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【第5章完結!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第5章

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第8話「二つの名前」

署名の翌朝、机の前に座った。


宰相府本館の部屋。窓から朝の光が差し込んでいる。机の上には調合日誌、リーゼルの配合記録、管理所の運営指針の写し。そして、昨日の署名式で法務官が渡してくれた婚約書の控えが一通。


婚約書の控えを開いた。


レナード・ヴァイスフェルト。ヴィオレッタ・ルーゼン。二つの署名が並んでいる。インクは乾き、羊皮紙に染み込んでいた。


婚約は成立した。帝国の記録に刻まれた。


けれど、昨日はもう一つ、問いが投げかけられた。


監督顧問。


帝国の薬草管理体制全体の監督権限を持つ役職。各地の管理所の品質基準、訓練制度、認定工房の審査を統括し、帝国議会に直接報告する。現在の薬草顧問の職務を拡張する形。


皇帝の言葉を思い返した。「受けるかどうかは、きみが決めよ」。


婚約書の控えを閉じ、机の端に置いた。


監督顧問を受ければ、帝都での公務がさらに増える。管理所は帝国各地に設置される。品質基準の運用状況を確認し、訓練制度の実施を監督し、認定工房の審査基準を維持する。それは辺境の翠風堂にいるだけではできない仕事だった。


帝都と辺境の往復が、今以上に増える。


翠風堂を留守にする期間が長くなる。


リーゼルへの負担が増える。


けれど。


管理所の運営指針は、私の提言を基に作られた。品質基準は翠風堂の三年間の記録から生まれた。二段階訓練制度は、リーゼルに教えた経験から提案した。


法を作った。指針を作った。


それを動かす責任は、誰が負うのか。


法を作った人間が、法を動かす責任から逃げてよいのか。


その問いが、朝からずっと頭の中にあった。


午後、レナードが部屋を訪ねてきた。


公務の合間だった。宰相の執務服のまま、書類を一つも持たずに来た。


「少し時間がある」


「入ってください」


茶を淹れた。昨夜と同じ呼吸の茶ではなく、リーゼルの新配合を使った。トウキの根とカミツレの花。煎じ温度六十度。リーゼルが「帝都の人にも飲んでもらってください」と持たせてくれた茶葉。


レナードが一口含み、少し目を細めた。


「リーゼルの配合ですか」


「ええ。トウキの根七、カミツレの花三。リーゼルが自分で比率を決めました」


「よい茶です」


レナードが茶碗を両手で持ったまま、窓の方を見た。


「陛下の提案について、考えていますか」


「はい」


隠す必要はなかった。


「あなたはどう思いますか」


レナードは茶碗を机に置いた。


「私の意見は、きみの判断に影響を与えるべきではない」


宰相としての言葉だった。顧問職は宰相府から独立した管轄にある。監督顧問も同じ独立管轄になるだろう。宰相が顧問の人事に口を出せば、制度上の独立が損なわれる。


「ただ」


レナードは続けた。


「制度上の説明はできる」


「聞かせてください」


「監督顧問は皇帝直属の任命職になる。帝国議会への報告義務があるが、議会の指揮下には入らない。管理所の運営に対する監査権を持ち、品質基準の改定を提案できる。任期は設定されていない。辞任は本人の意志による」


制度の言葉。正確で、感情を含まない説明。


「勤務地は」


「帝都に常駐する義務はない。管理所の監査は各地を巡回する形になるが、拠点をどこに置くかは監督顧問の裁量に委ねられる」


「辺境に拠点を置くことも可能ですか」


「制度上は可能です。翠風堂を拠点としながら、定期的に帝都に出仕し、必要に応じて各地の管理所を巡回する形は、法的に問題ありません」


レナードはそこで言葉を切った。


制度上の説明が終わったという意味だった。それ以上は、私の判断に委ねるという姿勢。


「ありがとうございます」


レナードが立ち上がった。


「きみが決めたことを、私は制度で支える。それが私の役割です」


扉に向かいかけて、一度だけ振り返った。


「リーゼルの茶は、本当によい茶でした」


扉が閉まった。


一人になった。


机の上に、婚約書の控えと管理所の運営指針の写しが並んでいる。


二つの名前。


婚約書に刻まれたヴィオレッタ・ルーゼンは、レナードの婚約者としての名前。


監督顧問に就任すれば、もう一つのヴィオレッタ・ルーゼンが帝国の記録に加わる。帝国薬草監督顧問としての名前。


そして翠風堂の帳簿には、工房主としてのヴィオレッタ・ルーゼンがある。


三つの名前。全て同じ名前。全て同じ人間。


けれど、一人でその全てを担えるのか。


一人で決められることと、一人で決めてはいけないことがある。


翠風堂は「あなたと私の工房」だから。


机の引き出しから便箋を取り出した。ペンを取り、インク壺を開けた。


リーゼルへ。


皇帝陛下から、帝国の薬草管理体制の監督顧問に任命したいとの提案がありました。受ければ、帝都での公務が増えます。各地の管理所を巡回する仕事も加わります。翠風堂を留守にする期間が、今までよりも長くなるかもしれません。


あなたの意見を聞かせてください。


翠風堂は、あなたと私の工房です。私一人で決めてよいことではありません。


ヴィオレッタ


書き終えた。


インクが乾くのを待ちながら、窓の外を見た。帝都の午後の空。雲が薄く流れている。


この書簡は明日の便でグスタフに託す。辺境まで三日。リーゼルの返書が届くまで、さらに三日。


その間に、管理所の運営指針の最終版を確認しておこう。


机の上の運営指針の写しを開いた。


品質基準の項。翠風堂の記録を基に策定された基準が並んでいる。乾燥温度、保存期間、配合比率の許容範囲。全て、私が三年間記録してきた数字だった。


訓練制度の項。二段階訓練制度の概要。学院での基礎課程三ヶ月、認定工房での実地訓練三ヶ月。翠風堂が認定工房の第一号になる見通し。


認定工房の審査基準の項。品質管理記録の保持、訓練生の受け入れ体制、定期的な監査への対応。


これらの制度が、帝国全土で動き始める。


動かすには、誰かが見守る必要がある。基準が形骸化しないように。訓練が実質を伴うように。認定工房が名ばかりにならないように。


その「誰か」になれるのは、制度の基盤を作った人間だけかもしれなかった。


運営指針を閉じた。


リーゼルからの返書を待とう。


便箋を封筒に入れ、封をした。机の端に置いた。


窓の外で、帝都の鐘が午後の四つを告げた。


リーゼルの答えが届くまで、自分にできることをする。それが翠風堂で学んだやり方だった。

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