第6話「帝の一杯」
三年前、私はこの都で全てを失った。
その記憶が、皇帝の書斎に向かう廊下を歩きながら、不意に足元から浮き上がってきた。石畳の模様、壁に掛けられた燭台の間隔、天井の高さ。宮廷の空気は三年前と何も変わっていない。変わったのは、この廊下を歩く私の方だ。
あの日は、指を差されて立っていた。
今日は、自分の足で歩いている。
手には、薬草を入れた包みが三つ。昨夜、客館の厨房で用意した配合。菩提樹の花を主体にしたもの、鳴子百合の根を中心にしたもの、そして蜜柑花を加えたもの。どれを使うかは、陛下のお話を聞いてから決める。
ハインツが前を歩いていた。宮廷の通路に入る手前で、彼が振り返った。
「この先は皇帝陛下の私的区画です。侍医官殿が入口でお待ちです」
「ありがとうございます」
侍医官は五十代の痩せた男だった。白い上衣に宮廷侍医の紋章を付けている。私に軽く頷き、「こちらへ」とだけ言った。余計な言葉がないのは、医療の人間だからだろう。必要なことだけを話す態度に、少し安心した。
書斎の扉が開いた。
広い部屋だった。壁一面の書架、大きな机、窓際に置かれた長椅子。机の上に書類が積まれているが、整然と分類されている。仕事をする人の部屋だった。
窓際の長椅子に、皇帝ヴィルヘルム陛下が座っておられた。
五十八歳と聞いていた。白髪が混じった髪に、深い皺。けれど目は澄んでいた。穏やかだが、何かを見定めるような静かな光がある。
レナードが陛下の左手に立っていた。宰相の正装。私と目が合ったが、表情は動かなかった。公の場での顔だった。
そして、扉の脇に侍従長フリードリヒが立っていた。
五十五歳。伯爵家出身の宮廷侍従長。面会申請を保留にした人物。私の顔を見たが、視線はすぐに逸れた。表情は読めなかった。ただ、口元が薄く引き結ばれていた。
陛下の命で解除された保留。この場に立ち会うことは、侍従長の職務だ。けれど、望んでここにいるのではないことは、その姿勢から伝わった。
私は部屋の中央まで進み、一礼した。
「帝国公認辺境薬草顧問のヴィオレッタと申します。本日はお時間を賜り、恐れ入ります」
陛下がゆっくりと頷かれた。
「顔を上げなさい」
声は低く、穏やかだった。
「宰相から聞いている。辺境で薬草の産業を興した女性だと」
「恐れ入ります。ラーゼン村で翠風堂という薬草茶の工房を営んでおります」
「翠風堂。良い名だ」
陛下は窓の外に目をやられた。
「侍医からも聞いた。先日の諮問会議で、薬草茶の品質基準について極めて実務的な提言を行ったと。三年分の記録に基づいた根拠だったそうだな」
「はい。工房を開いてから一日も欠かさず記録してまいりました」
「三年か」
陛下の目が、私に戻った。
「それは長い時間だ。余も長いこと、夜が長くてな」
不眠のことを、陛下ご自身が口にされた。侍医官が隣で小さく頷いた。
「どのような眠れなさでいらっしゃいますか」
私は訊いた。緊張はあった。けれど、この問いは村で何度もしてきた問いと同じだった。眠れない人の前に座り、どこがつらいのかを聞く。相手が皇帝であっても、やることは変わらない。
「寝つきが悪いのではない。途中で目が覚める。一度覚めると、もう眠れん」
「目が覚められるのは、決まった時刻ですか」
「深夜の鐘の前後が多い」
「その時、お体に不快な感覚はおありですか。動悸や、汗ばみや」
「いや、体はどこも悪くない。ただ、頭が動き出す。考えなくてもいいことを、考え始める」
私は頷いた。体の不調ではなく、思考の覚醒による中途覚醒。村の老人たちにも多かった症状だった。
「お持ちした配合が三種ございます。陛下のお話を伺い、一つお選びしたいのですが」
「選んでくれ」
私は包みを一つ開いた。菩提樹の花を主体にした配合。
