第8話「最後の一杯」
竈の薪が爆ぜて、小さな火の粉が舞った。
父はまだ村にいた。
昨日、帰りの馬車に乗ったはずだった。けれど朝になってトーマスさんが伝えに来た。公爵の馬車は村外れの街道沿いに停まったまま、動いていない。従者が村の宿に一泊の許可を求めてきたという。
「もう一度、話がしたいそうじゃ」
トーマスさんの声は穏やかだったが、判断を私に委ねる目だった。
「……わかりました。工房に来てもらってください」
「いいのかね」
「昨日、断りました。でも、茶は出しました。最後まで出し切っていなかったのかもしれません」
自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ、父が去り際に茶を飲んだあの時間が、まだ途中だったような気がしていた。
昼前。
父が工房に来た。
昨日と同じ灰色の外套。けれど、昨日より少しだけ背が低く見えた。一晩、慣れない宿で過ごしたせいだろうか。
「失礼する」
父は昨日より声が小さかった。
椅子に座った。同じ椅子。同じ場所。
私は竈の前に立った。
鍋に水を張り、火にかけた。昨日と同じヤナギソウの煎じ茶。定番品。
杯に注ぎ、父の前に置いた。
父は両手で杯を持った。昨日と同じように。手は昨日より震えていなかった。
一口、含んだ。
「美味い」
同じ言葉。同じ掠れた声。
しばらく、茶を飲む音だけが工房に響いた。
「昨晩、考えた」
父が杯を置いた。
「お前に何を言えばいいのか、考えた。一晩考えて、わからなかった」
私は黙って聞いていた。
「三年前、お前が断罪された時、私は何もしなかった」
父の声が、一段低くなった。
「庇わなかった。庇えなかったのではない。庇わなかった。公爵家の政治的立場を守るために、娘を切り捨てた」
知っていた。
知っていたけれど、父の口から聞くのは初めてだった。
「あの判断が正しかったとは、今は思わない。だが、あの時の私はそう判断した。公爵家を守ることが、家門の全員を守ることだと信じていた」
「結果は逆だった。お前を失い、断罪が冤罪と判明し、公爵家の信用は地に落ちた。社交界で孤立し、後継も定まらない。全て、私の判断の結果だ」
父は杯を見つめていた。
「お前を守れなかった。守る気がなかったのかもしれん」
その言葉が、一番正直な言葉だった。
私は作業台の前に立ったまま、父を見ていた。
この人の言葉が本心かどうかを判別する必要はなかった。本心であっても打算であっても、結果は同じだ。三年前に起きたことは変わらない。
けれど、聞くことはできた。
聞くことが、今の私にできることだった。
「公爵閣下」
「……うむ」
「許すとか、許さないとか、そういう話ではないと思います」
父が顔を上げた。
「三年前のことは、もう終わったことです」
「終わった」
「はい。恨んでいるわけではありません。許したわけでもありません。ただ、終わったことです」
修復ではない。清算だ。
壊れたものを直すのではなく、壊れたことを認めて、そのまま先に進む。
父は長い間、黙っていた。
杯の中の茶が冷めていくのが見えた。
「そうか」
掠れた声だった。
「終わったことか」
父の目が赤かった。涙をこらえている。公爵としての威厳が、ぎりぎりのところでそれを止めていた。
「……達者でな」
父が立ち上がった。
杯を作業台の上に置いた。丁寧に。音を立てずに。
戸口に向かった。
今度は振り返らなかった。
「公爵閣下」
私が呼び止めた。
父の足が止まった。
「茶は、いつでもお出しします。翠風堂の客として来られるなら」
父の背中が、わずかに揺れた。
何も言わず、戸口を出た。
トーマスさんが外で待っていた。
馬車まで案内する背中が、村道の向こうに消えていく。
私は工房の入口に立って見送った。
門の外。
同じ場所。
レナードさんを初めて見送った時は、門の外に立つことが精一杯だった。レナードさんを二度目に見送った時は、去る背中を見ることの辛さを知った。
今日は、父を見送っている。
同じ場所で、意味が変わっていく。
見送ることが、少しだけ楽になったわけではない。見送ることの重さを知った上で、それでも立っている。
馬車が動き出した。漆黒の車体が、土の道を揺れながら進んでいく。
勘当撤回の申請は行われない。私が同意しないことを、父は理解した。
公爵家との関係は「断絶」から「決着」に変わった。
敵ではない。家族でもない。ただ、終わったことを認め合った二人。
それで十分だった。
夕方、宰相府の定期便が届いた。
公式連絡の封書に混じって、公印のない手紙が一通。
レナードさんからだった。
封を切った。
文面は短かった。けれど、前回よりも少しだけ長い。
『弾劾の発議は不成立に終わりました。三名目の連名が得られず、発議の要件を満たしませんでした。詳細は追って正式に通達されます。』
息が止まった。
不成立。
終わった。
『帝国議会において、辺境薬草顧問との連絡は宰相府の管轄業務であると回答し、公務の記録と私的訪問の記録を分離して提示しました。私的訪問の事実は否定しませんでしたが、公務との混同がないことを立証しました。』
この人らしいやり方だった。嘘をつかず、事実を正確に分けて、制度の枠組みの中で正当性を示す。
『なお、皇帝陛下から派閥貴族に対し、「宰相の職務に対する不当な干渉」として警告が発されました。』
因果が巡っている。
宰相を攻撃しようとした者たちが、逆に皇帝から警告を受けた。冤罪で娘を断罪した者たちが社会的信用を失ったように、不当な弾劾を仕掛けた者たちもまた、相応の結果を受ける。
手紙の末尾。
『近いうちに、もう一度伺います。今度こそ、ゆっくりと。』
私は手紙を胸の前で畳んだ。
目を閉じた。
父との決着がついた日に、レナードさんからの報せが届いた。
偶然だろう。
けれど、この日に届いたことに、意味を感じずにはいられなかった。
終わったものがある。
続いているものがある。
棚の奥に、レナードさんのために作った茶の配合がしまってある。甘草を減らして角を取ったもの。ずっと温存していた紙包み。
次にあの人が来た時に出す。
今度こそ、ゆっくりと。
リーゼルが奥の部屋から出てきた。
「師匠、今日の仕込み、終わりました。明日の分の下ごしらえもやっておきました」
「ありがとう」
「師匠、顔色いいですね。朝よりずっと」
「そう?」
「はい。なんか、すっきりした顔してます」
すっきり、という言葉が合っているかはわからない。
けれど、胸の奥にあった重たいものが、少しだけ形を変えた気がした。
消えたのではない。形が変わった。
抱えられる形に。
窓の外に夕焼けが広がっていた。山の稜線が赤く染まっている。
明日も竈に火を入れる。
けれど、明日からは少しだけ違う朝が来る。
父との過去に決着がついた朝。
レナードさんの訪問を待つ朝。
翠風堂は続く。




