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ビートル



 面会時間などとうに過ぎている。静かすぎる病院の廊下を抜けて、夜間出入口から外へ出る。

 地方の中心とは言えど、それでも所詮は地方都市だ。午後11時を過ぎれば、出歩く人もあまりいない。時折ヘッドライトが病院前の道を通り過ぎていく以外は静かなもので、辺りは闇の時間帯だった。


 だが、穂波実は知っている。人里の闇など、本来の意味の闇ではない。街灯、家々の窓、コンビニ、車……光源には事欠かない夜の町。


「確かに、これでは魑魅魍魎の類いがやる気をなくすのも分かる気はするがな。人間界は明るすぎる」

 急患用の小さな駐車場で待っていた人影。彼女が発した言葉に、穂波実は我知らず小さくうなずいていた。

 どういう訳かやや自嘲気味に呟いて、御子神美梛は煙草の煙を空に向かって吐き出した。その煙草からもオレンジの光が発せられ、闇を遠ざける小さな一因になっている。


「どうだった、設楽要は?」

 穂波実に向き直った姉の目が、案の定先を見通した光を宿している。

「……一昨日のことは覚えてないみたい」

「ほう、覚えていない?……では、見てしまったということだな」

 美梛はおもしろくなさそうに呟いて、最近持ち歩いている携帯灰皿に吸い殻を落とす。いつでもどこでも煙草を吸いたがる美梛に、未希が諦めて持たせた物だ。本当は辞めさせたいらしいが、それは多分不可能に近い。


 姉のお気に入りである小さな丸っこい外車。助手席に乗り込みながら、穂波実は要がいる辺りの窓をちらりと見上げた。

「人の脳は、自分が受け止めきれない程の圧倒的なストレスを受けると、自分を守るために防御機能を働かせることがあるらしい」

 古いエンジンが咳き込んだように排気ガスをふかす。ヘビースモーカーの主を真似ているみたいだ。

「つまり設楽要はそういうことだ。自分で記憶を吹っ飛ばしたんだろう。無意識に。自分が破綻しないように」

「できるの?」

 自らの記憶を封印する。美梛は車を駐車場から県道へと出しながら、抑揚無く答える。

「ああ。もちろん意図的な記憶の消去は難しいが、交通事故などの外的なショックでその前後の記憶をなくすのは、よくある話だ。ドラマのように全てを忘れてしまう症例はほとんどないようだが」

 そう言えば警察官をやっている叔父さんから、そんな話を聞いたことがあるような気がする。命に関わるような傷を頭に負うと、直前2〜3ヶ月の記憶をなくすことはざらにあるんだとかなんとか。


「設楽要も同じことだ。下校途中にとんでもない光景が目に飛び込んできた。それは到底、その辺の女子高生が受け止められるような内容ではなかった。壊れる前に忘れたんだ、彼女は。……ただ、思い出す可能性はある」

「うん……」

 きっと思い出さない方がいい記憶なのだろう。しかし警察の事情聴取は逃れ得ない。その前に、母親からも真実を聞かされるかもしれない。いずれ世間に復帰すれば、必ず要の耳には知りたくもない情報がすぐに入ることになる。


 彼女が呆けていた近くの橋の下で見つかった、死後ほとんど間もない男女のバラバラ死体。しかも遺体の損壊状況は常軌を逸したもので、まるで何かに食い荒らされたかのように原型を留めていないのだという。

「設楽要が事件の後に怪異を見たのも、間違いないか?」

 少し青い顔で、こくりとうなずく穂波実。二人ともフロントガラス越しに見える道の先だけを見ている。

「分かった」

 美梛に表情は無い。ただ先を見ている。

 きっと美梛は、穂波実が知らない結論に迫っている。現場から帰り、椅子に深く腰掛けてパイプを燻らせるホームズ探偵のように。だが、その思考の先を穂波実が見ることはできない。

「やっぱり、物の怪の仕業……」

「死体か?報道が事実なら、人間のやり方とは思えないが。それに、設楽要だ」

 美梛は指で忌々しげにハンドルを叩く。

「物の怪どころか霊感にすら縁がなかった彼女が、事件直後に怪異を見た。十中八九、カップルを殺した物の怪に近づきすぎて影響を受けた結果だろう」

 病院なんて死人だの怨念には事欠かない場所だしなと付け加え、美梛は要の不幸を冷静に解説する。


「一般人の霊力に影響を及ぼす程の力を持つ物の怪が、この町にいる…?」

「その通りだ。それどころか、実際に人間を食い殺している。この前の鬼よりも質の悪い化け物かもしれんな」

 香華純夏は鬼と化して未希を襲ったが、あれほどの鬼でも、今回の殺戮をこなせる程の力と凶暴さは持つまい。少なくとも、美梛が知っている化け物の類いでは竜とかヴァンパイアくらいのものだろう。


 えも言われぬ不安に駆られ、穂波実は姉を呼んだ。要の時の予感ではないが、ふと嫌な気持ちになる。

「うん?」

 美梛はハンドルとシフトレバーに手をかけたまま、誰も通らない赤信号の交差点を見ている。忘れ去られたかのような二人の時間の後、歩行者用の信号が点滅を始めた。

「どこまで分かってるの」

 ゆるゆると加速し始めたシートに身を預け、穂波実は姉の奇麗な横顔を見た。その口元が嗤うように歪む。

「自分でも分からんよ。全体が見えなければ、自分の推測が何パーセントのところなのかなんて。それが分かれば苦労は無いな」

 それから一転して、美梛はにやにやと笑う。相変わらず先を見たまま。

「そう心配しなさんな。優しい美梛お姉たんは、寂しがりな妹を残してどこかに行ったりはせんよ」

 その意地悪な言いように穂波実が腹を立てたのは事実だ。だが、美梛の言葉がやけにリアルではっとしてしまい、すぐに返事をできなかったのも事実だった。


「……どこが。全然信用できない」

 心配して損したと言わんばかりの非難を込めて、低く呟く穂波実。

「手厳しいな、穂波実。まあ、これまでの生活を考えれば致し方ないか?」

 自分の研究のために世界中を飛び回っていたのだから、妹の言うことは正しい。文句一つ言うでもなく、帰るたびに暖かく迎えてくれる妹達には感謝せねばなるまい。

「何、しばらくはどこにも出かけるつもりはないよ。興味を惹かれる物騒な所はあらかた回ったしな。まあ、未希と穂波実にかけた苦労を、長女も少しは負担するさ」

 少し楽しそうに笑う美梛。が、すぐに舌打ちする。

「降ってきたか。まずい……二階の窓を開けっ放しだ。まったく人の脳ってのは、今思い出してもしょうもないことを敢えて思い出すようにできてるのか?」


 天気に悪態をつく姉の横で、穂波実は拭いきれない不安と、フロントガラスに落ち始めた雨粒とを重ね合わせていた。

ありがとうございました。

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