な水槽の中に浮かぶ謎の少女。




