第3話「石畳の音」
帝都の空は、やはり狭かった。
馬車の窓から見上げた空は、白い尖塔と灰色の屋根に切り取られて、細長い帯のようだった。辺境の空を見慣れた目には、それだけで息が詰まる。
十日間の旅路だった。宰相府が手配した馬車は乗り心地が良く、途中の宿も快適だったが、石畳に車輪が乗った瞬間、身体の奥に冷たいものが走った。
三年ぶりの帝都ヴェルクハイム。
三年前、この石畳の上を歩いて出ていった。行き先もなく、持ち物もなく、ただ歩いた。あの時の足音を、まだ覚えている。
今は違う。
宰相府の召集状を懐に持ち、帝国公認辺境薬草顧問として、公務のためにここにいる。
馬車が宰相府の正門前で停まった。
門の脇に、見覚えのある姿が立っていた。
ハインツ。レナードの護衛騎士。辺境の村で工房の外に控えていた男だ。あの時と同じ、背筋の伸びた姿勢で待っている。
「ヴィオレッタ殿。長旅お疲れさまでございました。宰相閣下の命により、滞在中のご案内を務めさせていただきます」
「ありがとうございます、ハインツ殿。お世話になります」
ハインツが馬車の荷を下ろし、宰相府の敷地内へ案内してくれた。
白い石造りの建物が並ぶ宰相府の一画に、客館があった。外壁は本館と同じ白だが、規模は小さい。公務で帝都に滞在する地方の役人や顧問が使用する施設だと、ハインツが説明してくれた。
客館の入口で、一人の男が待っていた。
五十代半ば。痩身で背が高く、灰色の髪を整えた男。宮廷の紋章が入った外套を身に着けている。
「宮廷侍従長のフリードリヒ・ゲルナーと申します」
一礼は丁寧だったが、目は冷ややかだった。
「客館の使用について、一点お伝えいたします。平民の方の滞在は、客館の下階に限定する規定がございます。上階は爵位を持つ方のために確保されておりますので、ご了承ください」
声に悪意はなかった。事務的な通達の口調だ。けれど「平民の方」という言葉が、空気の中で硬く響いた。
ハインツの表情がわずかに動いた。何か言いかけて、止めた。
「承知いたしました」
私は頷いた。
侍従長が踵を返し、宮廷の方角へ去っていった。
ハインツが私のほうを見た。
「ヴィオレッタ殿。宰相閣下にお伝えすれば、宰相府管轄の別室を手配することも——」
「そのままで構いません」
私はハインツの言葉を遮った。
「私は平民です。平民として扱われることは、承知の上で参りました」
ハインツは数秒間、私の顔を見つめた。
それから、静かに頷いた。
「承知いたしました。では、お部屋にご案内いたします」
客館の下階。
部屋は狭かったが、清潔だった。窓は小さく、見えるのは中庭の石壁と、その上にわずかに覗く空だけだ。
荷を解きながら、窓の外を見た。
辺境の工房の窓からは、山の稜線と広い空が見えた。ここからは壁と空の欠片。
それでいい。
私はここに景色を見に来たのではない。
荷物の中から、三年分の調合日誌と原料管理台帳を取り出し、机の上に並べた。薬事法諮問会議のための資料。これが私の武器だ。
それから、もう一つ。旅の荷に忍ばせてきた小さな包み。乾燥させたトウキの根と、カモミールの花芽と、甘草の細片。最低限の調合ができるだけの薬草を持ってきていた。
竈がなくても、湯さえあれば茶は淹れられる。
机の上に薬草を並べていると、戸が叩かれた。
「入ってください」
戸が開いた。
レナードが立っていた。
濃紺の外套。宰相の紋章。けれど目元は、辺境の工房で茶を飲んでいた時と同じ柔らかさだった。
「お疲れさまでした。長い道中だったでしょう」
「ええ。でも、無事に着きました」
レナードが部屋に入り、戸を閉めた。
二人きりになった。
「侍従長の件は聞きました」
レナードの声に、静かな硬さがあった。
「ハインツから報告が」
「ええ。客館の部屋割りは侍従長の管轄です。私の権限で変更することは可能ですが」
「しないでください」
私は椅子に座ったまま、レナードを見上げた。
