第6話「前夜の茶」
明日、署名をする。
その一文が、夕方からずっと頭の中にあった。
宰相府本館の部屋。机の上に調合日誌と提言書の写しが並んでいる。管理所の会議は昨日終わった。提言は採用された。やるべき公務は果たした。
残っているのは、明日の署名だけだった。
窓の外で帝都の鐘が鳴った。夕方の六つの鐘。その音が消える前に、廊下から静かな足音が聞こえた。
二度の叩き。
「レナードです」
扉を開けた。
レナードが立っていた。宰相の執務服ではなく、濃紺の上衣に白い襟。公務を終えた後の装いだった。ハインツの姿は廊下の奥にあったが、部屋には入らなかった。
「入ってください」
レナードが部屋に入り、扉が閉まった。
二人きりになった。
「茶を淹れます」
鞄の中から薬草の包みを取り出した。翠風堂から持ってきた薬草。薄荷と菩提樹の花。呼吸の茶。
部屋に備えられた小さな竈に火を入れた。水を鍋に注ぎ、温度を手で測る。六十度。三年間、毎日繰り返してきた手順だった。
薄荷の葉を砕き、菩提樹の花を加えた。湯を注ぐ。薬草の香りが部屋に広がった。
レナードは机の前の椅子に座っていた。調合日誌が目に入ったのだろう、視線を落としたが、手は触れなかった。
「どうぞ」
茶碗を差し出した。レナードが受け取り、一口含んだ。
「いつもの茶ですね」
「ええ。呼吸の茶です」
私も向かいの椅子に座り、自分の茶碗を両手で包んだ。
薄荷の清涼感が鼻の奥を通った。菩提樹の花の柔らかい香りがその後を追う。翠風堂と同じ香り。帝都の部屋にいても、この香りは変わらなかった。
「管理所の会議は、法務官から報告を受けました」
レナードが茶碗を両手で持ったまま言った。
「提言が原案に組み込まれたと。翠風堂が認定工房の第一号になる見通しだと」
「はい。二段階訓練制度が採用されました。学院での基礎課程と、認定工房での実地訓練です」
「きみの三年間が、制度の土台になった」
静かな声だった。評価でも賞賛でもなく、事実を確かめるような口調。
「明日の署名について、一つ伝えておきたいことがあります」
レナードが茶碗を机に置いた。
「陛下から、署名の後に一つ提案があるそうです」
「提案」
「法務官から管理所の会議の報告を受けて、きみの貢献について改めて評価されたと聞いています。詳しい内容は、明日陛下から直接告げられるでしょう」
それ以上は言わなかった。
私も聞かなかった。明日わかることを、今夜急ぐ必要はない。
茶碗の中の液体が、わずかに揺れた。手が震えたのではない。鍋の湯が沸いた時の振動が、机に伝わったのだろう。
「明日、署名をすれば、私は法的にあなたの婚約者になります」
口にした。
声に出して初めて、その言葉の輪郭がはっきりした。
レナードは少し間を置いた。
「きみは既に私の隣にいる。署名は、それを帝国に伝えるだけです」
制度の言葉ではなかった。宰相としての説明でもなかった。レナード個人の言葉だった。
村長の前で「約束します」と言った時と同じ声の温度だった。
窓の外が暗くなっていた。帝都の夜は辺境より明るい。通りの灯りが石壁に反射して、薄い橙色の光が窓から差し込んでいる。
「三年前のことを考えていました」
茶碗を置いた。
「断罪された日のことではなく、翠風堂で最初の茶を煎じた日のことを。六十度を超えて、有効成分を壊してしまった。あの日の私は、宰相の婚約者として皇帝の前に立つことなど、想像もしていませんでした」
「私も、辺境の工房で茶を淹れてもらうことになるとは思っていませんでした」
レナードの声にわずかな笑みが混じった。口元は動かなかったが、声の端が柔らかかった。
「けれど、想像していなかったことが、制度として成立した。きみが記録を積み重ね、私が制度を整え、陛下が裁定された。想像ではなく、手続きの結果です」
手続きの結果。
その言葉に、不思議と温かさがあった。
感情だけで繋がったのではない。記録と制度と手続きの積み重ねの上に、今この場所がある。それは冷たいことではなく、確かなことだった。
茶が冷めかけていた。
私は鍋に残った湯で、もう一杯だけ淹れ直した。同じ配合。薄荷と菩提樹の花。二杯目は少しだけ薄くなる。けれど、香りは残る。
レナードが二杯目を受け取った。
しばらく、黙って茶を飲んだ。
静かだった。帝都の夜の音——遠くの馬車の車輪、衛兵の交代の足音——が、窓の外からかすかに聞こえていた。
茶碗が空になった。
レナードが立ち上がった。
「明日、迎えに来ます。署名は午前の二の刻です」
「はい」
扉に向かいかけて、レナードが足を止めた。
振り返り、私の前に立った。
右手を差し出した。
私は、その手に自分の右手を置いた。
レナードが私の手を持ち上げ、手の甲に、静かに口づけた。
唇が触れた時間は短かった。けれど、その温度は残った。
額への接吻とは違った。あれは、初めて互いの意志を確かめた時のものだった。
今夜のこれは、明日への約束だった。誓いの前夜に交わされる、約束の形。
手を引かなかった。
「明日」
一語だけ言った。
「明日」
レナードが返した。
扉が静かに閉まった。廊下にレナードの足音が遠ざかり、その後にハインツの足音が続いた。
一人になった。
右手の甲を見た。何も残っていない。けれど、温度だけが残っていた。
窓の外で、帝都の鐘が鳴った。夜の九つの鐘。
明日の朝、この鐘が署名の朝を告げる。
手の甲に残る温度が、明日まで消えないでいてほしいと思った。
竈の火を落とし、薬草の包みを鞄に戻した。机の上に調合日誌だけを残した。
明日、名前を刻む。
その前に、今夜はもう少しだけ、この温度を覚えていたかった。




