穂波実視線
「最近、純夏の様子がおかしいような気がするんです」
姉は、一番上の姉に対してなぜか敬語を使う。妹である私にはそんなこともないし、友人に対してもフランクな言葉遣いだ。
ともかく、未希の表情は浮かない。テーブルに頬杖をついて麦茶を煽っている。反対側に座る美梛は、煙草を指で弄びながらちらりちらりと未希を見ている。ダメですと目で返答され、不満そうにケースに戻した。
「様子がおかしいと言われてもな。体調でも悪いんじゃないのか」
「それはそうなんですけど、それだけじゃないっていうか」
未希の話は要領を得ない。本人もその辺が漠然としている、と言った様子だ。
香華純夏と言えば、未希の同級生だったはずだ。何度か見た事がある。知的な眼鏡のお姉さんで、大人しそうな雰囲気の人だった。
「ならば医者の出番だな。私ら神職の専門ではないだろう。穂波実、私にも麦茶をくれないか」
煙草から団扇に持ち替え、つまらなさそうに美梛。興味の無い事には徹底的に興味を持たない人なのだ。
麦茶を注いで渡すと、実においしそうに喉を鳴らして飲み干してみせる。コマーシャルに起用すれば、かなりいい線を行くのではないだろうか、と思う。
「たまらんな。ビールもいいが、麦茶もいいな、うん。もう一杯くれ」
よく分からないことで一人納得し、奇麗な笑顔で笑う。姉妹ながら、普通に笑うと本当に奇麗な人だと思う。
ここ数年、神職の資格のために遠くの大学に通ったり、帰って来たと思ったら「修行してくる」なんて簡単に言ってどこかに出かけてしまったり、あまり家に居てくれた記憶が無い。そう言えば、この前お土産にくれたのはどこかの国の年代物の人形だった。……本当に修行に行っていたのだろうか。
「後はほら、故郷の両親とケンカした、なんていい線じゃないか?大学生なんてやんちゃしたくなる年頃だろ。学生という殻に守られた社会の屑だからな。学生特有の、俺はなんでもできる、みたいな勘違い開放感が……」
「すいませんでしたね、現役の社会の屑で。姉さんも数年前は屑だったんですね。でも今は立派すぎる社会人ですもんね。私も先行きが安心でしょうがないです」
「……」
私は、母の顔すら覚えていない。私を産んですぐに他界してしまったらしい。写真の中で微笑む母親はとても優しそうで、姉妹の中では未希に雰囲気が似ている。
そしてあのバカな父の事は……考えたくもない。今も出張と称してどこかで遊び歩いているに違いない。
「なんだか、私に対して冷たいような気がするんですよね……」
そんな訳で、4つ離れた未希が私の母親代わりであり、友達であり、大好きな姉だった。だから未希の表情が浮かないと、私も楽しくない。
「なら、簡単だ。未希が、香華の気にくわない何かをしたんだろう」
にべもない言い方が美梛のいいところでもあり、悪いところでもある。
「とも思ったんですけど、何も言ってないはずなんですけどね〜」
「未希。人付き合いはそんなに簡単なものじゃない。本人が直接言わなくても誰かから伝わる事もあるし、根も葉もない勘違いとか思い込みの噂が一人歩きしている可能性だってある」
「そりゃそうなんですけど。全然思いあたらない……」
べたーっと溶けたアイスのごとくテーブルに実を預ける未希。なんだか可哀想になってくる。
「お姉ちゃんはきっと悪くないよ。お姉ちゃんが悪い訳ないもん」
我ながら根拠も何も無いが、これが私の正義だ。
「ありがとぉ、ホナミン〜。私の味方はアナタだけだよぉ〜」
「お姉ちゃん、嬉しいけど、ちょっと苦しい……」
むぎゅーっと抱きしめられると、美梛が冷ややかな視線を向けてくる。
「お前達、仲がいいのは結構だが一線は越えるなよ」
「あの人の言うことは8割戯れ言だから聞かなくていいよ〜、穂波実」
美梛は軽く笑ってから、すっと真面目な表情に戻る。まるでスイッチを切り替えたように、突然変わるのが美梛のすごいところだ。
「さて、未希。香華女史のことだが。前々日は変わった様子も無く、普段通りの彼女だった、と言うが」
冷凍庫からアイスを取ってくる未希。
