第7話「裁定の朝」
宰相府の窓から、朝霧が見えた。
帝都の屋根が白い霧に覆われている。輪郭がぼやけて、建物と空の境界が曖昧になっていた。裁定の日の朝は、そういう空だった。
私は宰相府の控え室にいた。
議場ではない。貴族院の議場に隣接した、小さな部屋。石造りの壁に、窓が一つ。椅子が三脚と、小さな机。それだけの部屋だった。
ハインツが朝一番に迎えに来て、客館からここまで案内してくれた。
「控え室での待機が許可されています。宰相閣下からの手配です。議場の声は聞こえませんが、裁定が下り次第、私がお伝えに参ります」
「ありがとうございます」
ハインツが扉を閉めた。
一人になった。
膝の上に、調合日誌があった。
今朝、客館を出る時に持ってきた。理由はわからない。今日は法案の作業があるわけではない。日誌を開いて何かを書く予定もない。
ただ、手の中にあると落ち着いた。
三年分の記録の重さ。表紙の手触り。角が少し折れた頁。擦り切れた背表紙。
日誌を開くことはしなかった。
閉じたまま、膝の上に置いていた。
控え室は静かだった。
壁の向こうに議場がある。皇帝が臨席し、貴族院の議員たちが並び、レナードが立ち、ゲオルク侯爵が座っている。
その全てが、壁一枚の向こうで起きている。
けれど、何も聞こえない。
石の壁は厚かった。声も、足音も、椅子の軋む音も、何一つ通さない。
時間だけが過ぎていく。
窓の外の霧が、少しずつ薄くなっていた。朝日が霧を溶かしている。屋根の輪郭が、ゆっくりと現れてくる。
椅子に座ったまま、窓を見ていた。
弁明の日、客館の部屋で待っていた時のことを思い出した。あの日は、法案草稿の確認作業で手を動かすことができた。今日は、それもない。
手の中にあるのは、日誌だけだ。
結果を変える力は、私にはない。
あの人が議場で全てを尽くしている。皇帝が全てを聴き、全てを判断する。
私にできるのは、結果を受け止める覚悟を持つことだけだった。
承認されるかもしれない。されないかもしれない。
されなかった場合。
その先のことを、考えようとした。
考えられなかった。
考えられないのではない。考える必要がないと、どこかでわかっていた。
裁定がどうなろうと、私は翠風堂に帰る。竈に火を入れる。リーゼルと一緒に薬草を煎じる。帳簿をつける。茶を淹れる。
それは変わらない。
そして、薬事法の法案は残る。三年間の記録に基づいた法案は、婚姻の裁定とは関係なく、議会で審議される。
私の仕事は残る。
日誌の表紙に手を置いた。
この帳面の中に、三年間がある。
この三年間が、今日の裁定の根拠の一部になっている。レナードの弁明の中で、薬草顧問の貢献が帝国の利益に資するという主張の裏付けになっている。
直接ではない。間接的に。けれど、確かに繋がっている。
翠風堂の竈の前で記録した一行一行が、帝都の議場に届いている。
その事実だけで、今は十分だった。
霧が晴れた。
窓の外に、帝都の屋根が鮮明に見えていた。日差しが強くなっている。午前の光。
どれくらいの時間が経っただろう。
控え室に時計はなかった。窓の光の角度だけが、時間を教えてくれる。
朝から、ずいぶん経った気がする。
けれど、まだ昼前かもしれない。
廊下に足音が聞こえた。
速い足音だった。
扉が叩かれた。
「ヴィオレッタ殿」
ハインツの声だった。
「どうぞ」
扉が開いた。
ハインツが立っていた。息が少し上がっている。議場から走ってきたのだろう。
「裁定が下りました」
私は膝の上の日誌を両手で握った。
「皇帝陛下の裁定です。異議は棄却。婚姻承認が裁可されました」
空気が止まった。
止まったのは一瞬だけだった。
「裁定の理由は三点です」
ハインツの声は、興奮を抑えた落ち着いた口調だった。けれど、目の奥が光っていた。
「第一に、平民との婚姻は帝国法で禁じられていない。第二に、宰相の公務判断が配偶者の出自に影響されるという懸念は具体的根拠を欠く。第三に、薬草顧問職の管轄独立により利益相反は制度的に解消済みである」
制度の言葉が、一つずつ並んでいく。
「さらに陛下は付言されました。『帝国の行政に支障を来すどころか、薬事法の整備において薬草顧問の貢献は帝国の利益に資するものである』と」
皇帝の言葉。
あの日、書斎で茶を淹れた時、陛下は言った。「あなたは茶を作る人だ」と。
その人の貢献が、帝国の利益に資する。
皇帝がそう裁定した。
「ありがとうございます、ハインツさん」
声は震えなかった。
ハインツが一礼した。
「宰相閣下がこちらに向かわれています。間もなくお着きになるかと」
ハインツが廊下に戻った。
控え室に一人になった。
日誌を膝の上に置いたまま、窓の外を見た。
帝都の屋根が、日差しに照らされていた。霧はもう完全に晴れていた。
承認された。
制度の中で。手続きを経て。皇帝の裁定によって。
権力で道を開いたのではない。制度が、正しく機能した結果だった。
廊下に足音が聞こえた。
今度は、静かな足音だった。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
レナードが入ってきた。
宰相の正装。紋章のついた外套。議場から真っ直ぐ来たのだろう。
表情は穏やかだった。けれど、目の奥が深く光っていた。何かを成し遂げた人間の、静かな光。
「承認されました」
レナードの声は低く、静かだった。
「はい」
一語だった。
あの夜、翠風堂で「はい」と答えた時と同じ一語。
けれど今度は、制度に裏付けられた「はい」だった。
窓から差し込む日差しが、控え室の中を明るく照らしていた。
日誌を膝の上に置いたまま、私はレナードの顔を見ていた。
言葉は少なかった。
それで十分だった。




