10 女官・ナディシーフェ
常に平等でありなさい。
平等ではあっても、それは《華》という愛妾同士たちを同列に見る事で、そこには決して正妃は連ならないと知りなさい。
正妃は、次代の国王を生む大切なお方。
お前の目で見て耳で聞いて、口を閉ざして、時折、その閉じたはずの口で真実を問いなさい。
語るべきは、お前の職務を忠実に実行する為の事項を。
聞くべきは、溢れんばかりの中傷や嘲笑の中からの事実を。
見るべきは、着飾って纏った虚飾ではない実像を。
黙すべきは、国の乱れを後宮から生まれさせない為に真実を。
国王陛下の害になるならば、それを処断する権利の一部をお前は有している。
長きに渡ってヘドロの様に染み付いて消えない数多の怨念の渦中たる後宮で、お前はお前に与えられた職務を全うする事が生きる道。
そう諭され、そう生きるのだと思っていた。
しかし、それが理想でしかないのだと知るのは早かったのです。
《美しい女》という姿の魔物たちが囀り合って、国王の寵愛を乞い、そして時に強請る後宮に巣食う闇はあまりにも深くて暗い。
一度、その底を覗けば二度と知らぬ振りが出来ないだろう程に、足元を掬われ引き摺りこまれ、または自ら進んでその底へと己が身を投じる。
そんな場へ、生まれた時からすでに後宮入りが決定していた公爵令嬢。
新たな子が《女》としてこの世に生まれ落ちた瞬間に、国王陛下の寵を得られるようにと、後宮に送り出す算段をつける貴族たちは数多いる。
正妃となる事を前提に、幼い内から教育される子供たち。
けれど、今代国王陛下の正妃は、若くして逝かれた先代国王の御世に決定された。
息を引き取る前に、遺言という形で告げられた。
幼くして国の頂点に立った少年王と、許婚の初顔合わせの儀に後宮女官長として同席を許されたそこで、初めて間近に見た公爵令嬢。
齢五歳では、当然《女》としての《色》などあるはずもなく。
何処となく、揺れた焦げ茶の瞳を見た。
対峙している王は、興味の一片も示さずただ義務のように挨拶し、そして返された踵。
残された姫君は、そんな国王の背中をじっと見詰められていて、暫くして父親であるセイィータ公爵に問われた言葉。
どう思う?――――優しい声音と眼差しで娘を見遣る公爵の言葉に答えた姫君は、確かにはにかんでいらっしゃった。
言葉のない答え。
柔らかく目を細めて、国王が去った向こうを見て、頬を微かに染めて。
とてもとても、可愛らしく。
それが全てを語っていて。
子供特有の柔い空気がそこに満たされ、張り詰め固まっていた空気が緩む。
隣にいた今は亡き先代王宮女官長がホッとした表情を見せ。
姫君の方は、どうやら大丈夫のようね―――――そう零した。
いっそ、何が大丈夫だったのだろうと今も思う。
婚姻の儀に際して後宮入りした姫君の、その無表情に、かつて見たはずの柔らかさがなくなっていた事にいっそ戦慄したのを覚えている。
何があって――――それを思い巡らせて、けれど思考の巡りを止めた。
やるべき事はたくさんあり、後宮の中に咲き乱れてその美しさを競い合う愛妾たちを束ねる術は日々どれだけ頭を悩ませても悩まされるばかりで、けれどそれでも後宮女官長しての責務を放棄する事など矜持が許さなかった。
平等であれ。
他の《華》と同列に見てはならないのが、正妃。
先代の後宮女官長から、確かに幾度となく教え込まれていたはずのそれらは、けれど私にとっては優先事項にはならなかった。
その選択を過ちだと、誰かは詰り、それが人間なのだと納得し、所詮は権力に阿る一使用人として見られるのだろう。
高貴な生まれの、歴史ある血統の、王族と比肩した存在でありながら、決して国王陛下に寵愛を注がれない王妃。
実を結ぶ事もなく。
いずれは、確実に枯れてしまうだけの哀れな存在。
同情はしなかった。
後宮の全てを采配すべき身でありながら、その一切を自ら放棄するように周囲への関心を一欠けらとて見せない硝子玉のような瞳の存在に、呆気なく失望を覚えて、私は自らの意思で《暁宮》から足を遠ざけた。
人気ない寂しいばかりの宮を尻目にして、私は後宮を監督し監視する者であると同時に、すでに後宮を辞して隣の離宮《黄昏宮》に暮らす女主人の《犬》でもあった。
女官長としての矜持を持ちながら、同時にその矜持は今代の正妃に従順するものではなく、忠誠と服従を捧げたのは太王太后陛下。
その事を後悔はしていないけれど、誰にも顧みられない存在の軽さに幾度となく己の主に成りえなかった正妃そのものを嘆く。
