第3話「法案の重さ」
宰相府本館二階の会議室に、朝の光が差し込んでいた。
前回この部屋に来たのは、薬事法の諮問会議の時だった。あの時と同じ長机。同じ椅子の配置。窓の位置も、壁の書架も変わっていない。
けれど、出席者の顔ぶれが違っていた。
法務官が正面に座っている。四十代の男性。前回と同じ人物だった。私の提言を「法案の根幹になる」と評価した人。隣に財務官。五十代の女性。こちらも前回と同じだ。
そして、長机の端に見知らぬ男が一人。
四十代半ばほどの、痩せた男だった。貴族院の紋章が縫い取られた上着を着ている。表情は硬く、私が部屋に入った時、一瞬だけ視線を向け、すぐに手元の書類に戻した。
法務官が口を開いた。
「本日は薬事法法案の最終調整を目的とした会議です。帝国議会への上程に向け、条文の根拠を改めて整理します。本日は貴族院から審議官が同席されています」
審議官が軽く頭を下げた。名前は告げなかった。
私は調合日誌を机の上に置いた。三年分の記録。表紙は少し擦り切れている。毎日開いて書き込んできた痕跡だった。
「では、条文ごとに確認を進めます。第一条、採取適期の指定について。ヴィオレッタ殿、根拠の説明をお願いします」
法務官の声は事務的だった。公の場の進行。私もそれに合わせた。
「はい。採取適期の指定については、三年間の採取記録を根拠としています」
日誌を開いた。付箋を挟んだ頁を示す。
「薬草ごとに、採取時期、場所、葉の色、茎の太さ、香りの変化を記録しています。例えばトウキの根は、秋の中頃から晩秋にかけての採取が最も有効成分の含有量が高く、早春の採取では含有量が三割ほど低下します。この差は煎じた際の効能に直接影響します」
法務官が頷いた。財務官がメモを取っている。
「第二条、調合条件の標準化について」
「煎じ温度は六十度前後を基準としますが、薬草の種類によって適温が異なります。鍋肌の泡の大きさと湯面の蒸気の立ち方で温度を判定する方法を標準とし、訓練期間は半年を想定しています。日誌には各薬草の適温と判定基準の詳細を記録してあります」
頁をめくり、該当する記録を示した。法務官が身を乗り出して確認する。
「第三条、保存条件と有効期間の設定について」
「保存条件は薬草の種類ごとに異なりますが、共通する原則として、直射日光を避け、乾燥した環境で保管することが基本です。有効期間については、三年間の記録から——」
「失礼」
審議官の声が、私の説明を遮った。
会議室の空気が変わった。
審議官は手元の書類から顔を上げ、私を見た。
「一つ、確認したいことがある」
法務官が審議官に目を向けた。
「どうぞ」
「この法案の条文は、全て目の前のこの方の知見に基づいているという理解でよろしいか」
「法案の根拠となる実務記録は、帝国公認辺境薬草顧問のヴィオレッタ殿が提供したものです。条文の法的整備は法務院が担当しています」
「つまり、根拠の大部分は平民の知見に依拠している」
審議官の声に感情はなかった。事実確認の口調だった。けれど、その「平民」という言葉の置き方には、明確な意図があった。
「平民の知見のみに基づく法案は、帝国法としての信頼性に欠けるのではないでしょうか」
私は日誌を開いたまま、審議官を見た。
諮問会議の時にも、似たことがあった。傍聴席の貴族夫人たちが「平民の女が宰相府で講釈を垂れる」と陰口を言った。あの時は、聞こえないふりをした。
今日は違う。
公の会議の場で、正面から問われている。
法務官が口を開いた。
「法案の根拠は記録と実証に基づいており、提言者の身分は法的妥当性に影響しません。帝国法において、法案の根拠に身分要件は定められていない」
法務官の反論は明快だった。制度の言葉で、制度の枠組みの中で、審議官の疑義を退けている。
けれど、私は自分の口でも答えたかった。
「審議官殿」
声は落ち着いていた。自分でも驚くほどに。
「この日誌には、三年間、一日も欠かさず記録した採取と調合の記録が収められています。薬草の種類、採取時期、場所、天候、葉の状態、煎じ温度、効能の変化。全て数値と観察に基づいています」
日誌を審議官の方に向けた。
「この記録は身分に関わらず、どなたにも検証可能です。数値と事実は、誰が記録したかではなく、内容が正しいかどうかで評価されるべきものと考えます」
審議官は私の顔を見ていた。
数秒の沈黙があった。
反論は来なかった。
審議官は視線を手元の書類に戻し、それ以上何も言わなかった。
法務官が会議を再開した。
「では、条文の確認を続けます」
残りの条文を一つずつ確認した。審議官は最後まで発言しなかった。
会議が終わり、法務官が議事録をまとめた。
「本日の会議において、法案の条文は原案通り承認されました。審議官から提出された疑義については、法案の根拠が実務記録と実証に基づくものであり、提言者の身分は法的妥当性に影響しないとの見解が示され、疑義は棄却されました。以上を議事録に記録します」
議事録に残る。
審議官の疑義と、その棄却が。公式な記録として。
廊下に出ると、窓から午後の日差しが差し込んでいた。
法務官が私に歩み寄った。
「ヴィオレッタ殿。本日の答弁は見事でした」
「ありがとうございます。法務官殿の反論に助けられました」
「いえ。あなたの記録がなければ、私の反論も空論です。法案の実務的精度は、あなたの三年間の記録に支えられている」
法務官が一礼して去っていった。
私は調合日誌を胸に抱えたまま、廊下に立っていた。
身分を攻撃された。
記録で答えた。
それは翠風堂で三年間やってきたことの延長線上にある。薬草の効能は、誰が育てたかではなく、どう育てたかで決まる。記録の価値は、誰が書いたかではなく、何が書かれているかで決まる。
同じことだ。
工房でも、議会でも、同じことだ。
客館に戻ると、ハインツが廊下で待っていた。
「ヴィオレッタ殿。会議はいかがでしたか」
「法案は原案通り承認されました」
「それは何よりです。それと、一つお伝えしなければならないことがあります」
ハインツの声が、少しだけ低くなった。
「ゲオルク・ヴェルデン侯爵が、本日、正式に異議申立て書を帝国議会に提出しました」
足が止まった。
「異議の根拠は三点です。詳細は書面で届く予定ですが、要旨は——『平民を宰相の伴侶に据えることは、帝国の行政と外交に重大な支障を来す前例となる』とのことです」
廊下の窓から、夕日が差し込んでいた。
法案は通った。けれど、もう一つの戦いが、正式に始まった。
私は調合日誌を抱え直した。
部屋に入り、机の前に座った。
日誌を開かなかった。
ただ、閉じたまま膝の上に置いて、窓の外の夕空を見ていた。
記録で答えられることと、記録では答えられないことがある。
身分の壁は、数値では測れない。
けれど、逃げるつもりはなかった。
三年前に逃げなかった。今も逃げない。
窓の外で、帝都の鐘が鳴った。




