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【第5章完結!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第5章

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第9話「工房の答え」

「師匠、受けてください」


リーゼルの字が、便箋の上で少し右に傾いていた。


グスタフの定期便が届いたのは、書簡を出してから六日目の朝だった。宰相府本館の部屋で、封を切った。


リーゼルの字。元気な字。翠風堂の帳簿に毎日書いている、あの少し右に傾く筆跡。


師匠へ。


お手紙、読みました。皇帝陛下から監督顧問の任命を提案されたとのこと、すごいことだと思います。


あたしの意見を書きます。


師匠、受けてください。


あたしは翠風堂を守れます。師匠がいない間も、あたしが工房を回します。前と同じです。


でも、前と同じじゃないです。


あたしには自分の配合があります。トウキの根七、カミツレの花三。あたしが考えて、あたしが試して、師匠に認めてもらった配合です。帳簿にあたしの名前で載っています。


あたしの翠風堂があります。


だから、師匠は師匠の仕事をしてください。


管理所のことは、師匠じゃないとできない仕事です。翠風堂のことは、あたしにもできます。両方やればいいと思います。師匠はずっとそうしてきたじゃないですか。


トウキの根の在庫は十四束です。カミツレの乾燥花は九袋。次の仕入れは八日後。村長さんの膝の茶は先週届けました。東の集落の冷え性の注文も対応済みです。


心配しないでください。


帰ってきたら、新しい茶を淹れます。今度はカミツレの花の比率を少し変えてみようと思っています。


リーゼルより


便箋を、机の上に置いた。


二度、読み返した。


リーゼルの声が聞こえるようだった。あの工房で、竈の前に立って、少し得意そうに報告する声。在庫の数字を正確に言い、注文の対応状況を淀みなく伝える声。


「あたしの翠風堂があります」


その一文を、もう一度読んだ。


翠風堂は「あなたと私の工房」だった。リーゼルにそう言ったのは、辺境に帰還した日の朝だった。リーゼルの新配合を帳簿に記録し、署名を並べた日。


あの日からまだ数週間しか経っていない。けれど、リーゼルの言葉は変わっていた。「あなたと私の工房」から「あたしの翠風堂」へ。


それは離反ではなかった。


成長だった。


師匠の工房を共に守る弟子から、自分の工房を持つ調合師へ。リーゼルの中で、翠風堂が自分のものになっていた。


その変化が、私の手を解き放つ。


リーゼルが翠風堂を「あたしの翠風堂」と呼べるなら、私は翠風堂の外に出ても、工房は続く。リーゼルの手で。リーゼルの配合で。リーゼルの帳簿で。


便箋を丁寧に折り、封筒に戻した。鞄の中の調合日誌の隣に入れた。


午後、皇帝の執務室に出向いた。


ハインツの案内で、署名の日と同じ回廊を歩いた。近衛兵が扉を開け、執務室に通された。


皇帝ヴィルヘルムが机の奥に座っていた。法務官が脇に控えている。


一礼した。


「帝国公認辺境薬草顧問、ヴィオレッタ・ルーゼンです。陛下のご提案について、お返事に参りました」


皇帝が頷いた。


「聞こう」


「監督顧問の任命をお受けいたします」


皇帝の表情は変わらなかった。けれど、目の奥にわずかな光があった。


「ただし、一つお願いがございます」


「申せ」


「翠風堂の工房主は継続いたします。辺境と帝都の二拠点で務めることをお許しください。管理所の監査は各地を巡回する形で行い、拠点は辺境の翠風堂に置きたいと存じます」


皇帝は一つ間を置いた。


「それでよい」


低く、落ち着いた声だった。


「余はそのつもりで提案した」


その言葉に、少しだけ驚いた。


皇帝は最初から、翠風堂との両立を前提にしていた。辺境の工房を捨てて帝都に来いという提案ではなかった。工房を持ったまま、帝国の制度を動かせという提案だった。


「法務官」


皇帝が法務官に向いた。


「任命の手続きを進めよ。帝国薬草監督顧問、ヴィオレッタ・ルーゼン。管轄は独立。帝国議会への直接報告義務を付す。拠点は辺境に置くことを許可する」


「承知いたしました」


法務官が記録を取った。


「ヴィオレッタ殿」


皇帝が再び私を見た。


「余がきみの茶を初めて飲んだのは、宰相が持参した一杯だった。眠れぬ夜に、あの茶が効いた。それが全ての始まりだ」


皇帝の声に、ほんのわずかな柔らかさがあった。公式の場の声ではなかった。


「きみの茶が帝国の制度になった。きみの記録が帝国の基準になった。それを見届けるのは、きみの仕事だ」


「はい、陛下」


一礼した。深く、長く。


「下がってよい」


執務室を出た。


回廊を歩いた。


ハインツが後ろに控えている。午後の光が石壁に当たり、淡い影を作っていた。


監督顧問。


帝国薬草監督顧問、ヴィオレッタ・ルーゼン。


三つ目の肩書が加わった。帝国公認辺境薬草顧問。帝国宰相の婚約者。そして、帝国薬草監督顧問。


全て、同じ名前の上に重なっている。


断罪された日に残ったのは、平民としての名前だけだった。その名前に、一つずつ、仕事が積み重なっていった。翠風堂の工房主。薬草顧問。婚約者。監督顧問。


名前は変わっていない。ヴィオレッタ・ルーゼン。三年前と同じ名前。


けれど、その名前が届く場所が変わった。


辺境の谷間の村から、帝国の記録へ。


リーゼルの便箋が鞄の中にある。「師匠は師匠の仕事をしてください」。あの言葉が、背中を押した。


帝都での公務はもう少し続く。監督顧問の任命手続き、管理所の運営指針の最終確認。


それが終われば、辺境に帰る。


翠風堂に帰る。


リーゼルが新しい配合を試していると書いていた。カミツレの花の比率を変えるのだと。


帰ったら、その茶を飲もう。


回廊の窓から、帝都の空が見えた。午後の雲が薄く流れている。


帝都と辺境。二つの場所を結ぶ道は、もう何度も歩いた。これからも歩く。


けれど、道の先には必ず翠風堂がある。竈の火と、乾燥棚の薬草と、リーゼルの声がある。


それが、変わらないものだった。

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