第2話「宰相の馬車」
私は翠風堂の戸を開けて、外に出た。
村の道の向こうから、馬車の音が聞こえていた。車輪が土の道を踏む音。馬の蹄が石を弾く音。ラーゼン村の入口に近づいてくる、聞き慣れた響き。
宰相の馬車だった。
前回この馬車が村に来たのは、レナードが辺境を訪れて婚姻承認申請の提出を告げた時だった。あの朝、翠風堂で最終改良版の呼吸の茶を淹れ、額に口づけを交わし、二つの杯を調合台に並べた。
馬車が翠風堂の前で止まった。
御者が降り、扉を開けた。
レナードが降りてきた。宰相の執務服。濃紺の上着に銀の釦。帝都から三日の道を経た後の姿だが、背筋は真っ直ぐだった。
続いて、ハインツが降りた。護衛騎士の制服。腰に剣。レナードの半歩後ろに立ち、周囲を確認してから軽く一礼した。
「ヴィオレッタ殿、お元気そうで」
「ハインツ殿、遠路ありがとうございます」
村人たちが遠巻きに見ていたが、以前のような緊張はなかった。宰相の馬車は、もうラーゼン村の風景の一部になりつつある。
レナードが私の前に立った。
「ヴィオレッタ」
「レナード。お疲れではありませんか」
「馬車の中で書類を読んでいただけです」
少しだけ口元が緩んだ。笑みと呼ぶには小さい。けれど、確かに緩んでいた。
「中へどうぞ。茶を淹れます」
翠風堂の戸をくぐった。
竈の火はリーゼルが入れていてくれた。鍋の中の湯がちょうどよい温度に近づいている。
リーゼルが調合台の前に立っていた。帳簿を閉じて、背筋を伸ばした。
「宰相閣下、いらっしゃいませ」
「リーゼル殿。翠風堂は相変わらずよい香りですね」
リーゼルが少し照れたように頷いた。
ハインツは翠風堂の入口の脇に立った。護衛の定位置。中には入らず、外から工房の出入りを見守る形。
私は棚から薄荷と菩提樹の花を取り出し、急須に入れた。湯を注いだ。淡い緑色が広がり、薄荷の清涼な香りが工房に満ちた。
呼吸の茶。
杯を二つ。レナードの前と、自分の前に置いた。
レナードが杯を手に取り、口に含んだ。
「変わらない味です」
「配合は同じです。三年間かけて辿り着いた形ですから」
「それが一番いい」
リーゼルが棚の方で作業をしていた。気を遣って距離を取っているのか、本当に作業が忙しいのか。おそらく両方だった。
「リーゼル、あなたの新しい配合も淹れてください」
リーゼルが振り向いた。
「え、宰相閣下に?」
「ええ。翠風堂の商品です」
リーゼルは少し戸惑った後、乾燥棚からトウキの根とカミツレの花を取り出した。手つきは慣れていた。割合を量り、急須に入れ、六十度の湯を注ぐ。
琥珀色の茶がレナードの前に置かれた。
レナードが口に含んだ。少し間を置いた。
「よい茶です。温かさと穏やかさが同居している」
リーゼルの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
リーゼルが奥の棚に戻った後、レナードが書類を鞄から取り出した。
二通。
一通は宰相府の公印が押された公文書。もう一通は封印のない私信の形式。
「管理所の設置計画です」
レナードが公文書を広げた。
「帝国各地に十二箇所の薬草管理所を設置します。最初の三箇所は帝都近郊と南部の主要都市。年内に残りの九箇所を順次設置。運営指針の策定が急務で、薬草顧問としての参考意見を正式に求めます」
「参考意見の提出は、帝都で行うのですか」
「宰相府で指針策定会議を開きます。法務官と担当官が出席。きみには参考人として出席してもらいたい」
管理所の話は、書簡で知らされていた通りだった。けれど、書類で見ると規模が違う。十二箇所。帝国全土を覆う管理体制。翠風堂の帳簿から始まった記録が、十二箇所の管理所の基準になろうとしている。
「もう一つ」
レナードが二通目を手に取った。
「婚約署名の日程です。三週間後。場所は皇帝の執務室。陛下が立ち会われます。法務官が立会人を務めます」
三週間後。
「署名の場には、きみは薬草顧問として出席する。婚約者としてだけではなく」
私の二つの立場。帝国公認辺境薬草顧問と、宰相の婚約者。その両方が、皇帝の面前で公的に並び立つ。
「管理所の参考意見提出も、署名と同じ時期に帝都で行えます。二つの公務を一度の出仕で」
制度で道を整えるレナードのやり方だった。
「公務と私事を同じ場所で話すことに、もう抵抗はありませんか」
レナードが静かに聞いた。
私は工房の中を見回した。竈の火。乾燥棚。調合台の上の二つの杯。公文書と私信が同じ机の上に並んでいる。
「この工房では、全部が一つです」
レナードが私を見た。少しだけ目を細めた。
「そうですね」
書類を片付けた。
茶が少し冷めていた。けれど、六十度を下回った呼吸の茶は、薄荷の香りがより穏やかになる。それも悪くない。
署名は三週間後。管理所の指針策定会議も同じ時期。帝都へ、三度目の道を行く。
けれど、今日ではない。
今日はまだ翠風堂にいる。今日の仕事をする。
「レナード」
「はい」
「明日、村長に報告に行きませんか。婚約のこと」
レナードが少し間を置いた。
「村長殿に」
「ええ。トーマス村長は、私がこの村に来た時からずっと見守ってくれた方です。帝都に行く前に、きちんと報告したい」
レナードが頷いた。
「もちろん」
窓の外で、午後の風が薬草畑を渡っていた。レナードの馬車が翠風堂の前に停まっている。ハインツが入口の脇で腕を組んでいる。
三週間後、帝都で署名する。その日が来る。
けれど、今日はまだここにいる。
竈に火を足した。リーゼルが乾燥棚のヤナギソウを確認している。レナードが杯の残りを飲み干した。
翠風堂の午後は、いつもと同じように過ぎていく。




