第6話「届かぬ手紙」
レナードが発って二十日が経った頃、帝都から一通の書簡が届いた。
宰相府の公印が押された封筒の中に、薄い紙が三枚。
一枚目は、辺境薬草茶の流通整備に関する公文書だった。宰相府の管轄で帝都の商会二社と契約を結び、ラーゼン村からの定期買い付けを行う旨が記されている。品質管理の基準は翠風堂の工房主が定めるものとし、初回の納品数量と単価が具体的な数字で提示されていた。
二枚目は、顧問契約の書式だった。まだ白紙のままで、署名欄が空いている。
三枚目には、短い一文だけが書かれていた。
「あなたの答えを、急かすつもりはありません」
公印のない、私的な一筆。レナードの筆跡だった。
私は三枚の紙を工房の作業台に並べ、しばらく眺めた。
流通整備の内容は実務的で、抜け目がなかった。商会の選定は帝都で信用の高い老舗二社。買い付け価格は辺境の相場よりやや高く設定されている。翠風堂が値下げ圧力を受けない仕組みだ。
あの五日間で、レナードは工房の生産能力と品目を正確に把握していた。この書類は、その観察に基づいて作られている。
私は三枚目の一筆だけを折り、エプロンの内側にしまった。残りの二枚は棚の上に置いた。
同じ頃、帝都でも動きがあったらしい。
それを知ったのは、数日後に村を訪れた行商人の口からだった。
「帝都じゃ聖女様の治癒のことで、ちょっとした噂になってますよ」
行商人のグスタフは月に一度、辺境の村々を回る男だ。翠風堂の茶を気に入って、毎回まとまった量を仕入れていく。
「噂、ですか」
「ええ。宰相閣下が神殿に監査を申し入れたとか。聖女様の治癒実績を調べるんだそうで」
私は茶葉の袋を計りながら、手を止めなかった。
レナードが動いている。 断罪記録の調査だけではなく、聖女マリエルの側にも手を伸ばしている。
宰相には神殿に対する監査申し入れの権限がある。それは公務として正当な行為だ。
「村のお嬢さんも気をつけなさいよ。帝都がざわつくと、辺境にも影響が出ることがありますからね」
グスタフがそう言い残して、次の村へ向かった。
私は工房の戸口に立って、行商人の荷馬車が遠ざかるのを見送った。
帝都の空気が、少しずつ動き始めている。 その空気はいずれ、ここにも届く。
けれど今、考えるべきことは別にあった。
作業台の上に戻した注文書を、もう一度見た。
初回の納品量は、翠風堂の現在の生産能力をやや超えている。私一人とリーゼルの二人では、品質を維持したまま間に合わせるのは難しい。
「師匠、やっぱりこの量は二人じゃ無理ですよね」
翌朝、リーゼルが注文書を覗き込みながら言った。
「ええ。調合と煎じは私がやるけれど、薬草の採取と選別と乾燥の工程が追いつかない」
「村のおばさんたち、手伝ってくれないかな。あたしが聞いてみましょうか」
リーゼルの提案は理に適っていた。
薬草の採取場所は村の女性たちのほうがよく知っている。選別と乾燥の手順も、教えれば覚えられる内容だ。調合と煎じの最終工程だけ私が管理すれば、品質は保てる。
「お願いしていいかしら。ただし、最初に選別の基準をきちんと教えるから、それを覚えてもらうまでは私も一緒に入るわ」
「はいっ。あたしが声かけてきます」
リーゼルが飛び出していった。
私は工房に残り、選別の基準書を書き始めた。
葉の色、茎の太さ、香りの強さ。それぞれの薬草ごとに使える部位と捨てる部位を明確に分け、誰が見てもわかるように図を添えた。
書きながら、ふと手が止まった。
これは、一人でやる仕事ではなくなっている。
三年間、私は翠風堂を一人の工房として守ってきた。リーゼルが手伝いに来るようになっても、核心の部分は自分一人で抱え続けた。
それが変わろうとしている。
村の女性たちに手順を教えるということは、この茶が「私の茶」ではなく「村の茶」になるということだ。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、リーゼルの「あたしが声かけてきます」という弾んだ声を思い出すと、止める気にはなれなかった。
三日後、村の女性四人が翠風堂に集まった。
最初は戸惑いもあった。
「ヴィオレッタさん、この葉っぱとこの葉っぱ、どこが違うんです」
「色を見てください。こちらは裏に白い産毛がある。こちらはない。産毛がある方がトウキの若葉で、こちらは別の草です」
「へえ。言われると確かに違うねえ」
手を動かしながら教えた。声で説明し、実物を見せ、触らせた。
選別作業が進むにつれて、女性たちの手つきが安定していった。
「あんた、ずいぶん丁寧に教えるねえ」
年長の女性がそう言った。
「仕事ですから」
「いやいや、仕事にしたって。どこかで人にものを教えたことがあるんじゃないかい」
私は笑って受け流した。
公爵令嬢時代、社交の場で年少の令嬢たちに茶の作法を教えたことがある。あの頃の癖が出ているのかもしれない。
だが、追及はされなかった。
トーマス村長が事前に何か言ってくれたのか、あるいは辺境の人々が持つ素朴な距離感なのか。誰も私の過去を掘らなかった。
村ぐるみの生産体制が形になり始めた頃、ある考えが浮かんだ。
私は工房の棚から白紙の顧問契約書を下ろし、作業台に広げた。
レナードが置いていった選択肢。名誉回復とは別の、実利の道。
注文を受けた。村の女性たちが動き始めた。翠風堂は個人の工房から、村の産業へと変わりつつある。
この流れを安定させるためには、宰相府との公的な接点が必要になる。品質保証の公的裏付け。流通における法的保護。個人の工房主では持てない信用を、顧問契約が補う。
自分のためではない。
この村のために。
「私がいなくなっても回る仕組み」を作るために。
……本当にそれだけだろうか。
エプロンの内側に、三枚目の一筆がまだ入っている。
「あなたの答えを、急かすつもりはありません」
あの筆跡を思い出すたび、胸の奥が微かに温かくなるのを、私は気づいていた。
気づいていて、名前をつけないようにしていた。
夕暮れ、工房の片付けをしていると、リーゼルが駆け込んできた。
「師匠、聞きました。帝都の社交界で、辺境の薬草茶のことが噂になってるみたいです」
「どこで聞いたの」
「さっき村に寄った旅商人が話してました。宰相閣下がお気に入りの茶があるとかで、貴族の間で話題になってるって」
宰相のお気に入り。
その言葉が広まれば、帝都の目がこの村に集まる。
レナードは流通を整備しただけだ。意図して噂を流したわけではないだろう。だが、宰相が辺境を視察し、その後に薬草茶の公的流通が始まれば、人は勝手に繋げて語る。
「……そう」
「師匠、大丈夫ですか」
「大丈夫よ」
今度は嘘ではなかった。
帝都と繋がることが怖くないわけではない。
けれど、目の前に村の女性たちが選別した薬草の束がある。リーゼルが採ってきたトウキの根がある。明日の朝に火を入れる竈がある。
守るものが増えた分だけ、怖がっている暇がなくなった。
窓の外に、辺境の夕空が広がっていた。
帝都との距離は馬車で十日。
その距離の向こうで、この茶の噂が誰の耳に届いているのか。
私には知る術がない。
けれど、竈に火を入れる手だけは止めない。
それが今の私にできる、唯一の答えだった。




