第5話「眠れぬ夜」
誰かのために茶を淹れるとは、どういうことだろう。
私は客館の厨房の片隅に置かせてもらった調合台の前で、乾燥させた菩提樹の花を指先でほぐしながら、ふとそんなことを考えた。
村にいた頃は、答えなど必要なかった。咳が止まらない老人がいれば百里香を煎じ、眠りの浅い子どもがいれば鳴子百合の根を温めた。相手の顔を思い浮かべ、季節と体調を量り、手元の薬草から最も適したものを選ぶ。それだけのことだった。
帝都に来て十日余り。諮問会議での提言を終え、法務官との質疑を経て、私の日々は村にいた頃とは異なる緊張を帯びていた。
それでも朝と夜、調合台に向かう時間だけは変わらない。
今朝もレナードのための茶葉を量り終えたところで、厨房の小窓から薄い雲が流れているのが見えた。帝都の空は村より高く、そしていつも少しだけ白い。
昼過ぎ、部屋に戻って調合日誌の整理をしていると、レナードが訪ねてきた。
いつもの夜の時間ではない。昼に来るのは珍しかった。
椅子に腰を下ろさず、窓辺に立ったまま、いつもより言葉を選ぶような間があった。
「少し、聞いてほしい話がある」
私は日誌を閉じて頷いた。
彼が公務の話をこの部屋に持ち込むことは滅多にない。宰相府の執務室と客館の小部屋は、同じ建物の中にあっても別の世界のように扱われていた。その境を越えてくるということは、公務とは少し違う話なのだろうと思った。
「陛下の侍医官から、内々に相談があった」
侍医官。諮問会議の場にはいなかった人物の名前が、唐突に出た。
「陛下がここしばらく、よく眠れておられないらしい。侍医官は正規の薬湯をいくつか試したが、どれも芳しくないと言っていた。先日の諮問会議でのきみの提言——薬草の配合における体質と季節の関係についての話を、侍医官が覚えていてね」
「それで」
「個人的に関心を持っている、ということだった。公式な治療依頼ではない。ただ、きみの知見に興味がある、と」
私はしばらく黙った。
皇帝の不眠。その言葉の重さは、村で子どもの寝つきが悪いと相談された時とは比べものにならない。
けれど、私の頭に最初に浮かんだのは、政治的な意味でも宮廷での立場でもなかった。
「眠れないのは、つらい」
独り言のように呟いてから、レナードを見た。
「私にできることがあるなら、やりたい。不眠に向く配合はいくつか知っている。体質やどのような眠れなさかによって選ぶものは変わるけれど、まず話を聞ければ、見立ては出せると思う」
レナードの表情がわずかにやわらいだ。
「ありがとう。では、まず侍医官を通じて段取りを整えよう。きみが陛下にお目にかかるための面会申請を——」
「レナード」
私は静かに遮った。
「あなたの権限は使わないでほしい。前にもお願いしたこと、覚えているでしょう」
レナードは口を閉じた。
覚えている、という顔だった。あの夜——石畳を踏む音だけが響いていた帝都最初の夜にも、同じことを言った。宰相の立場で道を拓くのではなく、正規の手続きで進めてほしい、と。
「わかっている」とレナードは言った。「面会申請は、侍医官の報告を通じて正式な手順で提出する。私が口添えする形にはしない」
翌日、侍医官を経由して面会申請が宮廷侍従局に提出された。
私の名と、薬草顧問としての肩書き、そして侍医官の所見が添えられた簡潔な書面だった。
三日が過ぎた。返答はなかった。
ハインツが廊下で声を低くして教えてくれた。申請書は侍従局に届いてはいるが、侍従長フリードリヒの手元で「保留」の扱いになっているという。
「理由は、こうだそうです。『平民が皇帝陛下に直接茶を提供した前例がなく、宮廷儀礼の観点から慎重な検討を要する』と」
驚きはなかった。
帝都に来てから、こうした壁には何度か触れていた。客館で下階を割り当てられたこと、諮問会議の席次が末席だったこと。いずれも直接的な悪意というよりは、身分と前例に基づく秩序が自然と作り出す境界線だった。
侍従長の判断もまた、その延長にあるのだろう。
「ハインツ殿、ありがとうございます。申請が届いているなら、待ちます」
ハインツは少し言いたげな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
その夜、いつもの時間にレナードが来た。
私は黙って茶を差し出した。レナードは保留の件をすでに知っている様子だった。
「フリードリヒ侍従長は、権限の範囲で判断しているのだと思う」と私は言った。「無理に動かそうとしないでほしい」
レナードは茶碗を受け取り、一口含んでから答えた。
「きみの意思は尊重する。ただ、侍医官には事実を正確に伝えるつもりだ。きみの見立てが可能であること、配合の準備が整い次第対応できること。それは口添えではなく、報告だ」
少し考えてから、小さく頷いた。
事実を伝えることと、権力で道を開くことは違う。その区別をレナードが守ろうとしていることは、わかった。
さらに二日が経った。
動いたのは、皇帝ご自身だった。
侍医官がいつもの夜の診察の折、陛下に経過を報告した。薬湯の効果が依然として芳しくないこと、諮問会議で提言を行った薬草顧問が不眠向けの配合に通じていること、面会申請が出されていること。
侍医官は淡々と事実だけを述べたという。
皇帝ヴィルヘルム陛下は、しばらく天井を眺めておられたと聞いた。
それから、こうおっしゃったという。
「その薬草顧問に会ってみたい」
侍従長フリードリヒの「保留」は、陛下の一言で解除された。
前例がないという理由は、皇帝ご本人の意志の前には手続き上の障壁でしかなかった。
翌朝、侍従局から正式な通知が届いた。
面会は明日の午後、皇帝の私的な茶の間にて。形式は非公式の接見とする、と記されていた。
私はその書面を読み終えると、すぐに厨房の調合台に向かった。
持参した薬草の中から、不眠に効くものをいくつか取り出す。菩提樹の花、乾燥させた鳴子百合の根、それから西の山地で採れる蜜柑花。
まだ陛下の体質も、不眠の性質もわからない。だから決め打ちはしない。いくつかの可能性を想定して、基本の配合を三種類用意しておく。
あとは明日、実際にお話を聞いてから決める。
夜、いつものようにレナードが来た時、調合台の上に並んだ三つの小さな包みを見て、彼は何も訊かなかった。
ただ、私が差し出す茶を受け取りながら、静かに言った。
「きみの茶は、いつもよく眠れる」
私は答えなかった。
ただ、自分の分の茶碗を持ち上げて、一口飲んだ。
窓の外に帝都の夜が広がっている。
明日、顔も知らない方のために茶を淹れる。それは村にいた頃と何も変わらない。ただ、相手が誰であっても、眠れない夜がつらいことだけは同じだ。
三つの包みの上に、窓からの淡い月明かりが落ちていた。