「あなたの権限で私を守ることが、あなたを攻撃する口実になります。弾劾の件を忘れてはいません」
レナードが口を閉じた。
弾劾。宰相の私的行動を攻撃材料にしようとした派閥貴族の動き。あれは不成立に終わったが、口実が消えたわけではない。宰相が平民の顧問を特別扱いしたという事実は、次の攻撃材料になり得る。
「あなたが正しいことはわかっています」
レナードの声は低く、感情を抑えていた。
「わかっていても、あの部屋に——」
「レナード」
私は名前を呼んだ。二人きりの場で使う、肩書きのない名前。
「私はここに、自分の足で立ちに来ました。あなたの力で守られるためではなく」
レナードは黙って私を見た。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……わかりました」
合理的な判断として受け入れた、という顔だった。けれど、目の奥にある苛立ちは消えていない。自分の力で解決できることを、あえてしないことへの苛立ち。
この人らしい、と思った。
制度で全てを整えようとする人だ。けれど今、私が求めているのは制度の力ではない。
「お茶を淹れましょうか」
私は机の上の薬草を指した。
「竈はありませんが、湯があれば」
レナードの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「客館の厨房に湯はあります。持ってこさせましょう」
「いいえ、自分で取りに行きます。場所を教えてください」
レナードが一瞬、何か言いたそうな顔をした。それから、小さく笑った。
「一階の廊下を突き当たって右です」
「ありがとう」
厨房で湯を汲み、部屋に戻った。
トウキの根を量り、杯に入れ、八十度ほどに冷ました湯を注ぐ。三分蒸らす。
帝都の客館の、狭い部屋の中で。
やっていることは翠風堂と同じだった。
杯をレナードに差し出した。
レナードが両手で受け取り、一口含んだ。
「……うまい」
「旅の疲れには、これが一番です」
「あなたの疲れは」
「私は淹れる側ですから、淹れている間に落ち着きます」
レナードが杯の上で、ほんの少しだけ目を細めた。
二人で茶を飲んだ。
帝都の夜は辺境より暗い。建物の影が重なり合って、窓の外は闇に近い。
けれど部屋の中には、薬草の匂いと、茶の湯気と、もう一人の温度があった。
「明日から薬事法諮問会議が始まります」
レナードが杯を置いた。宰相の声に戻っている。
「出席者は宰相府の法務官、財務官、神殿の薬師代表。傍聴として数名の貴族が入ります。あなたの提言の場は確保されています」
「わかりました。資料は準備してあります」
「会議室は宰相府の本館二階です。ハインツが案内します」
「ありがとうございます、宰相閣下」
公の場の呼称に戻した。レナードはそれを聞いて、わずかに眉を動かした。
けれど何も言わなかった。
「では、今夜はこれで」
レナードが立ち上がり、戸口に向かった。
振り返った。
「おやすみなさい、ヴィオレッタ」
二人きりの声で、名前を呼んだ。
「おやすみなさい、レナード」
私も返した。
戸が閉まった。
一人になった部屋で、私は窓際に立った。
小さな窓から見える帝都の夜空。尖塔の先端が、暗い空にかすかに浮かんでいる。
三年前、この街で全てを失った。
今、この街に、自分の意志で立っている。
下階の狭い部屋。平民の扱い。冷ややかな侍従長の目。
それでも、足元は確かだった。
机の上に並んだ三年分の帳簿。持ってきた薬草の束。そして、さっきまでこの部屋にいた人の温度。
翠風堂の竈はここにはない。
けれど、茶を淹れる手は同じだ。
明日、あの手で、この街の人間たちの前に立つ。
薬草茶の工房主として。
それだけで十分だ。
それ以上のことは、今は考えない。
窓の外で、帝都の鐘が遠く鳴った。夜の十時を告げる鐘だった。
辺境では聞こえない音だ。
私はその音を聞きながら、明日の会議の段取りを頭の中で組み立てた。




