1-1 春は無慈悲な時の女王
例えばそれは
薄紅色の桜。
ある季節の到来を告げる花。
その花がもつ紅は、儚く、美しく、
その季節にふさわしい。
そう、全ての、
始まりと、終わりを告げる
春に。
[ 1 ]
踏みしめた草地はおびただしい血にまみれ、所々剥き出しになった地面は赤黒く染まっている。血痕は周囲の低木にも及び、慣れてない者が見れば卒倒してもおかしくはないだろう。これに更に数秒前までばらばらに飛び散った肉片が添えられていたのだから、自分のように慣れている者でも吐き気がする。
血痕を片付ける者たちにはもう少しきれいに戦えないのかと、いつぞやのように文句を言われそうだ。
――とはいえ、
『……自爆なんて誰がすると思うんだよ』
彼は一人心の中で毒づいた。相討ち覚悟の特攻攻撃は防ぐのにもそれなりの労力がかかるうえに、こちらとしてもよい気持にはならない。しかも今回は近距離の武器を持った敵の直接攻撃と見せかけて、混ざった術者による自爆だった。咄嗟に防いだが、あと一瞬遅れていれば自分の血も地面に沁みこんでいったことだろう。
「愛染中尉、聞こえますか?愛染中尉?」
胸元の装飾を模した通信機から、馴染みのオペレーターの声が聞こえる。
「聞こえている。こちら愛染乃至、三体討伐完了した」
「了解しました。大きな負傷はありませんか?」
「大丈夫だ」
「それは良かった。愛染中尉、至急向かってほしい任務があります」
いつもよりやや焦ったように早口で喋るオペレーターに彼は眉を寄せた。
「どういうことだ。こちらはまだ全部倒し切れていない。まだ部下たちが戦っている。私も応援に行かねばならない」
「闇が出現したとの伝令が入りました。今は非能力者たちが行き先を探りながら追いかけています。他の能力者の方も出払っていて、ぎりぎり間に合いそうなのは愛染中尉だけなんです」
懇願するようなその声に自分が了承するしかないと悟り、彼はため息をついた。
「わかった。俺が行こう。ここの闇を片付けたらすぐに向かう。もし間に合わなかった場合に備えて、ディフェリルを先に向かわせてくれ」
「了解しました」
かすかなノイズ音とともに通信が切れた。
『闇が出現した後に伝令なんてどうなってるんだ。ただでさえ今は能力者の人数が激減してるって言うのに……』
彼は唇を噛み締めながら、複数の闇と対峙する部下たちのもとへ駆けつける。
「愛染中尉――!」
安心したようにその名を呼ばれ、彼はよく通るアルトの声で指示を出した。
「五分で決着をつける――死なないように気をつけてくれ」
*******
桜の花が好きだ。
美しい花はこの庭にたくさんある。艶やかな椿の花も、ふわりと広がる牡丹の花も、綺麗だと思うし、好きだと思う。
けれど、桜の花は特別好きだ。
それは日本人の誰もが持つ感情なのだといわれてしまえばそれまでだけど、特に大した思い出もない幼い頃から、桜の花が好きだった。
本家の中で息をするのは少し苦しいけど、中庭に立つ一本の桜の木を見ると訳もなく呼吸が楽になった。
今も、そうだ。
「……なんて、休んでる暇、ないんだけどね」
水をあけた盥の中に入った、濡れた糸の束、束、束。
春先といっても、まだ冷たい空気。
雲に隠れた太陽が、ぼんやりとした光で手首の滴を反射させる。
広い日本庭園の一角、開けた場所で一人の少年が作業をしていた。
彼の名は鎌木二藍。先月中学校を卒業し、職人の見習いとして工房入りしたばかりの十五歳だ。
二藍は糸の束を盥から取り出し、庭に張ってある網にほぐして並べていく。職人見習いの基本的な仕事である糸の天日干しは大分慣れてはいるものの、油断はできない。
糸を落としたり、切ってしまえば、親方や兄弟子たちにこっぴどく叱られる。
できるだけ丁寧に、そして素早く優しく絞って並べていく。
緊張していたため、作業を終えたときには軽く眩暈がした。
縁側に向かい、濡れた手を用意していたタオルで拭う。
そしてやっと一息つき、後ろに――家の中へと――そのまま倒れこんだ。
「疲れた…」
思わずこぼしてしまった弱音に、二藍は眉を寄せた。
まだまだ仕事は残っているのだ。疲れたなどと言っている場合ではない。
念願の職人見習いになれたというのに、良くない兆候だと思った。
二藍の居る鎌木家は先祖代々『布』を作る仕事に従事している。
この家は何百年と繁栄を続けてきた職人の一族だ。本家が権力を全握し、数多い分家は、その恩恵に少しでも与ろうと、職人の素質のある子どもが生まれれば、本家に躊躇いなく差し出してきた。
