1 正妃・アリア
窓辺に立ち、じっとガラス越しの向こうを見た。
けれど、夜の帳が下りたそこはよく見えなくて物悲しくなる。
陽の下でなら、感嘆の溜め息を誘う薔薇が庭園中に咲き誇っているのに。
そう思う事は、未練だろうか。
「……私は、ここを眺めるのが好きだったわ」
背後に立つ気配へ、秘密を告白するかのような囁き声で告げた。
夜の色が支配している今、静けさを払拭するような楽しげな音楽と歓喜のざわめきが風に乗って届いて来る。
すぐ近くではないから、うっすらとした膜越しのように聞こえる大勢の気配は決して自分を歓迎はしない。
瞼を伏せる事もせず、ただガラスの向こうを見下ろし続ける。
そんな彼女に一歩、背後の気配が近付いた。
慰めようというのか。
けれど、言葉も温もりも伸びて来ず、一歩で止まった気配はだがそれこそが優しさなのだとすでに知っていた。
「ねぇ、私は決めたわ」
どれだけ微動だにせず、時間が過ぎたか。
未練を振り切るように振り返った。
室内には灯りひとつなく、薄闇の中では相手の姿を見れない。
だが、ここ数年で馴染んだ気配はあまりにも心地良いから、目の奥が痛い熱を持つ。
それでも涙は流れず、表情の乏しい目尻を少しだけ痙攣させた。
「ここから臨める薔薇園を、時折散歩するあの方を見ているのが好きだった」
「…………」
「あの方が、決してこちらを振り向く事がなくても。私に気付かなくても。それでも一目あの方を見れるだけで幸せだった」
「…………」
「…………けれど、駄目ね。今はそれが辛い。私ではない人と隣り合って優しく笑うあの方を見るのが、幸せだけとは思えなくなってしまった」
それが罪のようにして視線が眇められる。
その視線の先で見ているのは、辛い光景なのだろう。
僅かに震えた声音に気付けるのは、今彼女と向かいあっている者だけ。
表情の乏しい彼女は、《人形姫》と呼ばれていた。
唯々諾々と、ただ周囲に言われるまま流されるまま生きているかのような、そうして作った笑顔を浮かべ、紡ぐ声音の淡々さが、彼女を《人形》と言わせていた。
だが、そうではないと。
気付いているのは、やはり今向かい合っている者だけ。
彼女はすっと右掌を下に向けて上げた。
差し出された華奢な手に、伸ばされた大きな掌がそれをそっと取り、やわりと握る。
「連れて行って。終わりの場所に」
「お前の望む通りに」
すくざま返った声音の強さに含まれた柔らかさに、彼女は淋しげに小さく笑った。
アリア=ヴァイス=クロス=セイィータは、三代以上続くことで血統貴族と総称される百二十三家の貴族たちの頂点にある筆頭公爵家の娘だった。
家系図を紐解かずとも建国以来続いている由緒ある家柄で、王家とも密接に繋がっているのは周知の事実だ。
セイィータ家から王家に妃を何人も送り出し、また王女や王子が降り公爵家と婚姻した事も一度や二度ではない。
最も王家に近しく濃い血筋の公爵家は、だが現在最も王家…それも筆頭である国王に疎まれている。
それに至るには、現国王・グレンダート=ヴァイス=シャゼ=ダリウゼンとアルフォンソ=クラン=セイィータ公爵との長きに渡る確執があった。
アルフォンソ=クラン=セイィータ公爵といえば、特に先代国王・ギルリアード二世に早くから信頼・寵愛された家臣だ。
また何を置いてもセイィータ公爵に真っ先に相談を持ち掛け、公爵の意見を重視する傾向が強かったギルリアード二世は体が弱く、公爵と同じ年であった為もあるのか、嫡子たる王子が僅か七歳の折、風邪を拗らせ呆気なく早世する間際に公爵を王子の後見人に指名した程だ。
それだけであるならまだしも、公爵の生まれたばかりである娘・アリアをいずれは王子の正妃にするよう遺言した。
その事が、常日頃から気に入らなかった有力貴族たちの反感を倍増し、かつ七歳という幼さで国王とならざるえなかったグレンダート王子に元からセイィータ公爵の悪い噂をある事ない事を吹き込んでいた口の滑りを更に良くしていった。
