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【第5章完結!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第2章

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第10話「翠風の続き」

私は竈に火を入れた。


いつもと同じ朝だった。薬草棚の瓶を順に確認し、トウキの残量を帳簿に記す。リーゼルはまだ来ていない。昨日、「明日の午前は帳簿の棚卸しやります」と言っていたから、昼前には来るだろう。


窓を開けた。


山あいの空気が入ってきた。春の匂い。雪は溶けきって、工房の裏手には若草が伸び始めている。


今日、レナードさんが来る。


書簡に日付が指定されていた。三度目の私人訪問。護衛なし、公的書類なし。弾劾が片づいた後の、初めての訪問。


棚の奥から、小さな紙包みを取り出した。


改良を重ねた配合。甘草を減らし、蒸らしの時間を調整し、余韻が長く残るように仕上げたもの。


何度も試作した。リーゼルに「練習ですか」と聞かれて、答えなかった。


練習ではない。


この人のために作った茶だ。


昼過ぎ。


工房の戸が叩かれた。


「入ってください」


戸が開いた。


レナードさんが立っていた。


紋章はない。剣も帯びていない。護衛もいない。仕立てのいい外套だけが、辺境の風景の中で静かに浮いている。


変わらない。この人は変わらない。


けれど、目元が少しだけ柔らかくなっていた。弾劾の対処で張り詰めていた時とは違う。肩の力が抜けている。


「お久しぶりです」


私は作業台の前から一歩出て、頭を下げた。


「お待ちしていました」


「ありがとうございます」


レナードさんが椅子に腰を下ろした。いつもの椅子。いつもの場所。


私は竈の前に戻った。


鍋に湯を張る。温度を見る。蒸気の立ち方と、鍋肌の泡の大きさ。前より少し低い温度。この人の飲み方に合わせた温度。


紙包みを開いて、刻んだトウキと甘草を土瓶に入れた。湯を注ぐ。蓋をして、三分。


蓋を開けた。


香りが立った。丸くて、柔らかくて、奥に甘さが残る。今までで一番いい配合だった。


杯に注いだ。淡い琥珀色。


レナードさんの前に置いた。


「前にお出ししたものを、また少し変えました」


レナードさんが杯を持ち上げた。両手で。湯気の匂いを吸い込んで、口をつけた。


今日は冷まさなかった。温度を下げたことに、気づいている。


長い沈黙があった。


「……余韻が、長くなりましたね」


「はい。少し調整しました」


「美味い」


短い言葉。けれど、杯を置く手がゆっくりだった。名残惜しそうに。


「これは仕事ではありません」


私は言った。


同じ言葉。前にも言った言葉だった。けれど、今の声は前より確かだった。震えていない。迷っていない。


「私が、あなたに淹れた茶です」


レナードさんが顔を上げた。


目が合った。


「ヴィオレッタ」


レナードさんが杯を置いた。


「お伝えしたいことがあると書きました」


「はい」


「あなたの隣に立ちたい」


静かな声だった。


「宰相としてではなく。私個人として」


前にも似た言葉を聞いた。あの時は「隣にいてよいですか」だった。今日の言葉は、もう一歩踏み込んでいる。


「私もそう思っています」


自分の声が、思ったより落ち着いていた。


逃げなかった。壁を作らなかった。三年前の私なら、この言葉を聞いた瞬間に距離を取っていた。今はそうしない。そうしたくない。


「でも」


私は続けた。正直に。


「私はまだ答えを持っていません。あなたの隣に立つことが、あなたにとって重荷にならないか。平民のままこの工房にいる私が、あなたの傍にいることで、また同じことが起きるのではないか」