本来なら、後宮の管理に関して正妃に相談して采配を揮って頂き、時として意見を述べ、正妃の直属ともいえる存在として後宮を束ねていく。
そんな後宮女官長としての私を決してないものとした正妃を労わり敬い、膝をつき頭を垂れるに足る人物だとは決して思えはしなかった。
だからというには、この王城の中で誰が敵になろうとどれ程の人間が敵意を向けようと、夫となった国王陛下だけは正妃の味方でなければならなかった――――それが成り立たない現実を前にして、王妃の心情はどうであろうか。
それを考えるのは、しかし私ではない。
親身になるには身分の差ではない隔たりがあり、憐憫を向けるには自業自得と思わざるしかない正妃の無関心な態度があり、敬うにはその要素は皆無で。
いずれ枯れていくその高貴な身は、一体その硝子玉の眼差しでどんな未来を見ているのでしょう。
いずれにせよ、私の忠誠も服従も正妃のものではなく。
従順に頭を垂れるべき主人でもない。
後悔はしない、と。
太王太后陛下に膝をついた時、そう思っていた。
何があろうと、どんな事になろうと。
未来が見えないのは同然だと解っていても、幾らでもどんな風にでも想像する事は出来たはずで。
けれど、そこに破滅の風景を私は見た事はなかった。
王妃様。
貴方は、嫁ぎ先を間違えたのです。
想いを寄せる人物を見誤ったのです。
貴方を、そこだけは哀れみでもって私は見てしまうのです。
「女官長」
官位を呼ばれ、ナディシーフェは顔を上げた。
後宮に与えられている室で、王宮から後宮へと充てられる費用に関して新たな申請書類を書き上げている時だった。
寄る年の波には敵わず、ここ数年手離せなくなっている眼鏡をずれている訳でもないのについ癖で押し上げる。
ノックに応えたのはいいが、顔もあげずにいてしまった事にナディシーフェは内心溜め息を吐き出した。
ここ半年、後宮で使われる金の減りが早い。
王廷費から《華》のそれぞれに割り当てられる金額は事前に決定されていて、どのような事情があろうと一年間変わる事はなく、《華々》にも関係ある来期の王廷費を決定するのには今の時期は幾らか早い。
自らを美しく着飾り、その美しい容貌や肢体を保つ為の費用が王廷費から回される金額だけでは足りない場合、皆実家や後見人などからの援助で賄っている。
後宮に掛かる費用で、王城の財源を逼迫してはならないのだ。
いかに多くの《華》を抱えたのだとしても、後宮が原因で国庫が枯渇となる事態を招いたなどとなれば、それは国としての大きな恥となる。
傍若無人で好色家でもあった先々代国王でさえ、多くの愛妾とその子供達を抱えてはいても国庫に影響を与えるような金の使い方はしなかった。
寧ろ、好戦的であったが故に戦に財を注ぎ込む傾向があり、それはそれで過剰になれば問題でもあった。
人件費も、《華》が後宮入りに際して自ら連れて来た者たちに対しては《華》たち側に支払い義務がある為、財源圧迫の軽減となっていた。
本来、後宮費と称される後宮に充てられる費用の使い道は主に後宮管理にその維持、人件費などであって、愛妾たちに割り振られるのは王廷費を財源としてこれも決まった金額分の食と住のみだ。
実家や後見人に財があればあるだけ、身分ではどうにもならない贅沢さに差が出来る。
故に、実家の財が乏しい《華》であれば財力を持つ後見人を得て初めて後宮入りするのが慣例となっていた。
また反対に財のある者は、身分ある女性の後見人となって後宮へと送り込む。
半年前、新たに後宮入りした《華》は当初から実家はなく後見人もいない状態だったが、それも国王の寵愛と国王派からの援助で、贅沢品に使える財は今や大商人の祖父を持つカロリング伯爵令嬢・ミアリリスよりも上だった。
それでも十分だというのに、国王の命令で後宮費の一部がその《華》に充てられるようになっている。
しかも、一部とは言っているが実際は日に日にその支出額は後宮費を食い荒らし出している。
今期に充てられた全額からして、あと三月足らずで底が見えて来るだろう。
ナディシーフェはそれに内心では顔を顰めつつ、けれど諾々と受け入れた。
何故なら《眷属》が齎しているのだろう水と緑はあまりにも魅力的だ。
それを輸出して、新たな財源確保にしようという計画が進んでいる。
水不足と砂漠化の停滞から転じて、この半年は水も緑も増えているのは傍目にも明らかになって来ていた。
それを生み出しているだろう《眷属》の希少性は、何をどれ程費やそうと手離してはならない。
だが、と。
ナディシーフェは考える。
