水飴
あれは梅雨明け直前の陰鬱な雨の日だった。
純夏は大学の授業を終え、アパートに帰宅する途中で、男と出会った。
あまり高くもない堤防の上を這うような道。アパートまですぐ近くのこの道が純夏は好きだ。晴れた日にはのんびりと散歩すると、いろいろといいアイデアが浮かんでくる。
百メートルほど先の対岸には小さな山があって、緑が広がっている。緑化活動に積極的なこの町だが、やはり本物の自然には適う物ではない。
普段は水位の低いこの川も、 今は雨が表情をすっかり怒りに変えてしまっていて、とても近寄る気にはならない。夏には親子連れが遊べるような優しい浅瀬が広がるのだが。
そして、今時の若者には似合わない黒い傘をさし、純夏の道を塞ぐでも無くただ佇む若い男。
男は中性的な雰囲気を纏っていた。一瞬、女性かと思ったほどに彼は奇麗な雰囲気している。だが、彼女は、どうしても彼の顔を思い出せない。
イメージは白。漠然と思った。
「こんにちは」
その涼やかな声で、ああ彼は男なんだ、と他人事のように気がついた。
もともと人通りは多くない上に、今日は雨だ。道行く人は二人以外には居ない。いや、人通りがあってもやはり二人きりになったのではないか、と純夏は考える。いつの間にか、思考はぼんやりとしたものになっていた。
不思議な雰囲気。一言で言えばそんな有りふれた言葉になってしまう。
「こんにちは」
男はもう一度言って、ひどく儚げな笑顔を浮かべる。ドキッとした。佳佑に対する胸の高鳴りとはまったく質が違う。しばらく見つめ合った後で、彼女はかすれた声を絞り出す。
気付けば随分と息苦しい。場を支配する湿気が、突然形を持って純夏の喉に詰まったかのようだ。
「あなたは、誰……」
「人ならざる者、ではあるだろうね」
それは矛盾している。『人』と『者』は同じ意味じゃないの?
「ボクが誰だろうと君にはさほど重要じゃないだろう?」
確かに。この異常なシチュエーションだけで、十分常軌を逸している。彼が誰なのか知らない方が、もしかすると幸せなのかもしれない、とさえ思えてしまう。
「望むなら力をあげる」
胡散臭いセリフ。しかし彼のそれは砂糖をたくさん含んだ水飴のように甘くて、それだけで純夏は溶けてしまいそうだった。こんな経験、おそらくこれから先も一度だって無いだろう。
「君の想いは辛く、永い責め苦。なぜなら、そのままの君では叶う事は無いから。未来永劫に」
それは単純で、分かりきった説明だった。
「だが、君は我慢するんだね。今までのように殻に閉じこもっていれば、傷つかずにやりすごせるから。違うかな?」
にっこりと笑う。否定を許さない力を感じ、頭がとても熱い。
「それもいい。君の人生だから。……しかし。変える事を望むのも、生命が生命たる業。人はその業が特に強い」
口が渇く。白い青年以外の景色が歪んで見えて、もう立っているのか座っているのかも分からない。
「君が頷けば、力は君の物だ。僕が上げるんじゃない。君が手にする」
そんなもの、詭弁だ。が、それが、どうした。
声がわんわんと響く。
『君と彼を遮るもの。断ち切る力。君がそれを手にする』
『君が気付いている、君の中の念。それは君が放つ』
『君のかけがえのない……大切な……この上なく、邪魔な存在』
続きは言わないで欲しい。純夏は最後の理性で心からそう願ったが、青年はいとも容易くそれを口にした。
「君の念に従って殺せば、いい」
頷く純夏。
「承知した。力は君の物だ」
一瞬、イメージが白から金色に変わった気がした。
ご精読ありがとうございました。