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【第5章開始!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第4章

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第1話「三十日の始まり」

届いたのは、いつもと同じ宰相府の定期便だった。


けれど封を切った瞬間、指先が冷えた。


朝の工房は静かだった。竈の火がぱちりと音を立てている。リーゼルはまだ来ていない。北の斜面でトウキの根を確認してから来ると、昨日の夕方に言っていた。


便箋を広げた。


レナードの筆跡だった。いつもより少しだけ行間が詰まっている。書く内容が多かったのだろう。


『婚姻承認申請書を、本日付で皇帝陛下に正式に提出しました。帝国議会への事前通達が行われ、本日より三十日間の異議申立て期間に入ります。』


三十日。


その数字が、工房の空気の中で重さを持った。


『異議申立ての権利を有するのは侯爵級以上の貴族十二家です。異議がなければ三十日の経過をもって、陛下が承認を裁定されます。』


読み進めた。


『なお、薬事法の法案作成が本格化しています。宰相府として、法案の条文に対応する実務上の根拠を整える必要があり、薬草顧問としてのあなたの参考意見を求める正式な召集を準備しています。詳細は追って通達します。』


公務の文面だった。宰相府の便で届く以上、私的な言葉は最小限に留められている。


けれど、末尾に一行。


『辺境の風は、まだ冷たいでしょうか。』


その一行だけが、公務の書簡から浮いていた。


私は便箋を畳み、棚にしまった。


竈の前に座った。


三十日。


レナードが帝都で手続きを進めている間、私は辺境で何をするのか。


待つのか。


待つだけでいいのか。


鍋の湯が沸き始めている。小さな泡が鍋肌に並ぶ。六十度。いつもの温度。


この温度を見極められるようになるまで、三年かかった。


待つことと、立ち止まることは違う。


三年前、この村に来た時、私は何もせずにいたわけではなかった。銀貨四枚とトウキの根三束で工房を始めた。毎朝竈に火を入れた。記録をつけた。一日も欠かさなかった。


待つ時間の中でも、手を動かすことはできる。


戸口が開いた。


「師匠、おはようございます。トウキ、今年は根の張りがいいです。来月にはもう一回採れます」


リーゼルが籠を抱えて入ってきた。頬が赤い。朝の山道を歩いてきたのだろう。


「おはよう、リーゼル。ありがとう」


「師匠、顔が難しいです」


「そう?」


「そうです。帳簿が合わない時の顔です」


リーゼルは籠を作業台に置いて、私の顔を覗き込んだ。


「何かあったんですか」


「書簡が届いたの。レナードから」


「宰相閣下から」


リーゼルの声が少しだけ改まった。公の場では宰相閣下と呼ぶことを、この子は弁えている。


「婚姻の承認申請が正式に出された。三十日間の異議申立て期間が始まったそうよ」


「三十日」


リーゼルが指を折った。


「長いですね」


「ええ」


「でも、短くもないですか? 師匠がこの工房を作るのに三年かかったんでしょう。それに比べたら」


「……そうね」


「それで、師匠はどうするんですか。ここで待ってるんですか」


リーゼルの問いは真っ直ぐだった。


「もう一つ、書簡に書いてあったの。薬事法の法案作成が進んでいて、宰相府から正式に召集がかかるかもしれない」


「薬事法って、師匠が諮問会議で提言したやつですよね」


「ええ。法案の条文に、私の調合日誌の記録を根拠として使う必要があるらしいの」


リーゼルは腕を組んだ。十五歳の少女がする仕草としては妙に堂々としている。


「じゃあ、行くんですね」


「まだ正式な召集は来ていないわ」


「来たら、行くんですね」


私はリーゼルの目を見た。


半年前、初めて帝都に出た時も、この子は送り出してくれた。工房を任せた。帳簿をつけ、薬草を管理し、村の人たちへの売り渡しも一人でやった。


また、この子に託すのか。


「リーゼル。あなたにばかり任せて、申し訳ないと思ってる」


「何がですか」


リーゼルが首を傾げた。


「あたしは翠風堂の実務責任者です。師匠が出てる間、工房を回すのがあたしの仕事です。任せてるんじゃなくて、あたしがやるんです」


「……リーゼル」


「それに、前と同じです。師匠が帝都で仕事してる間、あたしはここで仕事する。それだけです」


この子の言葉は、いつも簡潔で、いつも正確だった。


「師匠、行ってきてください」


リーゼルが笑った。


「帰ってきたら、新しい配合飲んでもらいますから」


私は頷いた。


喉の奥が詰まりそうになったが、飲み込んだ。泣く場面ではない。送り出す側も、送り出される側も、やるべきことがある。それだけのことだ。


三日後、宰相府から正式な召集状が届いた。


帝国公認辺境薬草顧問ヴィオレッタに対し、薬事法法案作成における実務参考人としての帝都出仕を命ずる。期間は法案の議会上程まで。宿舎は宰相府客館を手配する。


公印が押された、正式な文書だった。


婚姻のために帝都に行くのではない。公務として召集された。その形が整っていることに、レナードの配慮が見えた。


出立の朝、リーゼルが工房の前に立っていた。


「師匠」


「ん」


「帳簿、昨日の分まで全部つけてあります。トウキの在庫は二十日分。ヤナギソウは十五日分。カミツレは乾燥中が三束。注文帳も更新済みです」


「完璧ね」


「当然です」


リーゼルが胸を張った。


私は工房を振り返った。竈。乾燥棚。薬草の瓶が並ぶ棚。帳簿。調合日誌。


全部、ここにある。全部、この子が守ってくれる。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


馬車が村道を進み始めた。


窓の外にラーゼン村の風景が流れていく。翠風堂の看板が小さくなり、やがて見えなくなった。


座席の上に、ハインツからの書簡が置いてあった。出立前に定期便で届いたもので、開封が間に合わなかった。


封を切った。


短い文面だった。


『議会でお名前が取り沙汰されています。到着後、詳しくお伝えします。』


馬車が揺れた。


帝都への道は、前と同じ石畳だった。


けれど今回は、待つために行くのではない。自分の仕事をしに行く。


調合日誌を膝の上に置いた。三年分の記録が詰まった、この帳面が私の武器だ。


窓の外で、山あいの風が最後にひとつ吹いた。薬草の匂いがした。


翠風堂の匂いだった。

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