第10話「続く朝」
翠風堂の朝は、竈の火から始まる。
馬車を降りたのは、夜明け前だった。山あいの谷に朝靄が残っている。街道から脇道に入り、坂を上ると、翠風堂の屋根が見えた。煙突から薄い煙が上がっていた。
リーゼルが、もう火を入れている。
戸を開けた。
竈の前にリーゼルが立っていた。鍋に水を注いでいる。振り返った顔に驚きはなかった。グスタフから到着の日を聞いていたのだろう。
「おかえりなさい、師匠」
「ただいま」
いつもの挨拶。いつもの声。いつもの竈の音。
けれど、今日の翠風堂には、いつもと違うものがあった。
調合台の上に、薬草の束が並んでいる。乾燥前の、摘みたての薬草。小さな手で摘んだような、不揃いの束。翠風堂の薬草畑から採ったものではなかった。野の草に混じって、タンポポの葉やオオバコが入っている。
「リーゼル、これは」
「村の子に薬草の見分け方を教え始めました」
リーゼルが鍋の火加減を確認しながら言った。
「あたしが師匠に教わったように」
調合台の上の薬草の束を見た。五つ。五人の子どもが摘んできたのだろう。束ごとに大きさが違う。結び方もばらばらだった。けれど、どの束にも食用にならない草は混じっていなかった。毒草もない。
見分け方を、正しく教えている。
「昨日も来ました。今日は午後に来る予定です」
リーゼルの声は淡々としていた。特別なことをしている意識はないのだろう。師匠がいない間に、自分にできることをしただけ。翠風堂を回し、注文に応え、そして、次の世代に手を差し伸べた。
鞄を下ろした。調合日誌、管理所の運営指針の写し、監督顧問の任命書の控え。そしてリーゼルの便箋。
「リーゼル」
「はい」
「監督顧問、受けてきました」
「知ってます。グスタフさんが教えてくれました」
リーゼルは振り返らなかった。鍋の湯の温度を手で測っている。
「師匠、湯が六十度です」
「ありがとう」
鞄を棚に置き、竈の前に立った。リーゼルの隣。いつもの場所。
「茶を淹れましょう。何にしますか」
「新しい配合を試したんです。カミツレの花の比率を少し変えました。飲んでみてください」
リーゼルが乾燥棚から薬草を取った。トウキの根。カミツレの花。いつもの配合。けれど、カミツレの花が少しだけ多い。
「トウキの根六、カミツレの花四。前は七と三でした。カミツレを増やした方が、香りが柔らかくなるかと思って」
リーゼルが薬草を砕き、湯に入れた。六十度。手順は正確だった。
湯気が立った。トウキの温かい香りの中に、カミツレの花の甘さがいつもより強く漂っている。
茶碗に注がれた液体を受け取った。一口含んだ。
トウキの根の深い味が舌の奥に広がり、その後をカミツレの花の柔らかさが追いかけてくる。前の配合よりも、口当たりが丸い。苦みが和らいでいる。
「美味しい」
いつもの一言。けれど、その一言の中に、全てがあった。
リーゼルが少しだけ口の端を上げた。
「よかった」
私も自分の分を淹れた。同じ配合。リーゼルの新しい比率で。二人で竈の前に立ち、茶碗を手に持った。
調合台の上の薬草の束が目に入った。五つの不揃いな束。村の子どもたちが摘んできた薬草。
「教えることは、一番の勉強です」
リーゼルに言った。
リーゼルが少し首を傾げた。
「師匠も、そうでしたか」
「ええ。あなたに教えることで、私は自分の知識を整理できました。教本に書いてあることと、実際に手を動かして分かることは違う。それを言葉にして伝える作業が、自分自身の理解を深めてくれた」
リーゼルは黙って聞いていた。茶碗を両手で包み、湯気の向こうから私を見ていた。
「あなたが次の誰かに教える時も、きっと同じことが起きます」
「もう起きてます」
リーゼルが言った。
「昨日、村の子にタンポポとニガナの見分け方を教えました。葉の形が似てるんですけど、茎を折った時の乳液の量が違うんです。あたし、そのことを師匠に教わった時はなんとなく覚えただけでした。でも、子どもに説明しようとしたら、ちゃんと言葉にしないと伝わらなくて」
「それです」
リーゼルが小さく笑った。
竈の火が落ち着いてきた頃、戸口から光が差し込んだ。
朝靄が晴れ始めていた。谷間に朝日が届き、薬草畑の緑が光を受けて輝いている。
三年前を思い出した。
断罪されてこの村に来た日。銀貨四枚で鍋を買った。トウキの根三束で最初の茶を煎じた。六十度を超えて有効成分を壊した。あの朝も、この竈の前に立っていた。
そこから全てが始まった。
調合日誌に毎日の記録を書いた。乾燥温度を管理した。配合を試し、失敗し、修正した。リーゼルが来て、弟子になり、共同運営者になった。帝都に行き、法案を作り、議会で答弁した。皇帝の前で署名した。監督顧問になった。
今、帝国の法律になった記録。皇帝に認められた茶。宰相と並ぶ名前。そして、リーゼルが次の誰かに教え始めている。
自分が作ったものが、自分の手を離れて続いていく。
その実感が、茶碗の温もりと一緒に手のひらに広がった。
戸口に立って、外を見た。朝日が谷間を照らしている。薬草畑の向こうに、村の屋根が並んでいる。
グスタフの荷馬車が坂を上ってくるのが見えた。定期便。
「師匠、便が来ます」
リーゼルが竈の前から声をかけた。
グスタフが荷馬車を止め、荷台から包みを一つ下ろした。
「ヴィオレッタさん、おかえり。宰相府からです」
書簡だった。封蝋に宰相府の紋章。
封を切った。
レナードの字。整った、無駄のない筆跡。
ヴィオレッタへ。
婚礼の日程が決まりました。詳細は追って正式に通知します。
翠風堂で、あなたの茶を飲みに参ります。
レナード
書簡を折り、鞄に入れた。
竈の前に戻った。リーゼルが乾燥棚の薬草を整理している。
「師匠、今日はどの茶を淹れますか」
「呼吸の茶を。薄荷と菩提樹の花。水は六十度」
リーゼルが頷き、乾燥棚から薬草を取った。
二人で並んで竈の前に立った。
翠風堂の朝は続いている。昨日も、今日も、明日も。
断罪された日から始まった道が、ここに繋がっている。けれど、道はここで終わらない。
調合台の上に、五つの薬草の束がある。村の子どもたちが摘んできた、不揃いな束。リーゼルが教え、子どもたちが学び、翠風堂の朝はさらに続いていく。
竈の火が、静かに燃えていた。
薄荷の清涼感が鼻の奥を通り、菩提樹の花の柔らかい香りがその後を追う。
全ての朝は、この竈の前から始まる。
(完)
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