第2話「宰相の帳簿」
「ラーゼン村の税収報告に、説明のつかない数字がある」
私は執務机の上に広げた帳簿を指で叩いた。
帝都ヴェルクハイム。宰相府の執務室。
窓の外には白い尖塔が並び、朝の鐘が鳴り終わったばかりだった。
護衛騎士のハインツが扉の脇に控えている。もう一人の護衛、ディルクは廊下で待機中だ。
「ラーゼン、でございますか。辺境の小村かと存じますが」
ハインツが眉を上げた。
「そうだ。人口二百に満たない農村で、特産品もなく、鉱脈もない。三年前の記録では帝国辺境税の最低納付額すら危うかった」
帳簿の頁をめくる。
「それが三年で、税収が一・八倍になっている」
数字は嘘をつかない。
だが、数字だけでは理由が見えない。
辺境の駐在官は一名体制だ。報告書には「農業生産量の増加」としか記されていない。
だが農地面積は変わっていない。灌漑の改良も、新品種の導入もない。
変わったのは別のものだ。
私は帳簿の横に並べた別の報告書に目を移した。
宰相府が独自に保持する非公式の情報網——各地の商人や行商人から集めた市井の声をまとめたもの。
公式の伝令が辺境から届くのに七日から十日かかるのに対し、こちらは商隊の移動に乗せて情報が流れるため、しばしば公式報告より早い。
その中に、繰り返し現れる記述があった。
「辺境に、よく効く薬草茶を売る工房がある」
商人たちの言葉は素朴だが、一致している。
関節痛が和らいだ。冬場の冷えが楽になった。長年の不眠が改善した。
薬草茶。
魔法治癒とは異なる、植物の煎じ薬による療法。
帝都では平民の気休めとして軽んじられている技術だが、慢性疾患への対処において魔法治癒には限界がある。
私はそのことを、誰よりも知っていた。
帳簿から手を離し、窓の外に目を向けた。
母は私が十二の時に亡くなった。
長年患った慢性の呼吸疾患。宮廷治癒師が何度魔法をかけても、一時的に症状を抑えるだけで根治には至らなかった。
父は最高の治癒師を呼び続けた。
私は文献を読み漁った。
どちらも、間に合わなかった。
あの頃から、魔法では救えない病があるという事実が、頭の隅に刺さったまま抜けない。
だから薬草茶の噂が目に留まった。
だから追跡した。
そしてたどり着いた名前が——。
私は机の引き出しから、一通の書類を取り出した。
帝国法務院に保管されている宮廷裁判の記録。
宰相の職権で閲覧を請求し、写しを取り寄せたものだ。
三年前の断罪記録。
被告はヴィオレッタ・ルーゼン。ルーゼン公爵家令嬢。
罪状は聖女マリエルに対する妨害行為および名誉毀損。
皇太子オスヴァルト殿下の主導により宮廷裁判が開かれ、婚約者であるクレーンヴァルト侯爵家嫡男アルベルトが婚約破棄を宣言。ルーゼン公爵家は娘を勘当し、以後の消息は記録にない。
記録の体裁は整っている。
だが、手続きとしては杜撰だった。
宮廷裁判には法務院の事前審査が必要だ。証拠の提出、証人の宣誓、弁明の機会の保障。
この記録には、そのいずれも正規の手順を踏んだ形跡がない。
皇太子が主導し、聖女の証言のみを根拠に断罪が行われ、法務院は事後追認という形で処理している。
皇太子の権威によって手続きが省略された。
侯爵家嫡男の婚約破棄は、本来必要な当主間の合意文書すら残っていない。
三年間、誰もこの不備を指摘しなかった。
皇太子に異を唱えることは政治的な自殺行為だ。法務院の官僚がそれを避けたのは理解できる。
だが理解できることと、許容できることは違う。
私は記録の写しを帳簿の上に重ねた。
辺境の税収異常。
薬草茶の工房。
三年前に消えた公爵令嬢。
手続きに瑕疵のある断罪記録。
四つの点が、一本の線になろうとしている。
「ハインツ」
「はい、閣下」
「辺境税収調査の名目で、ラーゼン村への視察を行う。私が直接赴く」
ハインツの表情がわずかに動いた。
宰相自ら辺境の小村に赴くことの異例さを、この男は理解している。
「護衛はお二方のみで、でございますか」
「そうだ。大人数で動けば目立つ。公式には辺境の複数村を巡る税収実態調査とする」
「承知いたしました。日程と経路を本日中にお作りいたします」
ハインツが一礼して退室した。
静かになった執務室で、私はもう一枚の書類を引き出しの奥から取り出した。
ルーゼン公爵家の家系記録。
公爵令嬢時代のヴィオレッタ・ルーゼンに関する記述は簡素だ。
魔力測定値:ゼロ。
社交界評価:礼儀作法および学術に優秀。
特記事項:なし。
魔力ゼロ。
それは帝国の魔力登録簿において、最も軽んじられる分類だ。
社交界では「呪われた血」と陰口を叩かれ、婚姻市場では致命的な欠点とされる。
だが私の知る限り、魔力ゼロの人間にはもう一つの特性がある。
魔法的な探知や精神干渉を一切受けない。
帝国情報局の監視網は魔力反応の追跡を基盤としている。
魔力ゼロの人間は、その網に映らない。
三年間、消息不明だった理由はそれだ。
誰も探さなかったのではない。探す手段の外にいたのだ。
私は書類を全て引き出しに戻し、鍵をかけた。
辺境への道程は馬車で十日。
その間に確認すべきことを整理する必要がある。
薬草茶の実態。
工房主の身元。
そして——三年前の断罪が、正当なものであったのかどうか。
感情で動いているつもりはない。
辺境の税収異常は公務として調査に値する。断罪記録の瑕疵は法務上の問題として是正されるべきだ。
だが、と思う。
母の枕元で、何もできなかったあの日。
宮廷の片隅で、手続きの不正を止める権限がなかったあの日。
あの無力さが、今の判断に影を落としていないと言い切れるだろうか。
私はその問いに答えを出さないまま、外套を手に取った。
出立の準備がある。
宰相府の廊下を歩きながら、懐に入れた一枚の紙片に触れた。
公爵家の記録に添付されていた、令嬢時代の筆跡見本。
社交界への提出用に残された、整った文字の一頁。
辺境の工房主が、もしこの文字を書く人間であるならば。
その確認は、十日後に自分の目で行う。
窓の外では、帝都の朝が白く光っていた。
私は執務室の扉を閉め、馬車の手配のために階段を降りた。