脳裏に浮かぶのは可愛らしい顔立ちの娘。
後宮に長くいるナディシーフェの目から見ても、《眷属》の立ち振る舞いや言動は他の《華々》と比べて圧倒的に子供染みて物知らずだ。
淑女の礼儀作法やこの国の歴史や各国の文化など。
多岐にわたる教育を施す為に、幾人か教師をつけているがあまり芳しくはない。
正妃になれない愛妾でさえ、正妃になれる機会を想定して正妃として立った時の手腕を磨く為の勉強を自ら進んでしている者も多いというのに、正妃となるだろう《眷属》の娘にその様子は未だない。
それでもこの厳しい後宮にあって笑って許されているのは、国王の寵愛の深さと《眷属》という肩書きがあるからだ。
「どうしました?マイラ」
入室していた相手に顔を向けた。
《眷属》付きの女官の一人だ。
年が近い事とメリレンチェ公爵の遠縁という理由で《眷属》付きとなった娘は、一枚の紙を差し出して来た。
それを受け取り素早く目を通す。
その内容に、眉間に皺を寄せた。
「つい先日、追加で費用を回したばかりのはずです」
「ええ、解っています。ですが、此度の宴では生半可な装いではいけません。誰よりも立派で美しく着飾るべきですから」
一歩も引く姿勢はないと、視線を向けて来る。女官になって日が浅いというのに、女官長であるナディシーフェに対して随分と強気に出て来る。
それを元来の性格とみるには、聊か度が過ぎていて、ここ最近どうにも《眷属》付きの者たちに見られるようになった鼻につく態度だった。
国王の寵愛も深い《眷属》の傍に仕えているという優越感に酔っているとも感じられるのは、後宮女官長であるナディシーフェを見下していると解る程に、その目が語っているからだ。
それを隠せないところが若さ故か経験不足故か。
どちらにせよ、この場合身の程を弁えていないマイラにナディシーフェは失望する。
マイラはその年齢と経験不足の割には、仕事の覚えが早い優秀な女官なのだ。
そこで身の程を弁える思慮を持てるなら、僅か数年足らずで女官長補佐にもなれるだろう。
渡された紙片は、後宮費から《眷属》へ幾らか費用を回すよう要求する書類だった。
すでに何度目であろうか。
つい先日にも、国王の命令にもある通りに後宮費の一部を回している。
その金額は、結構なものだ。
いずれ正妃の廃位の発表に前後して《眷属》のお披露目がされるだろうと見込んで、いつもより五割り増しの費用を回していた。
衣装類だけが身を飾る物ではない。
装飾品の類など、凝った意匠でなくとも宝飾品としての石ひとつでさえ容易に金を食う。
更に、その《眷属》の周囲にいる侍女や女官たちまでその身を飾り立て始めている。
一見して衣類などはそうと解らないが、それでも使われる生地は他の後宮勤めの者たちより品質は上であり、装飾品として彼女達に唯一許されている既婚者かどうかを示す腕輪に使われる素材もやはり品質に金を使っている。
現国王陛下の正妃が嫁して来る直前まで、後宮内外で権勢を揮っていた先々代国王の妃であった太王太后陛下でさえ、《正妃》として相応しい装いはしても過剰な装飾は避けており、その侍女や女官たちも身の程をきちんと弁えていたのだ。
ナディシーフェは、マイラが未婚を示す為右腕に嵌めている細めの腕輪に視線を走らせ、頭痛を覚えてしまう。
いかに、《眷属》付きでありメリレンチェ公爵家の所縁の者であっても、後宮内に措いて表舞台に立てるのは、正妃と愛妾たちのみなのだ。
マイラの腕輪に嵌められた宝石の類は、いかに単調な細工であっても見る者が見ればその価値に気付く。
私的な場で、私的な立場でならそれは許されただろうが、後宮では駄目だ。
「マイラ。あなたの言い分は尤もでしょう。眷属様が身に付ける装飾品や眷属様自身の美しさを磨く消耗品などにならこちらも追加の費用を出しましょう。ですが、あなたは一介の女官。その意味が解りますか?」
「………………」
ナディシーフェの窘める言葉に、年若いマイラの柳眉が歪んだ。
何を指しているかは解っているようだ。
それでも不満を示している。
「お言葉ですが、私は眷属様付きの女官です」
「例え、そうであろうと一介の女官はどこまでも女官です。本来後宮費から一部といえど、特定の人物に費用を回す事はありません。王妃様にさえそうです。それを敢えて回しているのは、国王陛下の命令と《眷属》という理由があるからです」
回している後宮費は、《眷属》が齎すモノを考えれば回収可能であるから回しているのだ。
そうでなければ、幾ら国王の命令であろうとナディシーフェは諾とは頷かなかっただろう。
