第9話「書簡の束」
もうすぐ帰れる、と思った。
薬事法が庶民院で追認された。貴族院での可決から数日後のことだった。庶民院での審議は法務官の予告通り形式的なもので、質疑もほとんどなく、採決は全会一致に近かった。
残るは皇帝の裁可のみ。
法案は皇帝の手元に届いている。裁可は近日中との見通しが宰相府から伝えられた。
帝都での公務が、ひとまず区切りを迎えようとしていた。
客館の小部屋で、帰還の準備を始めた。
荷物は多くない。調合日誌。法案作成会議で使った附則資料の写し。法務官から渡された法案最終稿の控え。着替えが二組。それだけだった。
鞄を開いたまま、机の前に座った。
机の端に、書簡の束があった。
帝都に滞在している間に届いたリーゼルからの書簡。全部で七通。最初の一通は到着した翌日に届き、最後の一通は昨日届いた。
私は一通目から順に、読み返し始めた。
一通目。
『師匠、帝都に着きましたか。翠風堂は今日も開けました。トウキの根の在庫が残り四束です。来週までには乾燥棚の分が仕上がるので大丈夫です。村長さんが朝に寄って、膝の茶を持っていきました。いつもの量です。』
工房の日常が、リーゼルの字で記されている。少し右に傾く、元気な字。帳簿に署名した時と同じ筆跡。
二通目。
『師匠、今日は雨でした。薬草畑の水はけを確認しました。カミツレの苗が三株、根腐れしかけていたので植え替えました。グスタフさんが来て、次の帝都便の荷を確認しました。乾燥カミツレ二袋と、ヤナギソウの煎じ茶十包みです。帳簿にも書きました。』
三通目。
『師匠、村の東側の畑で、見たことのない薬草を見つけました。葉は細くて、茎が赤い。匂いは少し苦い。図鑑で調べたけど載っていません。押し花にして挟んでおきます。師匠が帰ったら見てください。』
指先で便箋に触れた。
押し花が挟まれているのだろう。次に届く荷の中に、きっと入っている。
四通目。
『師匠、今日は天気がよくて、乾燥棚の薬草がよく乾きました。鳴子百合の根を掘りました。今年のは去年より太いです。土が合ってきたのかもしれません。帳簿の売上も先月より少し増えました。グスタフさんが「翠風堂の茶は帝都で評判がいい」と言ってました。』
五通目。
『師匠、トーマス村長が膝の具合がいいと言ってくれました。ヤナギソウの配合を少しだけ変えてみました。煎じ温度はいつも通り六十度です。村長さんの膝は寒い日に痛むから、少し温める成分を足したほうがいいかと思って、生姜の乾燥粉を一振り加えました。勝手にやってすみません。でも、村長さんが「今日のは特にいい」と言ってくれたので、報告します。』
勝手にやってすみません、と書いてある。けれど、報告の文面には自信がにじんでいた。
配合を工夫し、結果を確認し、報告する。
私が教えたことを、リーゼルは自分のものにしている。
六通目。
『師匠、カミツレの花が咲きました。今年は早いです。花の色がきれいなので、乾燥させるのがもったいないくらいです。でもちゃんと乾燥させます。新しい配合のことを考えています。トウキの根とカミツレの花で、何かできないかと。まだ試していません。師匠が帰ってから一緒にやろうと思ったけど、やっぱり自分で先にやってみます。』
七通目。昨日届いた書簡。
『師匠、翠風堂の新しい配合ができました。帰ったら飲んでください。あたしが一人で考えた配合です。トウキの根とカミツレの花を使ってます。師匠に教わったことの、あたしなりの答えです。早く帰ってきてください。あたしと翠風堂が待ってます。』
七通の書簡を膝の上に重ねた。
一通目から七通目まで。工房の在庫、薬草の生育、村の出来事、売上の報告、配合の工夫、そして新しい茶。
リーゼルの成長が、七通の中に静かに刻まれていた。
一通目では在庫の報告だけだった字が、七通目では自分の判断と結果を語る字になっている。
返書を書こうと思った。
便箋を一枚取り、筆を執った。
『リーゼルへ。書簡をありがとう。全部読みました。村長の膝の茶に生姜を加えた判断は正しいと思います。配合の変更は、結果を記録して帳簿に残してください。見たことのない薬草の押し花、楽しみにしています。あなたの新しい配合を楽しみにしています。もうすぐ帰ります。ヴィオレッタ』
短い返書だった。書きたいことはもっとあった。けれど、言葉にするより、帰って茶を飲む方が伝わることがある。
午後。
客館の部屋で荷物をまとめていると、廊下に足音が聞こえた。
扉を叩く音。
「ヴィオレッタ」
レナードの声だった。
「どうぞ」
扉が開いた。レナードが入ってきた。宰相の執務服のまま。手に書類を一枚持っている。
「薬事法は近日中に裁可される見通しです」
「はい。法務官殿からも伺いました」
レナードが部屋の中を見た。机の上の書簡の束。開いた鞄。帰り支度が進んでいることに気づいたようだった。
「帰還の準備を」
「ええ。公務の区切りがつきましたから」
レナードが一歩、部屋の中に入った。扉を閉めた。
二人きりになった。
「正式な婚約の手続きは、薬事法の裁可後に進めます」
レナードの声は落ち着いていた。公務の報告と同じ声色。けれど、目は書類ではなく私を見ていた。
「顧問職の管轄独立は既に発効しています。利益相反の問題は制度上、完全に解消されました。婚約の届出に障害はありません」
「わかりました」
「届出の際には、再び帝都に来ていただくことになります。形式的なものですが、皇帝の面前での署名が必要です」
「はい」
レナードが少し黙った。
公務の説明は終わっていた。手に持った書類を机に置いた。
「辺境に帰るのですね」
「翠風堂が待っていますから」
「リーゼルの書簡ですか」
机の上の束を見て、レナードが言った。
「ええ。七通。毎日のように届きました」
「よい助手ですね」
「助手ではありません。もう実務責任者です」
レナードが微かに口元を緩めた。笑みと呼ぶには小さい。けれど、確かに緩んでいた。
「翠風堂で待っています」
私はそう言った。
「裁可の知らせも、婚約の手続きも、そこで受け取ります。私の場所はあそこですから」
レナードが頷いた。
「近日中に、辺境を訪れます」
「茶を用意しておきます」
「楽しみにしています」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
レナードが書類を取って、部屋を出た。足音が廊下を遠ざかっていく。
窓の外に、帝都の屋根が広がっていた。
夕方の光が、石造りの屋根を淡く染めている。
明日の朝、馬車に乗る。帝都を出て、街道を南へ下り、山あいの谷に入り、ラーゼン村に着く。翠風堂の戸を開ける。
リーゼルがいる。竈がある。乾燥棚がある。薬草の匂いがする。
帝都で得たものを、全部持って帰る。法律の形になった記録。制度に裏付けられた立場。そして、待っている人がいるという確かさ。
机の上のリーゼルの書簡を、丁寧に鞄の中にしまった。七通全部。調合日誌の隣に。
帝都の鐘が鳴った。
今日が、この客館で過ごす最後の夕方だった。




