第2話「村長の頼み」
「ヴィオレッタさん、ちょっといいかね」
朝の仕込みを終えた工房に、トーマス村長が顔を出した。
昨晩の続きだ。昨日は「帝都に行くなら頼みがある」という言葉で終わっていた。あの後、私は返書を書き上げて眠りについたが、村長の目の真剣さが頭に残っていた。
「どうぞ、村長。お茶を淹れますね」
「ああ、すまんな」
村長は竈の前の椅子に腰を下ろした。杖を膝に立てかけ、工房の中を見回す。棚に並ぶ瓶、乾燥棚の薬草、帳簿の山。この景色を、村長は三年間見続けてきた。
ヤナギソウの煎じ茶を杯に注いで差し出すと、村長は両手で受け取り、一口含んだ。
「うむ。やっぱりこれが一番効くわ」
「村長の膝には、この配合が一番合っていますから」
「ありがたいこっちゃ」
杯を膝の上に置いて、村長が口を開いた。
「昨晩の話の続きじゃが」
「はい」
「帝都で薬事法とやらを作るんじゃろう。薬草茶の品質だの、売り方の決まりだの」
「ええ。宰相府が法的な枠組みを整備する方針だそうです」
「それはつまり、今まで何の決まりもなく売っとったものに、お上の決まりがつくということじゃな」
村長の言い方は素朴だったが、本質を突いていた。
「その通りです。今の翠風堂の茶は、私が独自に定めた品質基準で管理しています。けれどそれは法的な裏付けのない個人の基準で、宰相府の公認があるとはいえ、法律上は未整備のままです」
「法がなければ、誰かが『この茶は危ない』と言い出した時に守るものがない。前にあった毒物告発の時のようなことが、また起きかねんわけじゃ」
あの営業停止の日々を、村長も覚えている。翠風堂の竈に火が入らなかった一月半。村の収入が途絶えた日々。
「じゃから、頼みたいんじゃ」
村長が背筋を伸ばした。元帝国兵の姿勢だった。
「帝都で、この村の茶をちゃんとしたものとして認めてもらえんか。法律で守ってもらえんか。わしらは薬草を育てて、選別して、乾かして、茶にして売っとる。それがこの村の暮らしじゃ。その暮らしを、紙の上でも守ってほしい」
私は村長の顔を見た。
五十八年の歳月が刻んだ皺。日に焼けた肌。白髪交じりの短い髪。
この人は三年前、身元も聞かずに私を受け入れてくれた。「あんたはこの村の恩人じゃ」と言ってくれた。
その人が、今、私に頼んでいる。
村の未来を。
「わかりました」
私は頷いた。
「私にできることがあるなら、やります。薬草茶の品質基準と安全管理の仕組みを、法律の形にするための提言を準備します」
「頼んだよ」
村長が目を細めて笑った。
杯の茶を飲み干し、立ち上がる。
「あんたが帝都にいる間、村のことはわしが見とく。リーゼルの嬢ちゃんも頼りになるしな」
「ええ。あの子は、もう立派に工房を回せます」
「そうじゃな。あんたがそう言うなら、間違いないわ」
村長が工房を出ていった。
杖の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
私は作業台に向かい、帳簿を開いた。
翠風堂の三年分の記録。調合日誌、原料の産地証明、成分の安定条件、販売先と日付。
この記録が、帝都での提言の根拠になる。
同時に、帝都出仕中の翠風堂の運営計画を立てなければならない。
紙を広げ、書き出した。
まず調合工程。常時扱っている八種類のうち、定番の四種類はリーゼルが調合できる水準に達している。残り四種類は配合が複雑で、私がいなければ品質を保てない。
対策は二つ。出発前に複雑な四種類の在庫を多めに仕込んでおくこと。それから、リーゼルが判断に迷った場合の基準書を、より詳しく書き直すこと。
次に選別・乾燥工程。これは村の女性たちのチームが安定している。基準書も整備済みで、リーゼルが取りまとめれば問題ない。
帝都の商会への納品スケジュール。月に二回の定期便。出仕期間が一月を超える場合は、在庫の前倒し出荷が必要になる。商会への連絡も事前に済ませておかなければ。
書き出しているうちに、紙が三枚目に入った。
一人の不在が、これほど多くのことに影響する。
三年前は、一人でも困らなかった。失うものがなかったから。
今は違う。守るものがある。守るものがあるから、離れることの重さがわかる。
けれど、離れることの重さがわかるからこそ、準備ができる。
「師匠」
リーゼルが戸口に立っていた。
「今日の採取、北の斜面に行ってきます。トウキの根と、カモミールの追加分」
「お願いね。トウキは三年もの以上を選んで」
「わかってます。茎の太さと根の色で見分けるんですよね。五年ものは根が赤黒くて、三年ものは薄い茶色」
「正解」
リーゼルが籠を背負って出ていこうとした時、私は呼び止めた。
