第5話「名を呼ぶ夜」
信じていいのだろうか、この人を。
滞在最終日の夜だった。
リーゼルは日没前に帰した。明日の採取の準備があるからと伝えたが、本当の理由は別にある。今夜の会話を、あの子に聞かせたくなかった。
何の会話になるのか、まだわからない。 けれど、レナードがこの五日間で積み上げてきたものが、今夜どこかに着地する。その予感だけはあった。
工房の竈に火を入れた。 最後の茶を淹れる準備をしながら、窓の外を見た。辺境の夜空は深い。星が近い。帝都の空とは違う。
戸口を叩く音がした。
「どうぞ」
レナードが入ってきた。
いつもの濃紺の外套。護衛騎士の二人は今夜も外にいる。工房の中は私とレナードの二人だけだ。
「最終日ですね」
「ええ。明朝、発ちます」
レナードは壁際の椅子に腰を下ろした。五日間で、その椅子はすっかり彼の定位置になっていた。
私は湯を沸かし、トウキの温茶を淹れた。 初日に出したものと同じ配合。旅の疲れに効く、身体を温める茶。
杯を差し出すと、レナードが両手で受け取った。一口含み、目を閉じた。
「やはり、美味い」
「ありがとうございます」
しばらく、茶を飲む音だけが工房に満ちた。
竈の火が小さく爆ぜる。乾燥棚の薬草が夜風に揺れる。
レナードが杯を膝の上に置いた。
「一つだけ、正直に答えていただきたいことがあります」
来た、と思った。
身体の奥が冷えるのを感じながら、私は竈の前に立ったままレナードを見た。
「あなたは、ルーゼン公爵家の——」
言葉が途中で止まった。 問いかけの形ではなかった。確認だった。
私は何も言わなかった。
否定しなかった。
長い沈黙が落ちた。
竈の火が揺れ、私の影が壁に伸びた。
「……三年前に終わった話です」
それだけ答えた。
レナードは頷いた。驚いた様子はなかった。最初から答えを知っていて、私の口から聞くことだけを待っていた。そういう顔だった。
「私の名はレナード・ヴァイスフェルト。帝国宰相を務めております」
空気が変わった。
視察官レナード。その肩書きの裏にあったものが、今、一枚めくられた。
宰相。 帝国において皇帝に次ぐ行政権限を持つ人間。
五日間、辺境の薬草茶工房に通い詰めていたのが、帝国宰相だった。
「……なぜ」
声が掠れた。
「三年前の断罪記録を調査する中で、手続きに重大な瑕疵があることを確認しました」
レナードの声は静かだった。宰相としての公務の口調に戻っている。
「宮廷裁判に必要な法務院の事前審査が行われていません。証拠の提出も、証人の宣誓も、弁明の機会の保障も、正規の手順を踏んだ形跡がない。皇太子殿下の権威によって手続きが省略され、法務院が事後追認した形です。陛下への事前の上奏もなく、皇太子殿下の独断で進められたものと見られます」
「……それは」
「法的に言えば、あなたの断罪は無効を主張できる手続き的根拠があります。名誉回復の申立ても可能です」
名誉回復。
その言葉が、工房の空気の中で浮いた。
「要りません」
私は即答した。
レナードの目が、わずかに動いた。
「名誉回復をすれば、裁判のやり直しが必要です。証人が呼ばれ、記録が掘り返され、私の名前が帝都中に知れ渡ります」
声は落ち着いていた。自分でも意外なほどに。
「あの場所に戻る理由がありません。今の生活を壊されたくないのです」
レナードは黙って聞いていた。
「三年かけて、ここに根を下ろしました。工房があり、助手がいて、村の人たちが茶を買いに来てくれる。それで十分です」
「あなたは不当な扱いを受けた。それを正すことは——」
「正義の話をしているのではありません」
私の声が、少しだけ強くなった。
「レナード殿にとっては法の不備を正すことが正義でしょう。けれど私にとっては、今ここにある暮らしを守ることが最も大切なのです」
レナードが口を閉じた。
沈黙の中で、竈の火だけが音を立てていた。
私は自分の言葉の強さに気づいて、息を整えた。宰相に対してこの口調は、本来許されるものではない。
「失礼いたしました。言い過ぎました」
「いいえ。あなたの言葉は正当です」
レナードが静かに言った。
「強制するつもりはありません。名誉回復の件は、あなたが望まない限り動かしません」
そう言って、レナードは膝の上の杯に目を落とした。
間があった。
「一つ、別の提案があります」
顔を上げたレナードの目は、宰相の目だった。 だが、そこにあるのは権力の重みではなく、別の何かだった。
「辺境薬草茶の帝都流通を、公務として整備したいと考えています。宰相府の管轄で流通経路を確保し、品質を保証する仕組みを作る。そのために、あなたとの間に顧問契約を結びたい」
「顧問契約」
「名誉回復とは別の話です。あなたの身元は問いません。辺境の工房主として、薬草茶の調合と品質管理に関する助言を宰相府に提供していただく。報酬は公費から支出します。あなたの生活基盤を強化する実利的な手段です」
名誉でも正義でもなく、実利。
この男は、私が何を怖がっているかを理解した上で、別の道を差し出している。
「工房はここに残ります。帝都に出る必要もありません。ただ、流通が安定すれば、この村全体の収入にもなる」
「……村のため、ですか」
「あなたのためです」
レナードの声が、一瞬だけ公務の調子を外れた。
すぐに戻った。けれど、私はその一瞬を聞き逃さなかった。
「考えさせてください」
それが、今の私に出せる精一杯の答えだった。
レナードは頷いた。
「あなたの答えを待ちます」
杯の茶を最後まで飲み干し、レナードが立ち上がった。
一礼して、戸口へ向かう。
「レナード殿」
呼び止めたのは、考えるより先だった。
レナードが振り返った。
「五日間、ありがとうございました。あなたの質問のおかげで、私は自分の仕事を言葉にすることができました」
言ってから、これは本心だと気づいた。
レナードの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「こちらこそ。よい茶でした」
戸口が閉まった。
工房に私一人が残された。
翌朝。
空は晴れていた。
私は工房の門の前に立っていた。
三年間、この門から誰かを見送ったことはない。村人が通りかかれば挨拶はするが、見送るために門の外に立つことはなかった。
馬車が村の広場に停まっている。護衛騎士の二人が馬の準備をしていた。
レナードが村長のトーマスと最後の挨拶を交わし、こちらに歩いてきた。
「お達者で、ヴィオレッタ殿」
「お気をつけて、レナード殿。帝都までの道中、お身体を冷やされませんよう」
「あなたの茶のおかげで、この五日間は辺境の冬とは思えないほど温かかった」
それだけ言って、レナードは一礼した。
背を向け、馬車に向かって歩き出す。
私はその背中を見ていた。
門の外に立っている自分の足を見下ろした。
一歩、敷居の外に出ている。
三年間、越えなかった線を越えていた。
馬車が動き出し、ゆっくりと村道を遠ざかっていく。
車輪の音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。
門の前に、朝の風が吹いた。
工房に戻ろうと振り返った時、乾燥棚の薬草の匂いが鼻をかすめた。
いつもと同じ匂いだった。
けれど工房の中が、五日前より少しだけ広く感じた。