もちろんその子どもが職人に相応しいかどうかは本家が決める。
他の誰もが素晴らしいと褒め称える子であっても、本家が認めてこなかった例は山ほどある。
いったいどの基準で選ばれるのか、疑問に思われることも決して少なくない。
しかし、本家に選ばれたその子どもたちは、一人の例外もなく、優秀な結果を打ち出してきた。そして、鎌木家を更なる繁栄に導いてきた。
職人見習いに選ばれることは、鎌木家の人間にとって最も名誉なことの一つだ。
職人見習いに自分がなることを知らされたときは、喜びよりも驚きのほうが大きかった。
けれど、幼い頃から憧れてきたにもかかわらず一度は諦めざるをえなかった職人の道が再び自分の前に開けたとき、二藍は心に固く誓ったのだ。絶対に、一人前の職人になってみせると。
仰向けにひっくり返った状態で頭を反らすと、上下逆さまな世界の中に古ぼけた和箪笥があった。
材木の年輪に沿って焦げ茶の染みが円を描き節が黒くくすんだ箪笥。
二藍が子供の時から、いや、生まれる前からずっとずっとあったそれは、二メートル程もあるしっかりとしたもので、祖母によると名のある職人の作らしい。
装飾はひとつもない。
あるのは八百ほどの引き出しだけだ。
小ぶりな引き出ししかなくとも何百とあると貫禄というものが生まれてくる。
けれど、すごいのは箪笥のデザインではない。
中に入っているものだ。
鎌木家の家宝。――糸だ。
紅に鬱黄、黄檗に朽葉、浅黄に萌黄、縹、鈍、葡萄、支子に蘇芳、丁子に黄櫨、刈安、濃、紺…藍…
数え上げたらきりのない様々な色に美しく染め上げられた絹糸や綿糸。
布が我らを生かし、布は糸により生み出される。
糸は、我らの源。
そう幼い頃から鎌木家の者は言い聞かされる。
織物、染め物で繁栄してきた鎌木家では糸は神聖視されており、とても大切なものとして扱われているのだ。
糸束は職人見習いや本家の子どもたちがいつでも簡単に見ることのできる、この中庭に面した部屋の箪笥に保管されており、質の良い繊維が寄り合わされ、更に毎年四月に鎌木家の当主によって新しいものに更新されるため、常に色褪せず、超のつくほどの高級さを保ち続けている。
一色につき一つの引き出しが使われ、箪笥の引き出しは全て埋まっている筈だから、八百色ほどあるのだろう。微妙な色の違いでも、同じ引き出しに入れることはできないというのだから、当然の事と言えるのだろうが、それを覚えた身にもなってほしい。
小さい頃、本家に遊びに来たほかの子どもと一緒に夢中になって覚えていたことを思い出し、そしてその子どもたちのうち職人見習いに選ばれなかった者達が選ばれた二藍に向けた目を思い出した。
「嫉妬されるくらい良いことがあったってことだ、って夕兄は言ってたけど、なんか、な…」
縁側に仰向けになったまま、二藍は眼を閉じた。
体がだるい。寝てはいけない。起きなければ。
そう思うのに体は思うように動いてくれない。
鎌木家は先祖代々『布』を作る仕事に従事している。
この家は何百年と繁栄を続けてきた職人の一族だ。本家が権力を全握し、数多い分家は、その恩恵に少しでも与ろうと、職人の素質のある子どもが生まれれば、本家に躊躇いなく差し出してきた。
もちろんその子どもが職人に相応しいかどうかは、その子が『十歳』の時に本家が決める。
他の誰もが素晴らしいと褒め称える子であっても、本家が認めてこなかった例は山ほどある。
いったいどの基準で選ばれるのか、疑問に思われることも決して少なくない。
しかし、本家に選ばれたその子どもたちは、一人の例外もなく、優秀な結果を打ち出してきた。そして、鎌木家を更なる繁栄に導いてきた。
では、自分は、『十三歳』で突然職人になる道を歩むことになった鎌木二藍という子どもはどうなのだろうか。
頭の中で繰り返し響くのは、昨晩聞いてしまった言葉。
嫉妬した者達の心無い言葉にしては、二藍がずっと気にかけていたことを見事に射抜いてしまっていた。
――『いくら、朽葉様の義弟だといってもねぇ…才のない子どもを職人に迎え入れて、どうするつもりなんだろうねぇ…』
――『あの子も早く気付けばいいのに。可哀想にねぇ…』
――『お二人の、お荷物にしかならないってこと。』
鎌木二藍:15歳。本来は高校一年生だが中学卒業とともに家業の織物、染物の工房へ弟子入り。本作の主人公。
鎌木朽葉:二藍の義兄。
20130826、冒頭部分にシーン追加
20140321、加筆