十年なめられていた地味透明公爵夫人ですが、夫にされたことを同じ手順でやり返したら屋敷が崩壊しましたがもう知りません
朝五時。目が覚める。
隣のベッドはもう空になっている。
いつものことだ。
夫は私より先に起きて書斎に行く。……と思っていたけど、最近は東の離れに行っているらしい。
きっと、イレーネ様のところだろう。
夫が私に興味がないのは知っている。知ってるけど、知らないふりをしている。
何年間もこの感じだと、そうやって取り繕うことがが得意になった。
まだ寝ぼけている目をこすりながら、起き上がって、髪を整えて、廊下に出る。
まだ誰も起きていない屋敷は静かで、私の足音だけが石の床に大きく響く。
厨房に寄って、今日の献立を確認する。
「お嬢様、おはようございます。今日もお早いお目覚めですね」
料理長のオットーが、冷蔵庫の扉の陰から顔を出す。
「オットー、おはよう。本日の来客は三名です。アルブレヒト伯爵はエビが食べられないのでエビは抜くようにお願いしますね」
その足で使用人棟に向かう。
この前…掃除担当のリーザと庭師のヴォルフは何かあったのか、最近仲が悪そうだったな。
なので、しばらくはシフトが被らないように調整しておくことにした。
それから書斎に戻って、届いている近隣領からの手紙に目を通す。
南のヘッセン男爵領から収穫祭への招待状。
東のブラント辺境伯領から、これはこの前のお見舞いの返礼品のお礼。
北のシュタイン伯爵領からは……これは相続の揉め事の相談だ。
…これは早めに返事の下書きを作っておこう。
そうやって私の朝のルーティンが全部終わる頃に、ようやく屋敷が動き始める。
使用人たちが皆起きて、廊下に足音が増えて…朝食の準備の匂いがしてくる。
「おはようございます、奥様」
「おはようございます、奥様」
「おはよう、奥様。今日のシフト表、もう出てるんですね。いつも助かります」
みんな私に挨拶してくれる。でも、それだけだ。
私がいなかった朝を、誰も想像したことがないのだろう。
私は夫人という立場でもあるけれど、この屋敷の管理をしている。
元々やろうと思って始めたわけではなくて…ただ気になってしまうからアドバイスや補助をして、気が付いたらこんな感じになっていた。
まああの人は私に興味がないし、他にやることがあるかといえばそうでもないから…暇つぶしだって思ってる。
朝食の席。夫が新聞を読みながら、こちらを見ずに言う。
「ああ、今日はアルブレヒト伯が来るんだったか……それは何時だ」
「午後二時です。応接間にお茶の準備をするように用意しています」
「ああ、わかった」
それだけ、毎朝こんな感じだ。
「ありがとう」は最初の三年くらいで消えた。今は大抵、「ああ」だけ。
便利な言葉だ。感謝も興味もないことを、一音で伝えられる。
唐突だけど、私は前世の記憶を持っている。
この世界では前世の記憶を持つ人も特に珍しくはないようで、ある一定の年齢や時期になると、自分の前世の記憶を思い出す人が多い。
でも、皆が完全に前世の記憶を思い出せるわけではない。
私の場合はそこまで鮮明に思い出せたわけではなかったから、だいぶ薄っすらとした記憶だ。
覚えているのは、会社のデスクでパソコンを打っていたこと。
お昼はコンビニのおにぎり。帰りの電車はいつも満員。
特技も趣味も、これといってなかった。朝起きて、仕事をして、帰って晩御飯を食べて、寝る。
そんな平凡な人生だった。
ただ、会社では色んなことに気がつく人だった。
給湯室のコーヒーが切れたら補充して、新人が困っていたらさりげなくフォローして、忘年会の幹事はいつも私で…誰かが休んだら代わりに電話を取った。
誰にも頼まれていないのに、全部やっていたと思う。
感謝されたことは……あったかな。あったと思いたい。
ある日帰りの電車で意識が遠くなって、そこで記憶は終わっている。
「次は誰かに必要とされたい」と思ったから、嫁いだ時は嬉しかった。
必要とされている。