「そです。な〜んにも、変わった様子はなくて。穂波実も食べるでしょ?」
「うん」
未希が差し出す箱の中から、いつも通り赤い色の円柱形が付いた棒を選び出す。
御子神家でアイスと言えば、このフルーツアソートのアイスキャンデーのことであり、美梛はグレープ味、私はイチゴ味と決まっている。未希だけは選り好みしないので、多分結果として一番食べている。
「最近、そもそもおかしかったのではなくて、か?」
やはり美梛は紫のグレープアイスだ。
「最近?……言われてみれば、少し元気無かったかも」
彼女が質問するという事は、興味を持っているという事。そして千里眼でも持つかのような切れ者の姉の質問は、ある程度自分で出した答えを確認する作業。
「私が前に会った時には、すでに彼女はおかしかったんだよ、未希」
「え?純夏が遊びに来た時って、一ヶ月くらい前ですよね?そうだ、神社の雰囲気を作品創りの参考にしたいって言ってたから連れて来たんだ……」
その時に、私も彼女と出会っている。私はこの性格だし、ろくに話もしなかったが、美梛とは社史や神道の考え方などでかなり話し込んでいたようだった。
「気がつかなかったのなら、いい。おそらく彼女は明日、大学には来ないだろう。いや、来れないと言った方がいいか」
「またそういうシャーロック・ホームズみたいなことを……」
「ホームズか。そりゃあいいな。ただ私は、部屋でパイプをくわえているだけでなんでも当てられるほど器用ではない」
違う。確かにホームズはワトソンやレストレード警部の話を聞いてパッと真実を思い浮かべていたが、それはあくまで憶測であり、裏付けを取るために現場に赴いて実地調査を行っていた。彼は名探偵ではあるが、地道な捜査を蔑ろにしていた訳ではない。
……なぜだか私はホームズを擁護している。無口な方だけど、頭の中ではいろいろ考えてます。
「まあ、そうだとしても、まだ少し時間があるはずだ。手だてを考えておこう」
「ちょっと話が早すぎてついて行けないんですけど。純夏に物の怪が取り付いてるんですか?」
物の怪。19の女子大生の口からひょいっと出てくる言葉ではないが、我が家では別に違和感は無い。
「断定は出来ないが、可能性はあるという話だ。普通に大学に来ていれば、体調が悪いか、人間関係の問題だろう」
「はあ、そうですか……」
話は終わりだ、というように美梛は部屋を出て行ってしまう。煙草を吸いに行ったのだろう。
「お姉ちゃん、私に出来る事ある?」
未希はちょっと疲れたような笑顔を見せる。
「ありがと。でも大丈夫だよ。それに物の怪が関わってるかもしれないんじゃ、穂波実に危ない目に遭わせる訳にいかないもの」
「そんなの、気にしなくていい」
「そういう訳にはいきません。大事な穂波実が怪我なんかしたら、お母さんに合わせる顔が無いでしょ」
たまに未希はそんなことを言う。でも、お母さんはどんな人だったのか聞いてみても、
「う〜ん、優しかったけど、私も4歳だったからねぇ。よく覚えてないんだ」
なんて苦笑いしている。
「姉さんは結構覚えてるよ。後、もちろんお父さんも。今度聞いてみたら?」
「いい。美梛お姉ちゃんは真面目に教えてくれないし、バカ親父は話したくない」
バカ親父の話をする時、私の顔は私が想像する以上に険しいのだろう。未希はいつも驚いたような、ちょっと泣き笑いみたいな表情になる。
「バカ親父なんて言わないの〜。お父さん、あれで結構苦労してるんだから。お母さんが早くに亡くなって、一番辛いのはお父さんでしょ?」
聞きたくない、と目をそらした。大嫌いなバカ親父の話なんて、大好きな未希からは余計に聞きたくない。姉はため息をついて私の頭を撫でる。
「ったく、変なところで姉さんの悪影響受けてるんだから……あ、煙草吸ったらダメだよ?」
それは大丈夫。煙草は嫌いだ。服と髪に臭いがつくから。
「お姉ちゃんのためならなんでもするから、言ってね」
本心だ。怪異に対してしか役に立たないこの力が、もし姉のために使えるなら喜んで使おう。
「うん、ありがと」
未希はそう言って力なく笑った。
ご精読ありがとうございました。