第3話「村長の言葉」
「村長、お時間をいただけますか」
トーマス村長の家は、翠風堂から村の中心へ向かって少し歩いた場所にあった。石造りの小さな家。庭先に薪が積まれ、軒下に干し草が吊るされている。
朝の光が村長の家の壁を照らしていた。
私とレナードは並んで村長の家の前に立っていた。ハインツは少し離れた場所で控えている。
戸が開いた。
トーマス村長が顔を出した。五十八歳。白髪混じりの髪。日に焼けた顔に刻まれた皺。この村で生まれ、この村で歳を重ねてきた人の顔だった。
村長の目が私を見て、次にレナードを見た。
「おや。宰相閣下もご一緒で」
「村長、ご挨拶に参りました」
レナードが一礼した。宰相の礼。けれど、相手が村の長であることへの敬意を含んだ所作だった。
「まあ、入りなさい」
村長の家の居間は狭かった。木の机と椅子が四つ。壁に村の地図が貼ってある。窓から差し込む光で、部屋の中が温かく照らされていた。
三人で机を囲んだ。
私は膝の上で手を重ねた。
「村長、ご報告があります」
トーマスは椅子に深く座り、腕を組んだ。
「聞こう」
「婚約します。レナード・ヴァイスフェルト宰相閣下と」
言葉にすると、空気が少しだけ変わった。
トーマスの表情は動かなかった。驚いた様子はなかった。皇帝の婚姻承認が出たことは、グスタフの便で村にも伝わっていたのだろう。
けれど、正式にこうして報告を受けるのは初めてだった。
トーマスは私を見た。長い間。
三年前、この村に来た時のことを思い出した。断罪されて、勘当されて、行く場所もなく辺境に流れ着いた元公爵令嬢。村長は何も聞かずに、翠風堂にする建物を貸してくれた。税収のためだと言った。けれど、それだけではなかったことを、三年間の日々が教えてくれた。
トーマスが口を開いた。
「翠風堂はどうなる」
最初の問い。村長としての問い。
「続けます。リーゼルと共に。私が帝都にいる間はリーゼルが守り、私が辺境にいる時は私が守ります」
「帝都と行き来するのかい」
「はい。帝国公認の薬草顧問として、帝都での公務があります。けれど、翠風堂の工房主であることは変わりません」
「リーゼルは」
「実務責任者として、帳簿にも署名しています。新しい配合も商品にしました。一人で工房を回す力があります」
トーマスが頷いた。ゆっくりと。
「この村が私の居場所であることは変わりません。村長」
トーマスは私から目を離し、レナードの方を向いた。
しばらく無言だった。
村長の目がレナードを見ていた。宰相の執務服。銀の釦。帝国で最も高い地位にある文官。その人物が、村の長の前に座っている。
トーマスが口を開いた。
「宰相閣下」
「はい」
「一つ聞いてもいいかね」
「どうぞ」
トーマスの声が変わった。村長の声ではなかった。三年間、一人の娘が村で暮らすのを見守ってきた年長者の声だった。
「この子は幸せになれるのかね」
静かな問いだった。
制度の話ではなかった。婚姻承認の手続きでも、異議申立ての棄却でも、薬事法の成立でもなかった。
ただ、この子は幸せになれるのか。
レナードの表情が一瞬、止まった。
私は横目でレナードを見た。帝都の議会で弁明を行い、皇帝の裁定を受け、法案を通し、制度で道を整えてきた人。制度の言葉なら、いくらでも持っている。
けれど、トーマスが求めているのは制度の言葉ではなかった。
レナードは少し間を置いた。
背筋は真っ直ぐなままだった。けれど、目が少しだけ柔らかくなった。議会で弁明した時の目ではない。翠風堂で茶を飲んだ時の目に近かった。
「約束します」
二語だった。
制度の裏付けも、法的な根拠も、論理的な説明もなかった。
ただ、約束します。
トーマスはレナードの目を真っ直ぐに見た。
長い間だった。
村の外から、風が窓を揺らす音がした。遠くで鳥が鳴いていた。
「そうかい」
トーマスが言った。
その二文字は、以前に婚姻の知らせを聞いた時と同じ言葉だった。けれど、響きが違った。あの時は私に向けられた「そうかい」だった。今のは、レナードという人間を見定めた上での「そうかい」だった。
トーマスが私の方を向いた。
「ヴィオレッタ」
「はい」
「お前がこの村に来た時、正直に言えば心配していた。帝都から来た令嬢が、こんな辺境でやっていけるのかとな」
「村長」
「三年経って、翠風堂は村の誰もが頼りにする場所になった。お前の茶で膝が楽になった年寄りが何人いると思う」
トーマスの目が少し細くなった。
「婚約、おめでとう」
「ありがとうございます」
「翠風堂のことは心配しとらん。リーゼルがいるからな」
トーマスが立ち上がった。棚から何かを取り出した。小さな包み。
「これは村の者が作った干し果実だ。帝都への手土産にでも持っていきなさい」
私は包みを受け取った。手のひらに収まる大きさ。軽い。けれど、重かった。
「村長」
「なんだ」
「行ってきます」
トーマスは頷いた。
「そうかい」
三度目の「そうかい」は、送り出しの言葉だった。
村長の家を出た。
朝の光が、村の道を明るく照らしていた。
レナードが隣を歩いていた。ハインツが少し後ろについている。
「レナード」
「はい」
「村長の問いに、制度の言葉で答えなかったですね」
レナードは前を向いたまま、少し間を置いた。
「あの問いには、制度では答えられません」
「ええ」
「だから、約束しました」
私は手の中の干し果実の包みを見た。
三年間。この村で、この人たちに見守られてきた。翠風堂を始めた日から、今日まで。
帝都への出発は数日後。リーゼルに引き継ぎをして、三度目の道を行く。
けれど、今日はまだここにいる。
村の道を歩きながら、翠風堂の屋根が見えた。煙突から薄い煙が上がっている。リーゼルが竈に火を入れたのだろう。
帰る場所がある。行く場所もある。そして、約束してくれた人がいる。
村長の「そうかい」が、胸の中で静かに響いていた。