この屋敷を回す人が必要で、その役割が私に与えられた。
十年間、それだけで十分だと思っていた。
機が来たのは、三年前。
夫がイレーネ様を屋敷に連れてきた日だ。
「紹介する。イレーネ・フォン・ライヒェルト。……遠縁の姪だ。しばらくうちで預かることになった」
その言葉はわかりやすい嘘だった。遠縁の姪ではないことは一目でわかった。
イレーネ様は二十二歳。
金髪に青い目をしていて笑うと八重歯が見える、かわいらしい人だった。
夫がイレーネ様を見る目は、私を見る目とはずっと違った。
柔らかくて、温かくて…返事は「うん」じゃなくて「ああ、そうだね」と言う。
……そういう目で見られたことが、今まであっただろうか…たぶん、なかったと思う。
でも、我慢した、我慢することは得意だから。
三年間で、夫がやったことは三つあった。
一つ目。社交界で「妻は最近体調が優れなくて」と言い始めた。
本当は元気だ。でも夫がそう言うと、招待状が減る。お茶会に呼ばれなくなる。
少しずつ、少しずつ、この世界でも私の居場所が消えていく。
気づいた時には、近隣の貴族夫人たちとの繋がりが半分以下になっていた。
二つ目。私が十年かけて築いた近隣領との関係を、「公爵家の伝統的な外交」として、イレーネ様に引き継がせようとした。
ヘッセン男爵夫人の好きなお花の種類、ブラント辺境伯の奥方の誕生日、シュタイン伯爵のお嬢さんの婚約祝いに何を贈るか…。
全部、私が十年かけて覚えたことだ。
それを「うちの伝統」として、マニュアルにまとめてイレーネ様に渡そうとしていた。
…そのマニュアルを書いたのも、私だけど。
三つ目。家計の帳簿を書き換えた。
十年間、私が毎月つけてきた領地の支出記録。その一部が書き換えられていた。
支出が増えて、私の管理する費目に不審な金額が入っている。
どうみても横領しているように見える。
……離縁の口実だろう。
全部、全部知っていた。
でも我慢していた。だって、ここが私の居場所だから。
ここを失ったら、また前世と同じだ。誰にも必要とされない、透明な人間に戻る。
そう思っていた。
でも、ある朝。
いつものように五時に起きて、いつものように廊下を歩いて、いつものように使用人のシフトを確認しようとした時。
書斎の机に、書類が置いてあった。
それは離縁届だった。
理由欄には、「家計管理における不正」と書いてある。
夫の名前はもう記入されていた。
書類を見つめた。
手は震えなかった。涙も出なかった。
ただ、すとん、と何かが落ちた。
お腹の底のあたりで、十年間張っていた糸が切れる音がした。
「……もう、いいかな」
その日から、私は「我慢する妻」をやめた。
最初にしたことは、マルガレーテに相談することだった。
マルガレーテは私が嫁いだ日からずっと仕えてくれている老侍女だ。
「奥様。私はこの十年間…ずっと見ておりました」
マルガレーテは紅茶を淹れながら、静かに言った。
「旦那様が何をなさっていたかも、奥様が何を我慢なさっていたかも…」
「……知ってたの」
「ええ、使用人は見ていますよ。もちろん、旦那様と奥様に口答えなどで出来ませんから何も言いませんがね…」
そう言いながらマルガレーテが紅茶のカップを差し出した。
いつもの、私好みの少し渋めの紅茶だ。
「奥様がお動きになるなら、私もお力添えをさせていただけませんか」
「……ありがとう、マルガレーテ」
「お礼は十年分まとめて、あとでいただきますわね」
マルガレーテはそういうと嬉しそうに大きく笑った。
釣られて私も少しだけ笑った。
作戦は単純だった。
夫が私にやった三つのことを、同じ順番で、同じやり方で、やり返す…という内容だ。
一つ目は社交界での評判。
夫は三年かけて私を社交界から消した。
「妻は体調が優れなくて」
夫のその一言で、私への招待状は半分以下になった。
だから、同じことを返そう。
マルガレーテの伝手で、グライフ侯爵夫人のお茶会に招待してもらった。
