刑事一課長の憂鬱
相楽慶次郎は額に浮かぶ汗を拭いながら、写真数枚と睨めっこしていた。
うだるような熱さが、警察署内を支配している。一応備えられているはずのエアコンはしかし、県の厳しい財政事情の中「経費節減」という大義名分の下に出番を減らされ、今ではその存在は伝説にすらなろうとしていた。それもそのはず。庁舎内全般に通じるエアコンのスイッチを握っているのは、交通課でもこの刑事課でも無く、天下の会計課。よほどのことが無い限り、有名無実と化したエアコンの出場機会は無い。
そんな訳で今日も窓全開、ほとんど吹いていない自然風に頼りながら汗だくで仕事をしている。こんなことでは仕事の能率がガタガタになりそうなものだが、そういう融通は一切きかず、精神論で乗り切るのが警察という古い組織である。要は気合いだ。
「まったく、なんなんだ……」
熱さに拍車をかける厄介な殺人事件。手の中に治まる写真が、相楽一課長の頭痛を激しくしていた。そもそもこんな地方都市のさほど大きくもない警察署の管内で殺人事件が起こるだけでも珍しいのに、この猟奇性。午後には県警本部から応援がやってくるほどの重大な事件。
「無茶苦茶じゃないか。これ、どうやるんだ」
課長席の前に立つ早瀬係長に問う。
「そうですね。木っ端みじん、とは言い過ぎかもしれませんが……とにかくこんな死体は、私も初めて見ました。ちょっと理解できません」
早瀬は中年にしてはすらっとしていて、実年齢よりも若く見える。しかしベテラン刑事である彼の経験は、相楽も買っている。その彼も、彼より経験の長い相楽自身も、こんな異常な死体を見たのは初めてだった。
夜中、当直員から自宅に電話がかかってきて、相楽は眠い目をこすりながら現場に赴いた。『署から自宅に電話』の時点で重大事件発生なのだとすぐに分かったが、まさかこれほどとは。
現場でまず目についたのは、若い刑事が道路の影で嘔吐する姿だった。四月に刑事になったばかりとは言え、それほど柔ではなかったはずだが……。
そう思いながら現場に入ってすぐ、相楽は彼の心情を理解した。
被害者の通学路だったガード下の細い道は、真っ赤なペンキをぶちまけたようだった。いや、ペンキとマネキンだったらどれほど良かったことかと思う。
ちぎれた死体には右手と肩、そして半分になった頭しか残っていなかった。何をどうしたらこういう壊れ方をするのか、見当もつかない。船に荷積みする大型クレーンの稼働域に入り込んでしまった労災事故の被害者でさえ、ここまでの損傷はなかったというのに。
問題は、損傷だけではない。無くなった部位はどこに行ったのか。現場以外の付近には何の痕跡も残されておらず、犯人がどちらの方向へ逃げたのかすら不明だ。だいたい犯人が持ち去るにしたって、こんなめちゃくちゃな切り取り方をするのだろうか。文字通り、見当もつかない。
「人間技じゃない」
そう言いたくもなる。
「大型の肉食獣に食いちぎられたような、正にそういった感じですね」
溜息が漏れる。どうしてこの町にそんなものがいるものか。
隣接署の管内では猟奇殺人が発生し、その後も行方不明者が相次いでいる。そいつがいつこちらの管轄内にも現れるのかと気を揉んでいたというのに、輪をかけて異常な事件が起きてしまった。……猟奇性だけ見れば同一犯だと疑ってもいいのかもしれない。
「かわいそうに。まだ高校生なんだろ?」
「県立一高の二年生のようです」
もはや顔が判別不能なほど損傷しているので、通学鞄に入っていた原付免許からの推測段階だが、数日中には本部の科学捜査研究所から正確な解答が届くのだろう。
女子高生が残忍極まりない方法で殺されたセンセーショナルな事件だけに、すでにマスコミが大騒ぎしている。警察としては、市民の不要なパニックを避けるために死体の損壊状況は公表していないが、噂が立つのは時間の問題だろう。
「解剖の結果待ちだな。暑いところすまないが、周辺の聞き込みは続けてくれ。望み薄だが、目撃者でもいれば……」
規格外の事件だが、結局はいつもやっている捜査を地道にこなすしかない。それこそが真実への唯一の道なのだと、もう亡くなった大先輩の言葉を思い出しながら、相楽はため息をついた。
こんな事件は、神主をやっている兄の両分なのではないかなどと、思わず本気で思ってしまう。
「いや、それは言わない約束か……」
独りごちて思い直す。
罪の無い若い命がこんな死に方をしていい訳がないのだ。正直な話、この仕事についていると、救う価値のないように思えてしまう鼻持ちならない連中が思ったよりも多いことに、否応なく気が付いてしまう。
しかし、この娘が正真正銘の「被害者」であることは疑いようがない。そして、被害者に変わって無念を晴らすのが刑事という職業。
例え相手がなんであれ。
ご精読ありがとうございました。