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【第5章開始!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第3章

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第10話「翠風の先へ」

私は竈に火を入れた。


朝の光が翠風堂の窓から差し込んでいた。山あいの風が乾燥棚の薬草を揺らし、瓶のラベルが微かに音を立てる。鍋に水を張り、火にかけた。いつもの朝と同じ動作。三年間、一日も欠かさなかった動作。


けれど今朝は、机の上に杯が二つ並んでいた。


レナードが辺境に来たのは昨日の夕方だった。馬車で十日。帝都からの長い旅路を経て、翠風堂の戸口に立った。宰相の正装ではなかった。濃紺の外套はなく、紋章もない。旅装の上着に、少しだけ埃がついていた。


「遠かったでしょう」


「遠かった」


それだけ言って、レナードは工房の椅子に座った。旅の疲れが顔に出ていた。私は何も訊かず、茶を淹れた。レナードはそれを飲み、「うまい」と言い、その夜は村の宿に泊まった。


今朝、レナードは翠風堂に来た。


戸を開けて入ってきた時、朝日が彼の背中から差していた。逆光の中で表情は見えなかったが、足取りは穏やかだった。


「おはよう、ヴィオレッタ」


「おはよう、レナード」


二人きりの工房。リーゼルには今朝は薬草の採取に出てもらった。何も言わなくても、あの子は察していた。「師匠、今日の朝は畑に行ってきます」と、少しだけ笑って出ていった。


鍋の湯が温まってきた。鍋肌に小さな泡がつき始める。六十度。


私は棚から薬草を取り出した。


呼吸の茶。レナードが初めて翠風堂を訪れた日に淹れた配合。あの時は薄荷と桔梗の根を基本にした、気道を楽にする茶だった。それから三年。季節ごとに少しずつ配合を変え、改良を重ねてきた。今の配合は、薄荷の量を最初の半分に減らし、代わりに菩提樹の花をひとつまみ加えてある。呼吸を楽にしながら、心も穏やかにする。三年間の記録の集大成だった。


薬草を湯に落とした。蓋をして、静かに待つ。


レナードが椅子に座ったまま、私の手元を見ていた。


「その配合は」


「あなたに初めて出した茶の、最終改良版」


レナードが少し目を見開いた。


「あの時の茶か」


「ええ。あの時は薄荷が多すぎた。今はもう少し穏やかな配合になっている」


蓋を開けた。薄荷と菩提樹の花が混ざった、すっきりとした中にほのかな甘みのある香りが立ちのぼった。


杯に注いだ。二つの杯に、同じ茶を。


一つをレナードに差し出し、もう一つを自分の手に取った。


レナードが杯を受け取った。一口含み、目を閉じた。


「……うまい」


同じ言葉。何度も聞いた言葉。けれど今朝のその言葉は、今までのどの「うまい」とも違って聞こえた。


レナードが杯を膝の上に置いた。


「婚姻の承認申請を、皇帝陛下に提出する」


私は杯を持ったまま、頷いた。


「帝国議会への事前通達を行い、三十日の異議申立て期間に入る。異議は侯爵級以上の貴族が提出できる。異議が出された場合は、陛下が最終裁定を下される」


制度の話だった。帝都の客館で聞いた時と同じ内容。けれど、今は翠風堂の中で聞いている。竈の火がぱちぱちと音を立てる中で。薬草の匂いに包まれた中で。


「その間に何があっても、私はあなたの隣にいます」


レナードの声が変わった。制度の声ではなかった。


私は杯を机に置いた。


「私も」


短い言葉だった。けれど、それで十分だった。帝都の夜に「はい」と答えた時と同じ重さが、その二文字にあった。


私はレナードの手に、自分の手を重ねた。


あの夜——翠風堂で手を重ねた夜は、レナードの方から重ねてきた。今度は、私から。


レナードの手は温かかった。旅の疲れが残っているはずなのに、指先まで温かい。


「レナード」


「ヴィオレッタ」


名前を呼び合った。二人きりの翠風堂で。竈の火の音と、窓の外の風の音だけが聞こえる中で。


レナードが私の手を軽く握り返した。そしてゆっくりと、私の額に唇を触れた。


目を閉じた。


柔らかな温度が、額の中央に触れていた。ほんの一瞬だったのか、長い時間だったのか、わからなかった。ただ、その温度が額から体の奥に沁みていくのを感じた。


目を開けた。


レナードの顔が近くにあった。目が合った。


何も言わなかった。何も言う必要がなかった。


窓の外で、風が吹いた。


山あいの風が翠風堂の乾燥棚を揺らした。菩提樹の花がかさかさと音を立て、薄荷の葉が微かに揺れた。


三年前の朝も、同じ風が吹いていた。


あの朝、私は一人でこの竈に火を入れた。何もなかった。工房の壁と、棚と、鍋と、一つの杯。それだけが私の世界だった。


今、机の上には二つの杯がある。


一つは私の杯。もう一つは、レナードの杯。


茶の湯気が、二つの杯から穏やかに立ちのぼっていた。窓からの朝日がその湯気を照らし、白く光った。


私は茶を作る人間だ。それは変わらない。


翠風堂は明日も開く。リーゼルが帰ってきて、竈の前に立つ。帳簿をつけ、薬草を量り、茶を煎じる。村の人たちが茶を買いに来る。トーマス村長が顔を出す。


そして、帝都では法案が動き、議会への通達が行われ、三十日の時間が流れ始める。


その全てが、この朝から続いていく。


レナードが杯を持ち上げ、もう一口飲んだ。


「美味い茶だ」


私も杯を持ち上げた。


翠風堂の朝は、明日も続く。


窓の外で、風が薬草を揺らしていた。二つの杯が、並んでいた。


(完)


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