グライフ侯爵夫人。
社交界で最も影響力のある女性の一人で、そして最も噂好きな人。この人の耳に入った情報は、三日で社交界の隅々まで届く。
夫は私に興味がないから、お茶会に出たことなんて気づきもしない。
お茶会の席には、近隣領の夫人たちが八人ほど集まっていた。
私の顔を見た瞬間、全員の目が丸くなった。
「……エーデルハイト様、お久しぶりですわ。お体の具合は……」
「ええ、おかげさまで。ご心配をおかけして申し訳ありません」
にこにこと笑顔を作った。
もちろん、元気そのもの。血色もいいし、痩せてもいない。
夫人たちの顔に、困惑が浮かんでいる。
「体調が優れない」と聞いていたのに、目の前にいるのは健康そのものの女性だ。
「……あら、お元気そうで安心しましたわ。公爵が、ずいぶんご心配されていたから……」
ベルク男爵夫人が探るように言う。
よし、ここだ。
「……ふふ、あの人はいつも大げさなんです。ただ、少し屋敷にこもりがちだっただけで」
少しだけ目を伏せた。
笑顔を保ったまま、でもほんの一瞬だけ影を見せる。
……前世で覚えた唯一の特技があるとすれば、それは「大丈夫なふりをすること」だった。
夫人たちの目が光った。
女の勘は鋭い。
「こもりがちだった」の裏に何があるのか、全員が察している。
「ねえ、エーデルハイト様……その、公爵様のお屋敷に、若い女性がいらっしゃるって噂を聞いたんですけど、本当なのかしら?」
グライフ侯爵夫人が紅茶のカップを置いて、私を見て身を乗り出した。
この人は直球だ。そこがありがたい。
「ああ……イレーネ様のことですね。遠縁のお嬢様らしく……少なくとも、夫はそう紹介しました」
そうやって、少し目を伏せながら表情を暗くして答えた。
少なくとも、その一言で十分だった。
その瞬間、お茶会の空気が変わった。
同情と好奇心が混ざった、独特の熱を帯びた空気。
夫人たちは優しい顔をしているけど、目は笑っていない。
自分たちの夫がもし同じことをしたら、という想像をしている目だ。
「まあ……エーデルハイト様、おつらかったでしょう?」
「いいえ、きっとあの人なりに考えがあるのでしょうから」
健気な妻の顔、我慢する妻の顔。
夫が私にやったのと同じように「体調が悪い」とは言わない。
ただ、「可哀想な妻」の姿を見せるだけ。
あとは噂好きの夫人たちが勝手にやってくれるだろう。
三日後、社交界に広まった噂はこうだった。
「公爵は妻の体調不良を理由に社交界から遠ざけておいて、その間に若い女を囲っている」
「あの優しいエーデルハイト様を、十年も尽くした奥様を、あんな仕打ちをするなんて」
「しかもエーデルハイト様はご立派よ。あれだけのことをされて、一言も夫の悪口を言わないの。『あの人なりに考えがあるのでしょう』ですって……私だったら刺してるわ」
最後の感想はグライフ侯爵夫人だろうな、と思った。
とにかく、これで一つはうまくいった。
それから一週間後。
夫のもとに届く社交の招待状が目に見えて減ったのがわかった。
夫が出席した晩餐会で、男性貴族たちからも距離を置かれ始めていた。
「妻を粗末にする男は信用できない」
貴族社会では、妻の扱いはそのまま人間性の評価になる。
しかも、その噂を耳にしたであろう取引先の伯爵が、商談を延期してきた。
同盟関係にあった辺境伯が、定例の会合を「都合がつかない」と断ってきた。
夫はまだ気づいていない、なぜ自分に対して周囲が冷たくなったのか。
自分が私にやったことと、まったく同じことが起きていることに。
二つ目は功績だ。
次の季節の挨拶状をイレーネ様に任せた。
「私はもう体調が万全ではないので、イレーネ様にお任せした方がよろしいかと」
夫は喜んだ。自分の計画通りだと思ったのだろう。
でも、イレーネ様は知らない。
ヘッセン男爵夫人が好きなのは白い百合であって、赤い薔薇ではないことを。
ブラント辺境伯の奥方に「お元気ですか」と書いてはいけないことを。