後宮の管理・維持は大切で大変な仕事だ。
《華》のそれぞれに政治的絡みが十二分にある以上、彼女達が後宮に住まう間は決して不自由させてはいけない。
そうナディシーフェは思っているが、唯一の例外である正妃・アリアの事は敢えて考えないようにしていた。
「あなた達には、眷属様を支持している方々から十分な賃金が出ているはずです。そして、後宮には後宮なりの規定があります。それを女官風情のあなた達が侵していい理由はありません。後宮費から回されている金銭の一部をあなた達使用人が着服している事実を、よもや私が気付いていないなどと思ってはいませんね?」
鋭い眼差しでナディシーフェはマイラを真っ直ぐに見た。
《眷属》に使われるはずの金銭の一部を、《眷属》付きの者たちが自由にしている。
すぐにその事実に気付いたナディシーフェは、けれど敢えて今までその事実を追及・叱責した事はなかった。
身の程を弁え、《眷属》付きとしての《眷属》に恥を掻かせない為に身を装う程度ならば見逃しは幾らでもした。
だが、マイラの腕輪に使用されている宝石は幾ら小さいものであっても、一介の女官風情では中々手を出せない類の物だ。
そして、宝石を使った装飾品を《眷属》付きの侍女・女官たちが幾つも所有し始めている事実をすでに把握しているナディシーフェに見逃せる物ではなかった。
更には《眷属》付きの騎士たちの一部も、城下で派手に金を使い始めているという噂を耳にした。
そんな事実は、裏を返せば逆に《眷属》の評判を貶めす事になりかねない。
その事に気付けない者たちばかりではないはずだ。
確かに厳選されたはずの者たちなのだ。
けれど、目の前に横たわる現状にナディシーフェは思う。
《眷属》付きというだけで、彼らや彼女らは「自分たちは特別な人間である」と勘違いしている。
特別なのは、あくまで《眷属》自身。
「身の程を弁えなさい。あなた達のしている事は、いずれにせよ眷属様の為にもなりません。すでにこの事は太王太后陛下に報告済みです。事と次第によっては、眷属様付きの者たち総入れ替えもあると念頭に入れておきなさい」
傍仕えの者たちの総入れ替えという通告に、マイラの顔から血の気が引いている。
言外に、猶予を置いていると込め、それと共に改善の余地がなければ実行すると含む。
ここまで言われて改善の為に何一つ動かない人間はいないはずだ。
流石に《眷属》付きとしての立場を自らの愚行で手離そうとは思わないだろう。
《眷属》付きになりたいと思う人間は、あまりにも多い。
その立場を幸運にも得た者たちは、容易に現在の地位を捨てられないし、捨てたくはないはずで。
ナディシーフェはマイラに差し出されていた紙に書かれた幾つかの数字や品名に訂正・削除を入れると最後に自らの名前をサインする。
後は、財務管理を司る室がある王宮西棟へ行って申請するだけだ。
王室財政の管理もしている現在の財務総監は熱心な国王派で、更に言えば《眷属》という存在に対しての昔からの信奉者だ。
すぐに要求・申請は許可されるだろう。
マイラにそれを差し出すと、相手は一瞬受け取る手に躊躇を見せた。
要求した金銭の一部は、自分たちのものになるはずだったが故の後ろめたさか。
ナディシーフェは、それを受け取って退出して行った女官の姿に溜め息を零す。
贅を凝らす事の許された、今は《愛妾》という立場の《眷属》。
片や国内外的にも法的に認められた妻でありながら、質素な生活を送るしかない《正妃》。
対極に位置した二人の娘の姿を脳裏に描いたナディシーフェは、だがすぐにそれを脳裏から追い出した。
いかに《眷属》の存在がありがたいものであろうと、でしゃばり過ぎても問題だ。
ナディシーフェにとって本来国王よりも遥かに上位である《眷属》は、だが決して国王や太王太后より上には成りえないのだ。
《眷属》自身も、その周囲の人間にもより一層の教育が必要だろう。
その手配を早急にしなければならない。
(そういえば……)
ふと、ナディシーフェは思う。
正妃たる女性は、正妃としての采配を揮う能力が実際はあったのだろうか―――と。
しかし、そんな事を考えても所詮は冷遇されて廃位される存在。
まして、ナディシーフェが従うのは太王太后・リエルアナのみ。
《眷属》といえども、太王太后陛下の後ろに控えているべきだろう。
今一度、眼鏡をきちんと掛け直して書類に再び眼を通す。
懐妊した《眷属》の、国王陛下の子の為に、組まなければならない予算の案も提出しなくてはならないのだから。