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【第5章完結!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第3章

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第4話「声と視線」

私は調合日誌を開き、会議室の机の上に置いた。


宰相府本館二階。薬事法諮問会議の部屋は、窓の大きな明るい広間だった。長い楕円の卓の周囲に椅子が並び、卓の中央に水差しと杯が用意されている。


ハインツが案内してくれた席は、卓の端に近い位置だった。発言者席ではなく、顧問として意見を求められた時に答える位置。身分を考えれば妥当だ。


出席者が順に入ってきた。


宰相府の法務官。四十代の男で、帳簿を抱えている。財務官。五十代の女性で、眼鏡をかけた実務家然とした風貌。神殿の薬師代表。白い法衣を着た三十代の男。


そして傍聴席に、数名の貴族夫人が並んだ。


華やかな衣装。整えられた髪。扇で口元を隠しながら、互いに何か囁き合っている。


その視線が、私に向けられていた。


見られることには慣れている。辺境の村では「帝都から来た変わった女」として見られた。今は「宰相府に出入りする平民の女」として見られている。


視線の質が違うだけだ。


レナードが入室した。


宰相としての正装。濃紺の外套に宰相府の紋章。背筋を伸ばし、部屋の正面の席に着いた。


私と目が合った。


一瞬だった。ほんの一瞬だけ、目元が緩んだ。それからすぐに、宰相の顔に戻った。


「薬事法諮問会議を開催いたします」


レナードの声が部屋に響いた。


「本日の議題は、辺境薬草茶の品質基準および安全管理に関する法的枠組みの策定です。帝国公認辺境薬草顧問のヴィオレッタ殿に、現場の知見に基づく提言をお願いいたします」


「ヴィオレッタ殿」と呼ばれた。公の場での呼称。


私は席を立ち、一礼した。


「帝国公認辺境薬草顧問のヴィオレッタと申します。本日は薬草茶の品質管理と安全基準について、工房での三年間の実務に基づいた提言をさせていただきます」


調合日誌を開いた。


「まず、薬草茶の品質を左右する要素は大きく三つあります。原料の品質、調合の精度、そして保存管理です」


法務官が筆を取り、書き始めた。


「原料の品質について申します。同じ薬草であっても、採取時期が一週間異なれば有効成分の含有量は大きく変わります。翠風堂では、採取時期ごとの成分変動を三年間記録し、最も品質が安定する採取期間を特定しています」


調合日誌の該当頁を示した。日付、採取場所、葉の色、茎の太さ、香りの強さ。三年分の記録が並んでいる。


「この記録に基づき、品質基準の第一項として『採取適期の指定』を提案いたします。薬草ごとに最適な採取時期を定め、その期間外に採取されたものは流通品として認めない仕組みです」


法務官が頷いた。財務官が眼鏡の奥で目を細めた。


「次に、調合の精度です。薬草茶の効能は、煎じる温度と時間で大きく変わります。高温で煎じると一部の有効成分が壊れ、低温では十分に抽出されません」


日誌の別の頁を開いた。温度ごとの成分変動を記録した表。


「翠風堂では六十度前後を基準温度としておりますが、薬草の種類によって最適温度は異なります。品質基準の第二項として『品目ごとの調合条件の標準化』を提案いたします」


神殿の薬師代表が手を挙げた。


「失礼ですが、温度管理はどのように行うのですか。温度計を使わずに六十度を判別する方法があるとは思えないのですが」


「鍋肌の泡の大きさと、湯面の蒸気で判断しています。六十度前後では鍋底に小さな泡がつく程度で、湯面はほとんど動きません。これは経験則ですが、一定の訓練を積めば再現可能です」


「訓練とは、どの程度の期間を」


「私の助手は半年で習得しました。基準書と実地指導を組み合わせれば、特別な才能がなくても身につけられる技術です」


薬師代表が黙って頷いた。


「最後に、保存管理です。乾燥した薬草は湿気と直射日光で劣化します。品質基準の第三項として『保存条件の規定と有効期間の設定』を提案いたします」


三つの提案を述べ終え、私は日誌を閉じた。


「以上が、三年間の実務から導いた品質基準の骨子です。詳細な数値と根拠は、この調合日誌に全て記録されております。必要であれば、法務院への提出用に写しを作成いたします」


