第7話「毒と嘘」
「翠風堂の薬草茶に毒物混入の疑いあり、との告発が提出されました」
帝国法務官が読み上げた書面の文言を、私は工房の入口に立ったまま聞いた。
朝だった。仕込みの準備をしていたところに、馬に乗った法務官と護衛の兵士二名が現れた。トーマス村長が慌てて駆けつけ、工房の前に立っている。
法務官は三十代半ばの痩身の男で、帝国法務院の紋章入りの外套を着ていた。表情は硬いが、敵意はない。職務を遂行しているだけの顔だ。
「告発者は聖女マリエル・フォン・エストレラ殿。神殿経由で法務院に正式に提出されたものです。告発の内容は、翠風堂で販売されている薬草茶に人体に有害な成分が含まれている疑いがある、というものです」
聖女の名による告発。
法務院はそれを受理する義務がある。聖女の称号は神殿認定であり、その発言は侯爵級の社会的効力を持つ。
私は息を整えた。
動揺はあった。だが、パニックにはならなかった。
「法務官殿、調査にはもちろんご協力いたします。工房の中をご確認いただけますか」
「そのつもりです。まず在庫品の確認と、調合に使用している原料の検分を行います」
法務官が工房に入った。
私は棚の上から、三年分の記録帳を下ろした。
「これは」
法務官の目が変わったのは、記録帳を開いた時だった。
「調合日誌です。翠風堂で販売した全品目について、使用した薬草の種類、産地、採取日、乾燥期間、煎じの温度と時間、完成品の色と香りの状態、販売先と日付を記録してあります」
記録帳は六冊あった。三年分。一日も欠かさず書き続けたものだ。
前の人生で叩き込まれた習慣だった。研究記録は日付と数値を必ず残す。再現性の担保が品質管理の基本だ。
「原料の産地証明はこちらです。村の採取場所ごとに土壌の状態を記録し、どの区画からどの薬草を採取したかを対応させてあります」
法務官は記録帳を一頁ずつめくり、産地証明と照合していた。その手が何度か止まった。
「……これほど精密な記録を、個人の工房で」
「品質を安定させるためには、記録が必要です。同じ薬草でも採取時期が一週間違えば有効成分の含有量が変わります。記録がなければ、なぜ効いたのか、なぜ効かなかったのかがわからなくなります」
法務官は黙って頷いた。
検分は丁寧に行われた。在庫の茶葉を開封し、色と匂いを確認し、記録帳の記述と照合する。原料の乾燥棚も、竈の周辺も、すべて確認された。
二時間ほどかけて工房の隅々を調べ終えた法務官は、記録帳を閉じた。
「告発内容と矛盾する点が多数確認されました。少なくとも現時点で、有害物質の混入を示す証拠はありません」
「では」
「ですが」
法務官の声が低くなった。
「聖女殿の名で提出された告発は、現場確認のみでは棄却できません。法務院本院での正式な検証が必要です。その間、翠風堂の営業を一時停止していただきます」
営業停止。
その言葉が、工房の空気を凍らせた。
背後でリーゼルが息を呑む音がした。いつの間にか工房の入口に立っていた。
「期間はどの程度でしょうか」
「本院での検証が完了するまでです。通常であれば一月から二月ほどかかります」
一月から二月。
その間、翠風堂の茶は売れない。帝都の商会への納品も止まる。村の女性たちに支払う手間賃も出せなくなる。
私が始めた産業が、止まる。
「承知いたしました」
声は平静を保った。法務官に感情をぶつけても、事態は変わらない。この人は職務を遂行しているだけだ。
法務官が営業停止の通知書を作成し、私に手渡した。工房の入口に法務院の封印が貼られる。
手続きがすべて終わり、法務官が馬に乗って去った後、工房の前には私とリーゼルとトーマス村長が残された。
「師匠は何も悪くないのに」
リーゼルの声が震えていた。目が赤い。
「リーゼル」
「三年分の記録があるんですよ。全部ちゃんとしてるのに。なんで止めなきゃいけないんですか」
「告発が正式な手続きで出された以上、調査しないわけにはいかないの。法務官殿が悪いわけでもない」
「でも」
「泣かないで。止まっている間にできることはある。乾燥棚の薬草は傷まないように管理しなければならないし、来季の採取計画も立てておきたい」
リーゼルが袖で目を拭いた。
トーマス村長が杖を突いて歩み寄った。
「ヴィオレッタさん。村としてできることがあれば言ってくれ」
「ありがとうございます、村長。今は待つしかありません」
村長は頷き、リーゼルの肩にぽんと手を置いてから、広場のほうへ戻っていった。
その夜、工房の裏手で一人、空を見上げていた。
聖女マリエルの告発。
三年前に私を断罪した女が、三年後にまた手を伸ばしてきた。
理由はわかる。帝都で薬草茶の評判が広がれば、薬草療法の価値が認められる。魔法治癒の下位互換とされてきたものが、実は補完的な役割を持つと知られれば、聖女の治癒実績の意味が相対的に薄れる。
マリエルにとって、それは脅威だ。
宰相が神殿に監査を申し入れたことも、彼女の耳に入っているはずだ。追い詰められていると感じて、先に手を打ったのだろう。
私に向けられた告発だが、狙いは私ではなくレナードかもしれない。宰相が推進する辺境薬草茶の流通を潰せば、監査の正当性にも傷がつく。
考えてもどうにもならなかった。
ただ、一つだけわかっていることがある。
あの記録帳は嘘をつかない。三年分の数字と日付と成分の記録は、どんな検証にも耐える。
それを信じるしかなかった。
十日ほど経った頃、村長が一通の書簡を持ってきた。
「帝都から、馬の早便で届いた。宰相府の印じゃ」
封を切った。
公的な文書だった。宰相権限で法務院に対し「告発内容の事実検証を優先的に実施すること」を命じる旨の写しが同封されている。
同時に、神殿監査の進捗を示す報告書の一部が添えられていた。聖女マリエルの治癒実績に複数の不審点が確認されつつある、との記述があった。
そしてもう一枚。
公印のない紙に、一行だけ。
「あなたの茶を、待っている人がいます」
私はその一行を読んで、しばらく動けなかった。
また、助けられている。
一人で立っていたかった。自分の力で、自分の工房を守りたかった。
それなのに、この手紙が届くたびに、胸の奥が温かくなる。
苛立ちと安堵が同時に押し寄せて、どちらの名前も呼べなかった。
書簡を棚にしまい、竈の前に座った。
火は入れられない。営業停止中だ。
冷えた竈を見つめながら、エプロンの内側にしまったままの一筆に、指先だけで触れた。




