第9話「名前の重さ」
私は、まだ答えを持っていない。
父が去り、弾劾が不成立に終わってから、数日が経った。工房の日常は戻っている。竈に火を入れ、薬草を煎じ、瓶に詰め、帳簿をつける。リーゼルが採取に出て、戻って、乾燥棚にカミツレを吊るす。
同じ朝。同じ手順。
けれど、頭の中は静かではなかった。
午前中、グスタフが来た。
定期の仕入れ便だった。荷馬車にヤナギソウの乾燥束と、帝都からの注文品の空き瓶を積んでいる。
「はい、これ。帝都の薬種商からの追加注文書。翠風堂の咳止め、評判いいよ。来月から倍にしてくれって」
「倍は厳しいです。リーゼルと二人では手が回りません」
「そうだろうね。まあ、できる範囲で。で、もう一つ」
グスタフが声を落とした。
「弾劾の件、帝都では決着がついたって認識になってる。宰相が議会で公務と私的訪問の記録を分けて出したって話、結構広まってるよ」
「そうですか」
「三名目の連名が得られなかったのは、皇帝の意向が効いたらしい。弾劾を画策した侯爵連中には、陛下から直々に警告が出たって話だ。宰相の職務に対する不当な干渉、ってね」
グスタフは注文書を作業台の上に置いた。
「つまり、宰相を攻撃しようとした連中が、逆に皇帝から睨まれた。世の中うまくできてるよ」
因果が巡っている。
冤罪で断罪に関わった者たちが処分を受けたように、不当な弾劾を仕掛けた者たちも相応の結果を受けた。
「ヴィオレッタさん、一つ聞いてもいいかい」
「はい」
「これからどうするの」
「どうする、とは」
「宰相との関係。公爵家との決着はついたんだろう。弾劾も片づいた。じゃあ次は、あんたがどうするかだ」
グスタフは商人だ。本質を突くのが仕事の人間だ。
「まだ、わかりません」
「そうかい。まあ、急ぐことじゃないね」
グスタフは荷馬車に戻り、残りの荷物を降ろして帰っていった。
工房に一人になった。
リーゼルは午後の採取に出ている。
私は帳簿を閉じて、窓の外を見た。
これからどうするか。
グスタフの問いが、胸に刺さったまま残っていた。
父との関係は決着がついた。弾劾は不成立で終わった。レナードさんは「近いうちに来る」と書いた。
脅威は消えた。
けれど、問題は消えていない。
私は平民だ。帝国公認の辺境薬草顧問という肩書きはあるが、爵位はない。社交界への参加資格もない。
レナードさんは宰相だ。侯爵家の嫡男。帝国の中枢に立つ人間。
その人の隣に、私が立つということ。
弾劾は今回不成立に終わった。でも、この先も同じことが起きる。宰相が平民の女に私的な関心を寄せているという事実は消えない。レナードさんとの関係が進めば、攻撃の材料は増え続ける。
かといって、身分を復帰させれば。
公爵令嬢に戻れば、社交界への参加資格を得る。宰相の隣に立つことの制度的な障壁は減る。
けれど、そうすれば翠風堂を失う。
公爵令嬢が辺境で薬草茶の工房を営むことは、制度上も社会通念上も成り立たない。身分を戻した瞬間に、三年間で築いたものが崩れる。
リーゼルの居場所。トーマスさんとの信頼。村の産業。グスタフとの流通。
全部、私が平民として積み上げたものだ。
どちらを選んでも、何かを犠牲にする。
身分を戻して宰相の隣に立つか。平民のままここに留まるか。
答えが出ない。
午後。
リーゼルが採取から戻ってきた。
カミツレの束を三つと、ヤナギソウの若芽を一握り。
「師匠、ヤナギソウ、今年は育ちがいいです。来月にはもう一回採れると思います」
「ありがとう。注文が増えてるから助かる」
リーゼルが乾燥棚の前で作業を始めた。花の向きを揃えて吊るしていく。丁寧な手つき。
「師匠」
「ん」
「難しい顔してます」
「……してる?」
「してます。グスタフさんが来た後からずっと」
見られている。この子にはいつも見られている。
「少し、考え事をしてた」
「どんな?」
「これからのこと」
リーゼルが手を止めた。振り返って、私の顔を見た。
「師匠、それ、急いで決めなきゃいけないことですか」
「急いで……いや、すぐに決めなければならないわけではない」
「じゃあ、急がなくていいと思います」
リーゼルが棚に向き直った。
「大きなことほど、時間がかかるものじゃないですか。あたしが工房のこと覚えるのだって、一年以上かかりました。師匠がここまで来るのだって、三年かかったんでしょう」
「うん」
「だったら、次の答えだって、すぐには出なくていいと思います」
十五歳の子が言う言葉とは思えなかった。
けれど、この子は三年間、私の隣で見てきた。時間をかけて積み上げることの意味を、身体で知っている。
「……ありがとう、リーゼル」
「はーい」
軽い返事。いつもの声。
けれどその言葉は、今の私に一番必要なものだった。
答えを保留する。
それは逃げではない。
まだ考えている。まだ探している。答えが出ないことと、答えから逃げていることは違う。
焦らず進む。
それが、今の私の選択だった。
夕方。
宰相府の定期便が届いた。
公式連絡の中に、公印のない封書が一通。
レナードさんからだった。
封を切った。
文面はいつもより長かった。
弾劾の処理が完了したこと。宰相府の通常業務が再開されたこと。辺境薬草顧問の次期予算が承認されたこと。
公務の報告だった。
けれど、末尾に一文。
『お伝えしたいことがあります。今度は、茶を飲みながら。』
茶を飲みながら。
公務の話なら「お伝えしたいことがあります」で十分だ。「茶を飲みながら」と付け加えるのは、この人なりの不器用な言い方だ。
来たい。会いたい。ゆっくり話したい。
それを、この人は「茶を飲みながら」と書く。
私は手紙を畳んで、棚にしまった。
それから、棚の奥に手を伸ばした。
レナードさんのために作った茶の配合。甘草を減らして角を取ったもの。小さな紙包み。ずっと温存していた。
紙包みを取り出して、作業台の上に置いた。
このまま出してもいい。でも、もう少しだけ改良できるかもしれない。前に試作した時より、もう少しだけ余韻を長くできないか。
私は棚からトウキの根を取り出した。
甘草の量を微調整する。蒸らしの時間を変える。温度を確かめる。
試作を始めた。
仕事ではない。
あの人のために淹れる茶だ。
リーゼルが奥から顔を出した。
「師匠、それ、定番品じゃないですよね」
「……練習」
「練習って、誰のための練習ですか」
私は答えなかった。
リーゼルは笑った。声を出さず、口元だけで。
「はーい。あたし、帳簿やってますね」
奥に引っ込んでいった。
窓の外に夕風が吹いていた。
乾燥棚のカワラヨモギが揺れた。
答えはまだ出ない。
でも、答えを出す準備を、少しずつしている。
それで今は、十分だった。