部屋が静かだった。


法務官が筆を置き、私の顔を見た。


「極めて実務的で有用な提言です。法案の骨子に直接反映できる水準かと存じます」


財務官も頷いた。


「流通規制の根拠として、これほど具体的な基準が示されたのは初めてです。採取適期の指定は、品質保証と同時に不正流通の抑止にも機能します」


レナードは発言しなかった。宰相として会議を主催する立場であり、個別の提言への評価は避けている。けれど、議事録を取る書記官に向けて小さく頷いたのが見えた。


提言は正式に議事録に記録された。


会議が終わり、出席者が退室していく中、私は日誌を片付けていた。


傍聴席の貴族夫人たちが、廊下に出る間際に囁き合う声が聞こえた。


聞こえるように、ではなかった。聞こえないつもりで話している声が、広間の石壁に反響して届いてしまっただけだ。


「平民の女が宰相府で講釈を垂れるなんて」


「宰相閣下のお気に入りでしょう。だから呼ばれたのよ」


「愛妾が公務を装っているだけではなくて」


声は廊下の向こうに消えた。


私は日誌を鞄に入れる手を止めなかった。


聞こえていた。全部聞こえていた。


けれど、手は震えなかった。


三年前の断罪の場で浴びた言葉に比べれば、これは囁きに過ぎない。あの日は、宮廷の広間で大勢の貴族の前に立たされ、皇太子に指を差され、婚約者に捨てられた。


今日の声は、壁の向こうの陰口だ。


私は鞄の紐を締め、席を立った。


廊下に出ると、ハインツが待っていた。


「ヴィオレッタ殿。会議はいかがでしたか」


「無事に提言を終えました。議事録にも記録されたとのことです」


「それは何よりです」


ハインツと並んで客館へ向かう廊下を歩きながら、私は前を向いた。


「ハインツ殿」


「はい」


「先ほどの会議の傍聴者の方々について、何かお耳に入っていることはありますか」


ハインツが一瞬、歩調を緩めた。


「……社交界の一部で、ヴィオレッタ殿の帝都出仕について好意的でない声があることは、把握しております」


「具体的には」


「『宰相の愛妾が公務を装っている』との中傷が、複数の夫人の間で広まっているようです」


声に出して言われると、腹の底にずしりと重いものが落ちた。


けれど、立ち止まらなかった。


「ありがとうございます。把握しておきます」


「宰相閣下にはお伝えいたしますか」


「いいえ。今はまだ結構です」


ハインツが頷いた。


客館の下階の部屋に戻り、鞄を机に置いた。窓の外には中庭の石壁が見える。


椅子に座り、目を閉じた。


仕事は認められた。法務官の評価は本物だった。財務官も、薬師代表も、私の提言を正面から受け止めた。


それは事実だ。


社交界の中傷も事実だ。


二つの事実が、同じ一日の中に並んでいる。


私は茶を作る人間だ。社交の人間ではない。


三年前に公爵令嬢の仮面を脱いだ時、社交界での立ち回りも一緒に脱いだ。今さら着直すつもりはない。


けれど、ここは帝都だ。社交界の声は、政治に影響する。中傷が広がれば、レナードの立場にも響く。


それが怖い。


自分が傷つくことは、もう慣れた。


この人を傷つけることが、怖い。


机の上で、持ってきた薬草の包みに手を伸ばした。


トウキの根を指先で触れた。乾燥した根の硬い感触。翠風堂の匂い。


大丈夫。


私の仕事は、認められた。議事録に残った。法案の骨子に反映される。


それは誰の陰口でも消せない事実だ。


窓の外で、夕暮れの鐘が鳴った。


今日の鐘は、昨夜より少しだけ近く聞こえた。


その夜、レナードが客館を訪れた。


「今日の会議の議事録を確認しました。法務官が高く評価しています」


「ありがとうございます。受け入れていただけてよかった」


「あなたの知見は、この法案の根幹になります」


レナードは椅子に座り、私が淹れた茶を受け取った。


一口含んで、目を閉じた。


「……うまい」


いつもと同じ言葉。いつもと同じ顔。


けれど今夜は、その言葉がいつもより深く沁みた。


仕事で認められた日の夜に、この人が「うまい」と言ってくれる。


それだけで、社交界の声が遠くなる。


レナードが杯を置いた。少し間があった。


「それと、もう一つ。侍医官が諮問会議の話を聞いて、少し関心を示しているようだ。詳しいことはまた改めて話す」


何のことだろう、と思った。けれどレナードの口調は軽かった。今夜の本題ではないのだろう。


「わかりました」


「明日も、会議はありますか」


「三日後に第二回があります。それまでは資料の整理期間です」


「では、明日は茶の配合を少し試してみたいのですが、客館の厨房を使わせていただけますか」


レナードが少し驚いた顔をした。


「帝都で新しい配合を」


「ええ。帝都の水は辺境と違うから、同じ配合でも味が変わるんです。水に合わせた微調整をしておきたくて」


「……もちろんです。手配します」


レナードの目が、柔らかくなった。


私が帝都でも茶を作ろうとしていること。それが、この人には嬉しいのだろう。


「お茶を淹れる場所があれば、私はどこでも大丈夫です」


言ってから、自分の言葉に少し驚いた。


大丈夫。


本当に、大丈夫だと思っている。


レナードが杯を置き、立ち上がった。


「おやすみなさい、ヴィオレッタ」


「おやすみなさい、レナード」


戸が閉まった後、私は机の上の調合日誌を開いた。


今日の会議の内容を記録する。日付、場所、出席者、提言内容、反応。


三年前から一日も欠かさず続けてきた記録の習慣が、今日も私の手を動かしている。


翠風堂の帳簿はリーゼルが守っている。


この日誌は、私が守る。


帝都の夜は静かだった。


筆を走らせる音だけが、小さな部屋に響いていた。

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