あの方は持病があって、「お元気ですか」は地雷だ。
「穏やかな日々をお過ごしでしょうか」と書くのが正解だ。
シュタイン伯爵のお嬢さんの名前がアンナではなくアンネリーゼであることを。
今までの積み重ねで、こういった小さな気遣いができていたけれど…彼女はその積み重ねがないから、知らないのもしょうがない。
一週間後。
ヘッセン男爵夫人から「趣味の悪い花をありがとうございます」というような内容の皮肉たっぷりの手紙が届いた。
ブラント辺境伯の奥方からは返事すらなかった。
返事をしないほど怒っているのだ。
シュタイン伯爵からは「うちの娘の名前を間違えるとは、公爵家も落ちたものだ」と直接夫に抗議が来た。
夫の顔が青くなっていた。
私がいたこの十年間、一度もこんなことはなかったから。
一度もなかったのは、私のおかげだ。
でも夫は、それを知らない。
そして三つ目。
これが本命だった。
夫が改竄した帳簿と、私が十年間つけてきた控えの帳簿。
二冊を並べると、色々な部分の数字が違う。
夫が書き換えた箇所は全部わかる。
金額が合わない月、追加された架空の支出、消された収入。
十年分の控えを取ってあったのは、別に用心していたわけじゃない。
ただの癖だ。つけた帳簿を捨てられない性格なだけ。
マルガレーテが手配してくれて、王都の監査官に、帳簿の原本と改竄版を「うっかり」届けた。
ついでに、近隣の有力貴族三家にも写しを送った。
「ご確認いただきたい書類がございます」という丁寧な手紙を添えて。
夜会の夜。
公爵家主催の秋の夜会。年に一度の大きな行事だ。
今年の夜会は、私ではなくイレーネ様が取り仕切ることになっていた。
イレーネ様は頑張っていた。それは認める。
でも、花の手配が遅れて会場が寂しくなり、席順を間違えて仲の悪い貴族を隣同士にしてしまい、楽団への連絡を忘れて音楽が始まらなかった。
招待客たちがざわめいている。
「今年はどうしたんだ」「去年まではこんなことなかったのに」「エーデルハイト様がいないと、やはり違うな」
その言葉を、壁際で聞いていた。
十年間、一度も言われなかったことを。私がいなくなって初めて、言われた。
イレーネ様が、給仕室の隅で泣いていた。
「……私、何もできないんです。旦那様が、全部できるって言ったから……全部やりますって言ったのに、何もわからなくて……」
イレーネ様は悪い人じゃない。ただ利用されていただけだ。
夫に「次はお前が正妻になる」と言われて、必死に頑張ろうとしていた。
でも、十年分の知識と関係を、たったの三ヶ月で引き継げるわけがない。
「イレーネ様」
私は声をかけた。
イレーネ様が涙で濡れた顔を上げた。
「……エーデルハイト様……」
「泣かなくていいですよ。あなたのせいじゃない」
「でも、私、旦那様に……」
「知っています。全部知っています」
イレーネ様の目が大きくなった。
「あなたが悪いんじゃない。できないことを『できる』と言わせた人が悪いんですから」
「……っ」
時間は流れていき、夜会の後半部分に差し掛かっていた。
用意していた帳簿の件は、計算通りに広まっていた。
来賓の中にいた監査官が、夫に声をかけた。
「公爵。お宅の帳簿について、少しお聞きしたいことが。少しこちらの方へ」
夫の顔から血の気が引いた。
ぱっと、私を見た。私が何をしたか、やっとわかったのだろう。
「……エーデルハイト。お前、何を」
「私は何もしていません。十年間つけてきた帳簿の控えを、監査官にお見せしただけです」
「っ……あれは、違う、あれは——」
「違うなら、説明できるはずですよね。なぜ私の帳簿と、書斎にある帳簿で、数字が違うのか…」
夫が口を開いて、閉じた。言い訳が見つからない顔だった。
「横領していたのは私じゃありません。帳簿を書き換えたのは、あなたです」
「……いつから知っていた」
「最初から、です」
「…なぜ黙っていた」
「我慢していたからですよ」
夫が黙ったまま、動けなくなった。