幾らセイィータ公爵の手の者が眼を光らせようと、髪の毛一筋の隙間を見つけてはグレンダートの心にセイィータ公爵への悪印象を植えつけていくのだ。
また、国王となったグレンダートが「こうであれ・ああであれ」と口うるさくする公爵を疎ましいと思うのも早かった。
それでも、国内外のセイィータ公爵が齎す権力・影響力は大きく、国王と言えど簡単に無視出来ないもので、だからこそアリアは十六歳の成人を迎えると同時に当時二十三歳となっていたグレンダートの正妃として嫁いだ。
それから五年。
アリアとグレンダートとの間に、子はなかった。
本来、国王の正妃が子を成せなかった場合、三年で有無を言わさず離縁されるのが慣わしだ。
十数代前、妾妃の生んだ王子と、それより半月遅れて生まれた正妃の王子との間で国内中を巻き込んだ玉座争いが起こり、更には正妃の第二子であるもう一人の王子が玉座争いに参戦した際の悲劇を教訓に、玉座を継ぐ者は正妃腹の子のみで、また第一子であれば男女問わず第一位王位後継者と定められた。
事実、その事で三度女王が即位している。
グレンダートの後宮には、三十人程の愛妾が存在するが、その愛妾たちにも子はなく、また子があったとしても王位継承権は巡って来ない。
継承権の条件のもう一つが、正妃の地位にある最中で産み落とす事も絶対であるからだ。
その為、後に正妃になろうと正妃になる前に生んだ子に継承権はなく王族とも呼ばれない。
余程、突出した才能でもなければ一代限りの伯爵位と生涯生活に困らない程度の金銭が支給されるだけだ。
三年で離縁されず、アリアが五年も正妃にあったのは、ひとえに先代国王の遺言と父であるセイィータ公爵の影響力があったからだ。
だが、その影響力は急激に衰えていた。
半年前、グレンダートが一人の少女を人目も憚らず寵愛し始め、後宮の美姫たちに手を出す事が一切なくなってしまったからである。
また、その少女を寵愛しているのは国王であるグレンダートだけではなかった。
文官・武官。
それぞれの上層部に属する者たちの、それもグレンダートに近しく、セイィータ公爵を敵視する有力者たちもが少女を溺愛しているのは周知の事実。
元から、正妃とは名ばかりのお飾り妃と言われ、王宮に出入りする侍女や下働きの者たちにすら軽視されていたアリアなど誰も見向きもしない。
まして、アリアの唯一の庇護者であるセイィータ公爵は僅か五日前に急死した。
表向きは、日頃から弱っていた心の臓の発作が原因と発表されたが、葬儀に参列出来なかったアリアの下を訪れた次期公爵であり、異母兄のルフォードは力弱く笑み血統貴族の筆頭から外される事をアリアに告げた。
正妃でありながら、アリアが子を成せない事を理由にした国王・グレンダートの厳命だと言う。
命令がなかったとしても、急逝したセイィータ公爵・アルソォンソ唯一の後継者であるルフォードには、セイィータ公爵家当主として魑魅魍魎が跋扈し、陰湿な謀略渦巻く王宮を渡り歩くだけの才覚はない。
血統貴族の筆頭として相応しくないと判断されても仕方ない事だ。
事実、それを憂いたセイィータ公爵・アルソォンソは自身に何かあった場合を想定して、正妃である娘・アリアの後見人として血統貴族第二位のメリレンチェ公爵当主を指名し、セイィータ公爵分家から優秀な者を数人、ルフォードの側近としていた。
けれど、メリレンチェ公爵の次期後継者は国王に愛された少女の後見人になる事を自ら名乗り出ており、その父である現メリレンチェ公爵も正妃・アリアが子を成していない事を国家の憂慮として後見人を降りる事をセイィータ公爵・アルソォンソ急死の報翌日に国王に告げた。
ルフォードの側近の中にも、国王どころか他の有力貴族に排斥されようとしているセイィータ公爵家に見切りをつけている者がいるという。
急逝したアルソォンソの才覚が別格だったせいもあるだろう。
疎まれ妬まれ様とも、尚他者を何処か惹きつけていたアルソォンソがいなくなれば、ただセイィータ公爵として生き残る事に心血を注ぐしかない。
