第4話「煎じた記憶」
私は乾燥棚からトウキの根を三本取り、秤に載せた。
レナードがこの村に滞在して四日目の朝だった。
初日に翠風堂を訪れて以来、彼は毎日工房に足を運んでいる。午前中は村の農地や水路を見て回り、午後になると翠風堂の戸口に現れる。護衛騎士の二人は相変わらず外に控えたままで、工房の中に入るのはレナード一人だった。
「本日もよろしいでしょうか」
戸口に立つ声が聞こえた。振り返らなくてもわかる。この四日間で、足音と声の調子を覚えてしまった。
「どうぞ。今日はヤナギソウの煎じ工程がありますので、見ていただけるかと」
「ありがたい」
レナードが定位置についた。工房の入り口近く、作業の邪魔にならない壁際の椅子。初日に私が置いた椅子を、彼はそのまま使い続けている。
彼の観察は丁寧だった。
工程を黙って見守り、要所で的確な質問をする。
「ヤナギソウは高温で煎じると苦味が出ますが、有効な成分も熱に弱いのですか」
「一部はそうです。だから六十度を超えないように火加減を調整します。沸騰させると別の成分が溶出して、味が変わるだけでなく効能も変質します」
「温度管理をどのように行っていますか。温度計はお使いではないようですが」
「湯気の立ち方と、鍋肌の泡の大きさで判断しています。六十度前後では鍋底に小さな泡がつく程度で、湯面はほとんど動きません」
レナードが身を乗り出して鍋を覗いた。
「なるほど。確かに泡が小さい」
「慣れれば手を近づけるだけでわかります。蒸気の温度が違うので」
「それは経験則ですか」
「……半分は経験で、半分は理屈です」
また踏み込みすぎた、と思った。
温度と蒸気圧の関係は、前の人生の知識だ。この世界の薬草売りが口にする言葉ではない。
だがレナードは追及しなかった。
ただ頷いて、手元の帳面に何か書きつけた。
この男の質問には独特の癖がある。
答えを引き出すのがうまいのに、答えそのものにはあまり反応しない。代わりに、答え方を見ている。
何を知っているか、ではなく、どのように知っているか。
それは研究者を観察する目だった。
午後も深くなり、煎じの工程が一段落した頃、レナードが口を開いた。
「少し、個人的な話をしてもよろしいですか」
私は手を止めた。
四日間の滞在で、レナードが「個人的な話」という前置きをしたのは初めてだった。
「どうぞ」
「先日、母の話を少しだけいたしました。母は慢性の呼吸疾患を長く患っておりました」
椅子に座ったまま、レナードは膝の上で手を組んだ。
「宮廷の治癒師に何度もかかりましたが、魔法治癒では一時的に症状を抑えるのが限界でした。根治には至らず、私が十二の時に亡くなりました」
声は平坦だった。
感情を排した報告のような口調。けれど、組んだ手の指先がわずかに白くなっていた。
「母が最後まで飲んでいたのが、薬草の煎じ薬でした。効能は気休め程度のものでしたが、温かい薬湯を飲むと呼吸が少し楽になると言っていた。私はその薬湯を作る手伝いをしていました」
「……そうでしたか」
「だから、薬草の匂いには覚えがあるのです。この工房に入った時、最初に感じたのはそれでした」
レナードが顔を上げた。
「あなたの茶を飲んだ時、母の薬湯とは比較にならない精度で作られていると感じました。もしこの水準の薬草茶が母の存命中にあったなら、と」
言葉が途切れた。
レナードは一度目を閉じ、息を吐いた。
「失礼しました。視察官として不適切な発言です」
「いいえ」
私は竈の火を落とし、棚の前に立った。
手が動いていた。
考えるより先に、身体が材料を選び始めていた。
トウキの根。甘草の細片。杏仁を少量。それからこの季節に採れるカワラヨモギの若芽。
慢性の呼吸疾患。気道の炎症を抑え、粘膜を保護し、呼吸筋の緊張を緩和する配合。
前の人生で、研究室の棚に並んでいた論文の記憶。気道炎症に対する植物由来成分の有効性を示したデータ。それをこの世界の薬草に置き換え、煎じ茶として再構成する。
「何を」
「お母様が飲んでいらした薬湯に近いものを、少しだけ改良して作ります。呼吸を楽にする配合です。お母様にはもうお届けできませんが、長旅でお疲れの喉には効くと思います」
自分で言って、驚いた。
仕事ではない。
注文を受けたわけでもない。
この男の指先が白くなるほど握り締められていたから。
それだけの理由で、手が動いた。
三年間、私は誰のためにも特別な茶を作らなかった。
村人に売る茶は商品だ。効能と品質を安定させ、適正な価格で提供する。それ以上の意味は持たせない。
それが、今、崩れた。
竈に火を入れ直し、慎重に温度を管理しながら煎じた。
工房に甘い薬草の香りが広がった。
レナードは黙って見ていた。
質問もしなかった。
杯に注ぎ、差し出した。
レナードが両手で受け取った。
一口、含んだ。
長い沈黙があった。
「……ありがとうございます」
声が、詰まっていた。
杯を持つ手が震えているのを、私は見た。
前回とは違う震え方だった。前回は驚きだった。今回は、もっと深い場所から来ている。
レナードは杯を両手で包んだまま、しばらく動かなかった。
湯気が彼の顔をかすめ、消えていく。
「この味です。母が好んでいた、あの味に——近い」
それだけ言って、口を閉じた。
私も何も言わなかった。
工房の中に薬草の匂いが漂い、竈の残り火がかすかに爆ぜた。
やってしまった、と思った。
壁を作っていたのは私のほうだ。
帝都の人間には関わらない。過去とは繋がらない。誰にも期待しない。
それなのに、この男の震えた手を見て、茶を作った。
仕事ではない何かを、差し出してしまった。
日が傾き始めた頃、レナードが立ち上がった。
「長居をいたしました。本日はこれで」
「はい。お気をつけて」
いつもと同じ挨拶のはずだった。
だが、レナードが戸口で足を止めた。
「ヴィオレッタ殿」
振り返った顔は、四日間で最も穏やかだった。
「明日が滞在の最終日です。最後にもう一度、お茶をいただけますか」
「……ええ。お待ちしています」
レナードが一礼して、夕暮れの中へ出ていった。
戸口が閉まった後、私はしばらく動けなかった。
竈の灰を掻き出す手が、わずかに震えていた。
「師匠」
いつの間にかリーゼルが工房の奥から顔を出していた。乾燥棚の裏で薬草の選別をしていたはずだ。
「あの人が来ると、師匠、声が柔らかくなるよ」
「……なりません」
「なってるって。あたし、毎日聞いてるからわかる」
リーゼルが笑った。
屈託のない、十五歳の笑い方だった。
私は彼女の顔を見て、何か言い返そうとして、やめた。
言い返す言葉が見つからなかったのではない。
否定できなかったのだ。
竈の灰を片付け、棚の瓶を整え、明日の仕込みの準備を始めた。
手を動かしていれば考えなくて済む。
考えなければ、揺れなくて済む。
けれど棚に並ぶ瓶のラベルを見るたびに、あの男の目が浮かんだ。
答え方を見る目。
杯を包む手。
詰まった声。
明日が最終日。
それでいい。
それで終わる。
終わるはずだ。
工房の窓から、冷たい夜風が入り込んできた。
乾燥棚の薬草が、小さく揺れた。