来賓たちが見ている、近隣の貴族が見ている、使用人たちが見ている。
「でも、もう我慢しないことにしたんです。もう貴方に好き勝手されて黙っている私じゃないですから」
その一言を言うために、どれだけの時間がかかっただろう。
離縁届は、結局私の方から出した。
理由欄には何も書かなかった。帳簿の件で十分だ。
屋敷を出る日。
持っていく荷物は少なかった。十年も住んだ屋敷なのに、私のものはほとんどなかった。
着ていた服も、使っていた食器も、全部「公爵家のもの」だった。
私のものは、十年分の帳簿の控えくらい。
マルガレーテが玄関で待っていた。旅支度をして。
「奥様。お供いたします」
「……マルガレーテ。あなたまで出なくていいのよ。ここでの仕事があるでしょう」
「仕事なら、奥様のそばにもございます……十年分のお礼、まだいただいていませんし」
マルガレーテが笑った。
腰は悪いけど、足取りはしっかりしていた。
馬車に乗り込もうとした時、後ろから声がした。
「エーデルハイト様!」
イレーネ様が走ってきた。はあはあと、息を切らして。
「あの……私……旦那様とは、もう……」
「イレーネ様。あなたは自分のことを考えてください」
「……でも、私、何もできなくて——」
「何もできないなら、これから覚えればいいんです。私も十年前は何もできませんでしたから」
イレーネ様が泣きそうな顔で頷いた。
「……あの。もし、お時間があれば……花の手配の仕方だけでも、教えていただけませんか?」
「……それは、その分のお代をいただきますよ」
「えっ」
「ふふっ、冗談ですよ、いつでも聞くといいです」
少しだけ笑い合った。
なんだか不思議な関係だ。
でも、イレーネ様を恨む気にはなれなかった。
王都で、小さな相談所を開いた。
「相談事ならなんでも」という看板を出したら、最初の一週間は誰も来なかった。
二週目に、元の領地の使用人が手紙をくれた。
「奥様がいなくなってから、屋敷が回りません。助けてください」
三週目に、近隣の男爵夫人が訪ねてきた。
「使用人の配置がうまくいかなくて困っているの。あなた、そういうの得意だったでしょう」
……得意、と言われたのは初めてだった。
当たり前のことをしていただけなのに。
一ヶ月後、相談所は小さいけど安定した仕事が入るようになった。
マルガレーテが帳簿をつけてくれている。
「奥様の帳簿の付け方、十年見てきましたから」
ある朝。
五時に目が覚めた。癖だ。十年間の癖は簡単には抜けない。
でも今日は、廊下を歩かなくていい。
使用人のシフトを確認しなくていい。来客の好みを思い出さなくていい。
台所に立って、自分のためにお茶を淹れた。
前の屋敷にあったような高い茶葉じゃない。
市場で買った、安いけど香りのいいハーブティー。
自分のために淹れたお茶は、こんなに美味しかったんだ。
十年間、誰かのために淹れていたお茶は、味がわからなかった。
窓の外が明るくなっていく。
王都の朝は、屋敷の朝より騒がしい。
馬車の音、商人の声、どこかでパンを焼く匂い。
マルガレーテはまだ寝ている。静かな朝だ。
前世でも私は、透明な人だった。
いてもいなくても変わらない人。
いなくなっても「あれ、コーヒーの補充誰もしてないな」で終わる人。
今世でも、十年間同じだった。いてもいなくても「うん」で済まされる人。
でも、いなくなったら——屋敷は止まった。
花の名前を間違え、手紙の返事が書けなくなり、使用人が喧嘩を始め、夜会が崩壊した。
十年分の「当たり前」は、当たり前じゃなかった。
それを教えてくれたのは、皮肉なことに、いなくなった後だったようだけど。
紅茶をもう一口飲んだ。
少しぬるくなっている。
でもいい。自分のペースで飲むお茶は、冷めても美味しい。
前世では透明な会社員だった。今世では透明な公爵夫人だった。
三度目は——看板を出した、自分の名前の相談所の人だ。
地味な人生だけど。
悪くない。全然、悪くない。
【完】