「こちらは、頭の回転が静まりにくい方に向いた配合です。菩提樹の花には思考の速度を緩やかにする作用があり、鳴子百合の根が体を内側から温めます。深夜に目が覚めた後、再び眠りに落ちるまでの時間を短くする効果が見込めます」
侍医官が身を乗り出した。
「菩提樹の花は鎮静作用がある。だが、鳴子百合の根との配合は一般的ではないな」
「はい。通常は単体で用いますが、中途覚醒の場合は体温の低下が再入眠を妨げることがあります。鳴子百合の根を少量加えることで、鎮静と保温を同時に行えます。翠風堂で二年かけて試した配合です」
侍医官が黙って頷いた。
「では、淹れてよろしいでしょうか」
陛下が手を軽く上げられた。許可の所作だった。
書斎の奥に湯と道具が用意されていた。侍医官が手配してくれていたのだろう。
私は道具の前に立った。
鍋に湯を入れ、火にかけた。鍋肌に小さな泡がつき始める。湯面はほとんど動かない。六十度前後。菩提樹の花をひとつまみ、鳴子百合の根を指先でひとかけ。湯に落とし、蓋をして静かに待つ。
この動作を、何千回繰り返しただろう。
翠風堂の竈の前で。リーゼルに教えながら。村の老人たちのために。レナードのために。
そして今日、皇帝のために。
相手が変わっても、手の動きは変わらない。
蓋を開けると、ほのかに甘い香りが立ちのぼった。菩提樹の花特有の柔らかな香り。杯に注ぎ、両手で捧げ持って陛下の前に差し出した。
陛下が杯を受け取られた。
一口、含まれた。
しばらく、沈黙があった。
「……よい香りだ」
陛下の声は、先ほどより少しだけ低くなっていた。力が抜けたような、自然な声だった。
もう一口。
「温かいな。体の奥が温かくなる」
「鳴子百合の根の作用です。しばらくすると、手足の先まで温もりが届きます」
陛下が杯を膝の上に置き、私の顔を見た。
「宰相の隣にいる女性かと思って会ったが、違うな。あなたは茶を作る人だ」
私は一礼した。
「はい。私は茶を作る人間です」
陛下がほんの少し、口元を緩められた。笑みと呼ぶには小さすぎる動き。けれど、目の奥の光が温かくなったのは見えた。
「次の宮廷茶会に、この茶を出せるか」
部屋の空気が変わった。
侍医官が目を見開いた。レナードは微動だにしなかった。けれど、指先がわずかに動いたのが見えた。
フリードリヒは、沈黙していた。
宮廷茶会は皇帝の公式行事だ。出席には皇帝の許可がいる。陛下が「この茶を出せるか」と問うたことは、私に茶会への出席を許可したことと同じだった。
「——謹んでお受けいたします」
声が震えなかったのは、自分でも少し驚いた。
陛下が頷かれた。それ以上の言葉はなかった。
廊下に出ると、日が傾き始めていた。
ハインツが待っていた。侍医官が私に短く「良い茶でした」と言い、宮廷の奥へ戻っていった。
フリードリヒは、何も言わずに反対側の廊下へ去った。背中は真っ直ぐだったが、足音がいつもより速い、とハインツが小声で教えてくれた。
レナードは書斎に残っていた。宰相として陛下と話すことがあるのだろう。
客館の部屋に戻り、包みを片付けた。使わなかった二つの配合を元に戻し、使った配合の残量を確認した。茶会のためには、もっと量がいる。
辺境から取り寄せなければ。
机の上に便箋を広げた。リーゼルへの書簡。
書き出しに少し迷い、そのまま書いた。
「あなたが育てた薬草を、宮廷で使います」
筆を置いて、窓の外を見た。帝都の屋根が夕日に照らされている。
今日、私は皇帝に茶を淹れた。
認められたのは私ではない。茶が認められたのだ。三年間、毎日欠かさず記録し、配合を試し、改良を重ねた茶が。リーゼルが畑で育てた薬草が。翠風堂の竈で煎じた茶が。
私は茶を作る人間です、と陛下の前で言った。
それは、三年前にこの都で全てを失った日から、一日も変わっていない。
夕日が沈んでいく。帝都の屋根の向こうに、空が赤く染まっていた。