「リーゼル」
「はい」
「帰ってきたら、帳簿の引き継ぎをしましょう。あなたに翠風堂の全工程の責任者を任せるための準備よ」
リーゼルの目が大きくなった。
「全工程の、責任者」
「そう。調合の最終判断も含めて。もちろん、複雑な配合は在庫を作っておくし、基準書も書き直す。でも、何かあった時に判断を下すのはあなたよ」
リーゼルは数秒間、黙って私の顔を見ていた。
それから、ぎゅっと籠の紐を握り締めた。
「はい。やります」
「頼りにしてるわ」
リーゼルが飛び出していった。赤毛が朝の日差しに揺れて、工房の前の道を駆けていく。
午後、リーゼルが採取から戻ってきた。籠には質の良いトウキの根とカモミールの花芽がぎっしり詰まっている。選別の精度は完璧だった。
「では、始めましょう」
私は作業台の上に帳簿を三冊並べた。
調合日誌。原料管理台帳。そして売上・納品記録。
「この三冊が翠風堂の背骨よ。毎日必ず記入して、数字を合わせる。一日でも空けると、後から辻褄が合わなくなる」
「はい」
「調合日誌には、使った薬草の種類と量、煎じの温度と時間、完成品の色と香りを必ず書くこと。これがないと、次に同じものを作れなくなる」
「師匠がずっとやってたことですよね。あたし、毎日見てました」
「見ていたのと自分で書くのは違うわ。やってみなさい」
リーゼルに今日の調合を任せた。
ヤナギソウの煎じ茶。定番の配合。乾燥した葉を量り、温めた急須に入れ、六十度の湯を注ぐ。
リーゼルの手つきは安定していた。湯の温度を鍋肌の泡で判断し、蒸らし時間を自分で計る。
「三分。はい、できました」
杯に注がれた茶の色を見た。淡い黄緑。濁りなし。香りは青みがかった清涼感。
一口含んだ。
「合格よ」
リーゼルの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、帳簿に記入してみて」
リーゼルが調合日誌を開き、筆を取った。
日付、使用薬草、量、温度、時間、完成品の状態。一つ一つ丁寧に書いていく。
その字を見て、私は少し胸が詰まった。
リーゼルの字は丸みがあって少し大きい。私の字とは全然違う。公爵家仕込みの整った筆跡ではなく、村で覚えた素朴な字。
けれど、読みやすかった。
数字は正確で、項目に漏れがない。
「よくできたわ」
「ほんとですか」
「ええ。あなたの字は、あなたらしくていい」
リーゼルが照れたように鼻をこすった。
帳簿の引き継ぎは夕方まで続いた。売上記録の読み方、納品伝票の書き方、在庫の棚卸し手順。
全てを終えた時、リーゼルは帳簿を閉じて、表紙を手のひらで撫でた。
「師匠」
「なに」
「この帳簿、一番最初のページ、見てもいいですか」
私は少し迷って、頷いた。
リーゼルが帳簿の最初のページを開いた。
三年前。この村に辿り着いた最初の日に書いた記録。
字が震えていた。
薬草の名前も、量の数字も、全部震えた線で書かれている。あの日の私の手は、まともに筆を持てないほど冷えて、疲れて、怯えていた。
リーゼルは黙ってそのページを見つめた。
それから、帳簿を閉じた。
「あたし、この帳簿を絶対に守ります」
声は静かだったが、震えてはいなかった。
「師匠が帝都にいる間も、一日も空けません。師匠が帰ってきた時に、帳簿がちゃんと繋がってるようにします」
私は何も言えなかった。
言えなかったのではない。
言葉にすると、泣きそうだったからだ。
代わりに、リーゼルの頭にそっと手を置いた。
赤毛の手触りは柽やかで温かかった。
夕暮れ。工房の窓から、辺境の空が見えた。
リーゼルが帰った後、私は棚の上から宰相府への返書を取り出した。昨晩書いたもの。公的な召集に応じる意志を伝える文面。
封筒を開け、もう一枚、紙を加えた。
村長の頼み。薬草茶の法的保護。村の産業としての正式な認可。
それを、帝都での提言に含める旨を簡潔に書き添えた。
個人の感情だけではない。
村の未来を守るという公的な動機が、帝都に行く理由に加わった。
レナードに伝えたいことは他にもあった。けれど、それは書簡には書けない。会った時に、声で伝える。
封をし直した。
明日の朝、宰相府の定期便にこれを託す。
数日後、正式な召集状が届くだろう。
作業台の上には、リーゼルが今日初めて書いた調合日誌のページが開いたままだった。
丸い字。正確な数字。漏れのない記入。
私はそのページを見ながら、小さく笑った。
三年前の震える字と、今日のリーゼルの字。
翠風堂の帳簿は、続いていく。
私がここにいなくても。
窓の外で、風が乾燥棚の薬草を揺らした。
春の風だった。