弾劾のこと。父のこと。身分の壁。全部が、まだ頭の中にある。


レナードさんは黙って聞いていた。


それから、静かに答えた。


「重荷かどうかは、私が決めます。あなたが決めることではない」


強い言葉だった。けれど声は穏やかだった。


「弾劾の時も、公爵が来た時も、私は自分で選んでここに来ています。あなたに強いられたことは一度もない。私が選んだことです」


「あなたが平民であることも、この工房にいることも、私にとっては重荷ではありません。むしろ」


レナードさんが、一度言葉を切った。


「あなたがここにいるから、私は来たいと思う」


この人は不器用だ。言葉を選ぶのに時間がかかる。感情を正確に言語化しようとして、いつも少しだけ遅れる。


でも、遅れた分だけ、言葉が正確だった。


嘘がない。飾りがない。ただ、事実だけが並んでいる。


「……ありがとうございます」


声が少しだけ震えた。少しだけ。


私は作業台の向こう側から回り込んで、レナードさんの向かいに座った。


杯を手に取った。同じ配合の茶を、自分の分も注いでいた。


一口、飲んだ。


同じ味。同じ香り。同じ温度。


二人で同じ茶を飲んでいる。


仕事ではなく。


「レナードさん」


「はい」


「私は、まだ全部の答えを持っていません。身分のことも、これからのことも。でも」


杯を置いた。


「逃げてはいません。考えています。あなたの隣に立つ方法を、まだ探しています」


レナードさんが頷いた。


「急ぎません」


「ありがとうございます」


「ただ、一つだけ」


レナードさんが少し前に身を乗り出した。


「帝都に、あなたを迎える場所を作りたい」


「迎える場所」


「宰相の伴侶として辺境の平民を迎えることは、帝国に前例がありません。制度上の障壁がある。けれど、制度は変えられる。前例がないなら、作ればいい」


この人らしい考え方だった。合理的で、正確で、制度の枠組みの中で解を探す。


「すぐにではありません。時間がかかる。けれど、準備を始めたい」


「……伴侶」


その言葉を、私は口の中で繰り返した。


まだ交際宣言もしていない。婚約も、何も。それなのに、この人はもう制度の話をしている。


可笑しかった。


少しだけ、笑ってしまった。


「何か可笑しかったですか」


「いえ。あなたらしいなと思って」


レナードさんが少し困った顔をした。それから、自分でも気づいたのか、口元が緩んだ。


「順番が違いましたか」


「だいぶ違います」


「そうですか」


「でも」


私は杯に手を添えた。


「嬉しかったです」


レナードさんが息を吸った。吐いた。


それから、静かに手を伸ばした。


作業台の上。杯の隣。


私の手に、レナードさんの手が重なった。


温かかった。


大きな手だった。書類を捌き、法令を書き、帝国を動かす手。その手が、私の手の上に、そっと置かれている。


振り払わなかった。


握り返した。


ほんの少しだけ。指先に力を込めた。


「ヴィオレッタ」


レナードさんが名前を呼んだ。肩書きなしの、名前だけの呼び方。


「レナード」


私も呼び返した。


「さん」が取れた。


初めてだった。


声が震えるかと思った。震えなかった。


ただ、胸の奥が温かかった。


窓から風が入ってきた。翠風堂の窓。三年間、毎朝開けてきた窓。同じ風が、同じ薬草の匂いを運んでくる。


三年前、この工房に一人で立っていた。銀貨四枚とトウキの根三束で始めた。


今、同じ工房で、この人と向き合っている。


手が重なっている。


茶の湯気が、二人の間でゆっくりと立ち上っている。


始まっている。


もう始まっている。


予感ではなく、実感として。


答えはまだ全部は出ていない。身分のこと、制度のこと、帝都と辺境のこと。解かなければならない問題は残っている。


でも、この手の温度を知っている。


この人の声を知っている。


この人が淹れた茶ではなく、私が淹れた茶を飲んでくれることを知っている。


それで今は、十分だった。


窓の外で、風が翠風堂の看板を揺らした。


竈の火が静かに燃えている。


翠風堂の日は、明日も続く。


(完)


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