力になれない事を謝罪する異母兄・ルフォードに「気にしないで下さい」とアリアは首を振るだけだった。
グレンダートとの間に子がいれば今後もセイィータ公爵家は安泰だっただろう。
けれど、時の流れは常に変化している。
誰かの望むまま、それとも望まないままかなどとは決して関係なく。
そうして、つい二日前。
国王・グレンダートの口から寵愛している少女が懐妊している事が王宮の全ての人間に告げられた。
その時の衝撃をアリアは、だが静かに受け止めていた。
自分とグレンダートの関係。
そして、グレンダートの少女への寵愛ぶりを思えば、遠からずやって来た現実だったのだ。
遠く聞こえる楽しげで嬉しげな数多の気配は、王宮内で今宵開かれた少女の懐妊を祝う宴である。
そこに正妃・アリアは呼ばれない。
誰も歓迎しない。
正妃ではない者の懐妊が、これ程多くの人間に歓迎されるなど本来ならありえなかっただろう。
そして、正妃の地位にあった上で子は生まれなくてはならない。
その決まり事に従い、子のないアリアは正妃の座から明日にでも廃される事を告げられるだろう。
父であったセイィータ公爵の喪に服す期間だからと、正妃のままでいる猶予はもう終わる。
胸にあるのは、急逝した父の死の悼みと、父・アルフォンソと親子として過ごした記憶。
齢六つ歳に母が病死した辺りに、それ以前の記憶がアリアにはなかった。
薄ぼんやり霞掛かり、それ以前を思い出す事は出来なかったが、それも今でははっきりとしている。
何故、はっきりとした記憶を持っていなかったかも。
父は常以上の厳しい顔つきで、じっとアリアを無言で見詰めている事があった。
そうして、時折「アルティナン」とアリアを抱き締めて耳元で呟くのだ。
「アリアよ。間違えないで、お父様」
名をきちんと呼んで貰えない事が悲しく、アルフォンソに縋るように何度も言った。
その度に、アルフォンソは無言を貫き、厳しい顔つきを変える事はなかった。
(あぁ、お父様)
アリアは、手を引かれて歩きながら父・アルフォンソを懐う。
失っていた記憶の中、母・チェリエナと微笑み合っている父を、異母兄・ルフォードとこっそり覗き見て、そのルフォードと笑い合っている自分。
母を失って以降、感情を上手く面に出せなくなっていた自分を厳しく見据えていた父が、どれ程自分を愛してくれていたか。
全て思い出してしまえば、それは簡単に知れて。
長く続く廊下に人気は少ない。
多くが、今夜の祝宴に駆り出されている。
仮にも未だ正妃のアリアの部屋周りには警備の影さえなく、いっそ何者に襲われてしまっても構わないという国王たちの思考が明け透けに見えていた。
チクリと痛む胸の奥を知りたくなくて、自分を連れて歩く相手の手をもっと強く握った。
ざわめきが少しずつ大きくなっていく。
この先に、終わりが待っていると解っている。
知っていてそれでも、この歩みをアリアは止めるなど出来ない。
(グレンダート様……)
心の奥で呼び掛ける。
ただの一度として、決してアリアを見てはくれなかった夫。
それでも、その姿を一目見る事が出来た日は、ただ幸せな気持ちでいられた。
大きな扉が見えた。
その向こうに煌びやかな祝宴の光景が広がっている。
息を小さく飲んだ。
扉の両脇に控える王宮警備の騎士たちが、近付いて来たアリアたちの姿に気付いて眉ねを寄せる。
呼ばれていない正妃・アリアに問う言葉を、けれど騎士たちは発する事は出来なかった。
瞬時に肉体は硬直し、脇を通り過ぎようとしているアリアをただ石像のようにして突っ立って見送るばかり。
アリアの手を引く相手の空いた片方の手が、重厚な扉に軽く触れる。
本来、数人掛かりで開閉される扉は難なく開いて、光の渦でアリアの眼を射す。
「正妃・アリア=ヴァイス=クロス=セイィータ。さぁ、お前の最後の舞台だ」
そうだろう、アルティナン―――――。
囁くように告げる相手に、アリアはしっかりと頷いた。
表情の乏しいその顔に、けれど確かに決意を漲らせて。