第8話「崩れる聖女」
帝都の鐘が、正午を告げていた。
その音を、私はラーゼン村で聞くことはない。けれどこの日の出来事は、十日遅れで届いた書簡と、行商人グスタフの口を通じて、工房の作業台の上に並ぶことになった。
帝都で何が起きたのか。
それを知ったのは、営業停止から一月半が過ぎた頃だった。
最初に届いたのは、宰相府からの公的な通達だった。
封を切ると、帝国法務院の紋章が入った再調査報告書の写しが同封されていた。
内容は簡潔だった。
神殿監査の結果、聖女マリエル・フォン・エストレラの治癒実績に複数の虚偽が確認された。治癒能力とされていたものは、本人の魔力によるものではなく、魔道具による効果の偽装であった。さらに、聖女認定試験における魔力測定値に改竄の痕跡が認められた。
同時に、三年前のヴィオレッタ・ルーゼン断罪事案について、法務院が再調査を実施。告発内容の根拠がマリエルの虚偽証言に基づいていたこと、宮廷裁判の手続きが正規の要件を満たしていなかったことが確認された。
報告書の末尾に、宰相レナード・ヴァイスフェルトの名で皇帝陛下への上奏が行われた旨が記されていた。断罪の手続き的瑕疵と聖女の虚偽を併せて報告し、関係者の処分を具申したと。
私はその文書を二度読んだ。
三度目は読めなかった。
文字が滲んで見えたからだ。
二日後、グスタフが村に寄った。
「大変なことになってましたよ、帝都は」
グスタフは荷を下ろしながら、興奮気味に話した。
「聖女様の治癒が全部偽物だったって、神殿が公式に発表したんです。魔道具で効果を見せかけてただけだって。認定試験の数値も弄ってたらしくて、神殿法の最も重い罪に問われるとか」
「……そうですか」
「それだけじゃない。聖女様が追い詰められて、公の場で叫んだそうです。『すべてヴィオレッタが悪い』って」
手が止まった。
三年前の断罪の場で聞いた声が、耳の奥で蘇った。
あの日も、マリエルは私の名を叫んでいた。泣きながら、震えながら、王太子と婚約者の前で、私が自分をいじめたと訴えていた。
あの時は、誰もがマリエルの涙を信じた。
「でも今回は誰も同調しなかったそうです。証拠が全部揃ってましたからね。神殿の監査記録、法務院の再調査結果、魔道具の鑑定書。宰相閣下が全部まとめて皇帝陛下に出したんだとか」
グスタフが言葉を続けた。
「聖女の認定は取り消し。エストレラ男爵家は社交界追放が決まったそうです。虚偽申告は一族連座ですからね」
認定取消し。社交界追放。
聖女の称号を失えば、マリエルはただの男爵令嬢に戻る。そして一族連座の処分により、エストレラ男爵家は社交界から完全に排除される。
「クレーンヴァルト侯爵家のほうも、えらいことになってるみたいですよ」
「クレーンヴァルト家」
アルベルトの家だ。
「侯爵から伯爵に降爵だそうです。皇帝陛下の裁可で。嫡男のアルベルト殿は辺境の鉱山監督に左遷されるとか」
降爵。 左遷。
三年前、宮廷の広間で私を指さし、「この女との婚約は破棄する」と宣言した男。
あの時の彼の顔を思い出そうとした。 思い出せなかった。
もう、どうでもいい顔だった。
「それから皇太子殿下も、皇帝陛下からお叱りを受けたとか。断罪の手続きに問題があったって、宰相閣下が指摘したらしくて。皇太子教育のやり直しを命じられたそうです」
皇太子への叱責。 宰相の進言権に基づく、職務上の上奏。
レナードはこれを、私情ではなく公務として行った。手続きの形式を完璧に整えた上で、皇帝に判断を委ねた。
感情ではなく、制度で動かした。
「いやあ、帝都じゃ大騒ぎですよ。三年前の断罪が冤罪だったって、もっぱらの噂で。ルーゼン公爵家の令嬢が不当な扱いを受けていたって」
「……グスタフさん」
「はい」
「茶葉の在庫、確認していただけますか。営業が再開されたら、すぐに出荷できるように準備しておきたいので」
「ああ、そうですね。もちろんです」
話題を切り替えた。
グスタフは察したのか、それ以上帝都の話はしなかった。
グスタフが去った後、工房の裏手に出た。
営業停止中の翠風堂は静かだ。竈には火が入っていない。乾燥棚の薬草は、リーゼルと村の女性たちが毎日手入れを続けてくれている。
空を見上げた。
辺境の空は今日も広い。
マリエルの聖女認定が取り消された。アルベルトの侯爵家は降爵された。皇太子は叱責を受けた。
三年前に私を踏み潰した人間たちが、一人残らず落ちていく。
私は何もしていない。
茶を作り、記録をつけ、村の人々に薬草の選別を教えていただけだ。
復讐を望んだことはない。 見返してやりたいと思ったこともない。
ただ、自分の足で立つ場所を作ろうとしていただけだ。
それなのに、結果だけが追いかけてくる。
爽快感があるのかと問われれば、正直にわからないと答える。
胸の中にあるのは、もっと静かなものだった。
終わった、という感覚。
三年前に終わったと思っていた物語が、本当の意味で終わった。
断罪は無効。冤罪は証明された。手続きの不正は是正された。
私がいなくても、事実は事実として機能した。
夕暮れ、工房に戻ると、棚の上にもう一通の書簡が置かれていた。
村長が届けてくれたらしい。宰相府の公印がある。
封を切った。
中には公的な通達が一枚。翠風堂への毒物混入告発について、法務院の検証が完了し、告発内容は事実無根と認定された旨の報告。営業停止の解除は追って正式に通知されると記されている。
そしてもう一枚、公印のない紙。
「あなたの名誉は回復されました。ですが、あなた自身の選択を待ちます」
レナードの筆跡だった。
名誉回復。
あの夜、私が「要らない」と拒んだもの。
レナードはそれを、私の意志に関わらず、制度の側から実現した。断罪が無効であるという法的事実を確定させた。
けれど、それを受け入れるかどうかは私に委ねている。
公爵令嬢に戻るか。 このままここにいるか。
その選択を、誰にも強制されていない。
私は書簡を棚にしまい、冷えた竈の前に座った。
営業停止はまもなく解除される。村の女性たちが手入れしてくれた薬草は、すぐにでも使える状態だ。リーゼルが準備してくれた採取計画も整っている。
止まっていた時間が、動き出そうとしている。
エプロンの内側に手を入れた。
ずっとしまったままの、最初の一筆がある。
「あなたの答えを、急かすつもりはありません」
そして今日届いた一筆。
「あなた自身の選択を待ちます」
二枚の紙を、指先で触れた。
この人は、ずっと待っている。
私が何を選んでも受け入れるつもりで、ただ待っている。
窓の外で、風が乾燥棚の薬草を揺らした。
私はその音を聞きながら、目を閉じた。
答えは、もう出ている気がした。




