第7話「署名の日」
帝都の鐘が、朝の二つを告げた。
澄んだ音が石壁に反響し、窓の隙間から部屋に入ってきた。空は晴れていた。冬の朝の光が、宰相府本館の廊下を白く照らしている。
机の上に調合日誌が置いてある。昨夜、眠る前に閉じたまま。その隣に、リーゼルの茶葉の包みがあった。帝都の人にも飲んでもらってください、とリーゼルは言った。
右手の甲を見た。昨夜の温度は、もう消えていた。けれど、記憶は残っている。
廊下から足音が聞こえた。
「ヴィオレッタ殿、お迎えに上がりました」
ハインツの声だった。
扉を開けると、ハインツが正装で立っていた。護衛騎士の礼服。胸の紋章が磨かれている。
「宰相閣下は、既に陛下の執務室に向かわれています。ヴィオレッタ殿をご案内いたします」
「お願いします」
廊下を歩いた。宰相府本館から皇帝の執務棟へ。石造りの回廊を渡り、中庭を横切り、重い扉の前に出た。
扉の両側に近衛兵が立っていた。ハインツが名を告げ、近衛兵が扉を開けた。
皇帝の執務室。
広い部屋だった。高い天井。壁には帝国の紋章が刻まれた大きな盾が掛かっている。窓は三つ。朝の光が斜めに差し込み、床の石に白い帯を作っていた。
部屋の中央に、長机が一つ。
机の奥に、皇帝ヴィルヘルムが座っていた。
白髪交じりの髭。深い色の執務服。背筋が伸びている。五十八歳の帝国の頂点は、署名の朝にも日常と変わらぬ佇まいだった。
机の右手にレナードが立っていた。宰相の正式な礼服。濃紺に銀の縁取り。いつもの執務服より襟が高く、肩章がある。表情は落ち着いていた。
机の左手に法務官が立っていた。手元に書類を携えている。
ハインツが扉の内側に控えた。
私は部屋の中央に進み、皇帝の前で一礼した。
「帝国公認辺境薬草顧問、ヴィオレッタ・ルーゼン、参上いたしました」
「よい」
皇帝の声は低く、落ち着いていた。
「近う寄れ」
机の前まで進んだ。レナードの隣に立つ形になった。
法務官が書類を机の上に広げた。
婚約書。
羊皮紙に帝国の正式な書式で記された文書。冒頭に皇帝の紋章。その下に二つの署名欄がある。
法務官が読み上げを始めた。
「帝国法に基づき、帝国宰相レナード・ヴァイスフェルトと帝国公認辺境薬草顧問ヴィオレッタ・ルーゼンの婚約を、皇帝陛下の御前にて正式に署名し、帝国記録として保管するものとする」
形式的な文言が続いた。法的な条文。婚姻承認の裁定番号。顧問職の管轄独立に関する条項の参照。利益相反が制度上解消されている旨の確認。
法務官が読み上げを終えた。
「署名の前に」
皇帝が口を開いた。
部屋の空気が変わった。法務官が手を止めた。レナードが微かに姿勢を正した。
「ヴィオレッタ殿」
皇帝が私を見た。
「余はこの署名を、帝国の宰相と帝国の薬草顧問の婚約として裁可する」
一度、間を置いた。
「身分の差ではなく、帝国への貢献に基づいて」
その言葉は、私個人に向けられたものであると同時に、この部屋にいる全員への宣言だった。法務官が記録している。ハインツが扉の内側で聞いている。帝国の記録に残る言葉。
「署名を」
皇帝が促した。
法務官がペンとインク壺を差し出した。
レナードが先に署名した。慣れた手つきだった。宰相として無数の書類に署名してきた手。けれど、ペンを置いた後、ほんの一瞬だけ息を整えたのが見えた。
ペンが私に渡された。
手に取った。
三年間、調合日誌に毎日記録をつけてきた手。帳簿に署名してきた手。提言書を書いた手。リーゼルの配合記録を確認した手。昨夜、レナードの口づけを受けた手。
震えなかった。
署名欄に、名前を書いた。
ヴィオレッタ・ルーゼン。
ペンを置いた。
インクが羊皮紙に染み込んでいく。乾くまで数秒。その間、誰も動かなかった。
法務官が婚約書を確認し、頷いた。
「署名を確認いたしました。本婚約書は帝国記録として保管されます」
皇帝が頷いた。
署名が完了した。
婚約が、法的に成立した。
レナード・ヴァイスフェルトとヴィオレッタ・ルーゼン。帝国の記録に、二つの名前が並んだ。
法務官が婚約書を丁寧に巻き、封蝋の準備を始めた。
「もう一つ」
皇帝が再び口を開いた。
法務官の手が止まった。
「法務官から、薬草管理所の運営指針策定会議の報告を受けた」
皇帝の視線が私に向いた。
「きみの提言が施行体制の基盤となったことを、余は評価している。品質基準の策定、二段階訓練制度の提案、認定工房の枠組み。いずれも、三年間の現場の記録に基づいた実務的な提言であった」
皇帝が一つ息を置いた。
「帝国の薬草管理体制の監督顧問として、きみを正式に任命したい」
監督顧問。
「管理所の指針策定に留まらず、運営全体の監督権限を持つ役職だ。各地の管理所の品質基準、訓練制度、認定工房の審査。それらを統括し、帝国議会に直接報告する。現在の薬草顧問の職務を拡張する形になる」
皇帝の目が、静かに私を見ていた。
「受けるかどうかは、きみが決めよ」
部屋が静まった。
法務官が記録のペンを止めている。レナードは動かなかった。昨夜、このことを伝えてくれた時と同じ——判断を私に委ねる姿勢。
署名の直後に、もう一つの問いが投げかけられた。
監督顧問。薬草管理体制全体の監督権限。帝国議会への直接報告。それは、辺境の工房主が担う仕事の範囲を大きく超えている。
けれど、今日この場で即答する必要はなかった。
「陛下」
一礼した。
「大変光栄なお言葉です。考える時間をいただけますか」
皇帝は頷いた。
「よい。急ぐ話ではない。きみの答えを待とう」
法務官が記録を再開した。ハインツが扉の内側で微かに姿勢を変えた。
署名の朝が、静かに終わろうとしていた。
執務室を出ると、回廊に朝の光が満ちていた。
レナードが隣を歩いていた。ハインツが少し後ろに控えている。
「署名、お疲れ様でした」
レナードが言った。公の場を離れた声。宰相ではなく、レナードの声。
「ありがとうございます」
回廊の窓から、帝都の屋根が朝日に照らされているのが見えた。
名前が並んでいる。帝国の記録に。レナード・ヴァイスフェルトとヴィオレッタ・ルーゼン。
そして、もう一つの問いが投げかけられた。
監督顧問。
答えはまだ出ていない。けれど、答えを急ぐ必要もなかった。
考える時間がある。考えるべき相手がいる。
リーゼルに、聞かなければならない。
回廊の先に、宰相府本館の屋根が見えた。朝の光が石壁を白く染めている。
署名の日は、まだ終わっていなかった。




