第8話「法の形」
「では、薬事法案の審議を開始します」
議長の声が、貴族院の議場に響いた。
婚姻承認の裁定から数日が経っていた。帝都の空気は少しだけ変わっていた。社交界の噂は裁定の結果を受けて静まり、宰相府の日常業務が再開され、議会は次の議題に移っていた。
薬事法。
私が三年間の記録を基に提言し、法務官が条文に整え、宰相府が正式に作成した法案。それが今日、帝国議会の貴族院に上程された。
私は議場にいた。
傍聴席ではない。参考人席。議場の端に設けられた、証言台に似た小さな机と椅子。法案の審議において、条文の根拠を説明するために呼ばれた参考人としての席だった。
帝国公認辺境薬草顧問として。宰相の婚約者としてではなく。
調合日誌を机の上に置いた。付箋を挟んだ頁が何枚もある。法務官との作業で整理した、条文ごとの根拠資料。
議場は広かった。高い天井。石の壁。貴族院の議員たちが半円形の席に並んでいる。爵位の高い順に前列から座る。侯爵、伯爵、子爵、男爵。
前列の端に、ゲオルク・ヴェルデン侯爵が座っていた。
異議を棄却された直後の議会出席。侯爵の表情は静かだった。怒りも落胆も見えない。ただ、背筋が真っ直ぐだった。
議長が法案の概要を読み上げた。
薬事法。薬草の採取適期の指定、調合条件の標準化、保存条件と有効期間の設定、流通経路の規定。帝国における薬草療法の品質と安全性を法的に保証するための法律。
「本法案は宰相府が作成し、帝国公認辺境薬草顧問の実務記録を根拠として策定されたものです。審議にあたり、参考人として薬草顧問のヴィオレッタ殿が出席されています」
議場の視線が私に向いた。
何十もの目。貴族院の議員たち。侯爵級から男爵級まで。帝国の上層を構成する人間たちの目が、平民の薬草顧問に注がれている。
宮廷茶会の時とは違う空気だった。あの時は皇帝の招きという権威が場を整えていた。今日は、法案の根拠そのものが問われる場だ。
「では、条文ごとの審議に入ります。第一条、採取適期の指定について。参考人、根拠の説明を」
私は立ち上がった。
日誌を開いた。
「第一条の根拠は、三年間の採取記録に基づきます」
声は落ち着いていた。法案作成会議の時と同じ声。法務官の前で説明した時と同じ手順。
「薬草ごとに、採取時期、場所、葉の色、茎の太さ、香りの変化を記録しています。採取適期を外れた薬草は有効成分の含有量が低下し、煎じた際の効能に直接影響します。この差異を定量的に示したものが、お手元に配布された附則資料の第一表です」
議員たちが手元の資料に目を落とした。
質疑が始まった。
「採取適期の判定基準は、どのように標準化するのか」
「葉の色と茎の太さについては、基準となる標本を各地の薬草管理所に配布し、視覚的な照合で判定します。香りについては、訓練を受けた薬草士が官能評価を行う方法を条文に規定しています」
「訓練期間は」
「半年を想定しています。翠風堂で実際にリーゼル——助手の訓練に要した期間を基にしています」
条文を一つずつ。質疑に一つずつ。
法務官が隣の席から、法的な補足を加えてくれた。条文の文言と実務上の根拠を、二人で支え合うように説明を進めた。
第四条の流通経路の規定に差し掛かった時、議場が少しだけざわめいた。
「この条項は、辺境の薬草を帝都に流通させる経路を法的に保証するものですが、流通の実態はどのようなものか」
質問した議員は、中列の伯爵だった。
「現在、ラーゼン村の翠風堂から帝都への流通は、行商人グスタフを介した民間の経路で行われています。宰相府が品質を保証する公的な流通経路を整備することで、安定供給と品質管理の両方を制度化するのがこの条項の目的です」
「民間の行商人に依存している現状を、法律で追認するだけではないか」
「追認ではありません。法案では、流通経路に品質検査の関門を設け、検査を通過した薬草のみが帝都で販売できる仕組みを規定しています。現在の民間経路を公的経路に格上げし、検査体制を義務化する構造です」
質疑は続いた。
私は一つ一つに答えた。日誌を開き、数字を示し、記録を根拠にして。
ゲオルク侯爵は、審議の間ずっと黙っていた。
発言しなかった。質疑にも加わらなかった。
けれど、目は私を見ていた。
敵意ではなかった。何かを見定めようとする目だった。異議を棄却された人間が、棄却の原因となった人物を観察している。その目の奥にあるものが何なのか、私にはわからなかった。
けれど、その沈黙の中に、何かが変わりつつあることを感じた。
審議は午後まで続いた。
全条文の質疑が終了した。
議長が立ち上がった。
「採決に入ります。薬事法案について、賛成の方は挙手を」
手が上がった。
一つ。二つ。三つ。次々と。
過半数を超えた。
「可決。薬事法案は貴族院において可決されました。庶民院への送付を決定します」
議場にざわめきが広がった。
議長が議事録の記録を指示した。
法務官が立ち上がり、発言を求めた。
「議事録に記録をお願いいたします。本法案は帝国公認薬草顧問の三年間の実務記録に基づき策定されたものであり、その実証性と精度は帝国法制史において特筆に値する」
議場が静まった。
法務官の言葉が、議事録に記録される。帝国の公式記録として。
私は参考人席に座ったまま、日誌の表紙に手を置いていた。
法が形になった。
三年間の記録が、一本の法律になろうとしている。翠風堂の帳簿の延長線上に、帝国の法がある。
議場を出ると、廊下に夕方の光が差し込んでいた。
法務官が歩み寄ってきた。
「ヴィオレッタ殿。見事な答弁でした」
「法務官殿のご協力あってのことです」
「庶民院での審議は形式的な追認となる見通しです。法案の成立はほぼ確実と考えてよいでしょう」
法務官が一礼して去った。
私は廊下に立ったまま、調合日誌を胸に抱えていた。
ハインツが近づいてきた。
「ヴィオレッタ殿。お疲れさまでした。客館にお送りします」
「ありがとうございます」
廊下を歩きながら、ふと振り返った。
議場の扉が閉まっていく。その向こうに、まだ議員たちの声がかすかに聞こえた。
法が形になった。
帝都での公務の区切りが、近づいている。
客館に戻ると、机の上にリーゼルからの書簡が届いていた。
封を切った。
リーゼルの字。少し右に傾く、元気な字。
『師匠、翠風堂の新しい配合ができました。帰ったら飲んでください。あたしが一人で考えた配合です。トウキの根とカミツレの花を使ってます。師匠に教わったことの、あたしなりの答えです。早く帰ってきてください。あたしと翠風堂が待ってます。』
私は便箋を膝の上に置いた。
リーゼルの茶が待っている。
翠風堂が待っている。
帰る場所がある。
窓の外で、帝都の鐘が鳴った。夕方の鐘だった。




